EX22. ハルの選択
私が彼女と出会ったのは、従業員を探す旅の途中だった。
リタルサイド郊外に、施療院がある。
長期療養が必要な、けれど重傷ではない患者がゆったりと日々を過ごしている場所だ。
その中の一室に、彼女はいた。
彼女は、ノックにも、部屋に入ってきた私にも、反応を示さなかった。
羊のぬいぐるみを抱きしめながら、ぼんやりと宙を見つめていた。
その目に光はない。
ダークエルフの長い耳は下がり、髪はぼさぼさだった。
「こんにちは」
「…………」
視線が上げられ、じっと私を見つめる。
「……こんにちは」
そして、抑揚のない声で返事があった。
「私はデイジー。あなたのお名前は?」
もちろん、私は彼女の名前を知っている。
けれど彼女は私の名前を知らない。――多分、以前に名乗っていた、有名すぎるほど有名な"病毒の王"の称号さえ。
「……ハールーシェ……らしい」
らしい。
彼女は、ぽつりと続けた。
「……実感、ないけど」
「……実は私も、ね。昔の記憶、ないんだ」
「そう、なの?」
彼女に、少しだけ生気が見えた。
彼女は私に興味を持ってくれた。
「うん。自分の名前も……家族も、友達も、みんな、名前覚えてないの。それに、誰もいなくて……ひとりぼっち……」
「私とおんなじ……」
「……でもね。今はもう、違うんだ」
「あ。デイジー……って、言ってた。よね」
「うん。……デイジー・フィニス。私の大好きな人と、一緒に考えた名前だよ」
「大好きな人?」
私は、微笑んで頷いた。
「そう。……お嫁さん。『・フィニス』は、彼女の名字なんだ」
「……嫁? ……あ。女同士で結婚する人もいるって……」
彼女は納得がいったように頷いた。
「……私、いたのかな。そういうひと」
「それは……分からないね」
私は彼女の事を、少ししか聞いていない。
ブリジットと共に、あのイトリアに臨んだ、暗黒騎士。
「……デイジー」
「ん?」
「私に、名前を考えて」
「え?」
「このままじゃ……ダメだと思うの。それは分かるの。でも、どうすればいいか、分からないの……」
彼女は、苦しそうに言った。
無理もない。記憶の欠落が大きすぎるのだ。果たして、行動の基準さえ、あるのかどうか。
それでも彼女は、一歩を踏み出そうとした。
ならば、その手を取るべき誰かが要る。
彼女の戦友達は、きっとその役目を果たして見せるだろう。
ブリジットや、他の誰でも、仲間に労を惜しむ騎士などいない。
けれど。
今の彼女は、暗黒騎士ではないのだ。
「じゃあ……」
私は口元に手を当てて、少し考えた。
ふっと浮かんだ名前を、口にする。
「……ハル」
「はる?」
「ハールーシェを縮めて、ハル。……どうかな?」
「……ハル」
彼女が呟くように繰り返す。
そして、彼女は頷いた。
「――私は、ハル。そういう事にする」
その瞬間から、記憶をなくした暗黒騎士、ハールーシェ・リーンフェストは。
ただのハルになった。
「……ちょっと、散歩にでも行かない?」
「行く」
ハルが頷いて、羊のぬいぐるみを置いて立ち上がる。
ころん、と転がったそれをそっと直すと、私の元へ歩み寄った。
私より、ちょっと背が高いのに、雰囲気はだいぶ年下だ。
私は、ほとんど無意識に手を差し出していた。
「……?」
ハルが首をかしげる。
思わず子供扱いしてしまった事を反省し手を引く――前に、彼女は差し出された手を掴んだ。
握った手をしげしげと眺め、やがて興味をなくしたらしかった。
しかし放り出す事はせず、握ったままにする。
「行こう、ハル」
「ん」
私とハルは、手を繋いで部屋の外に出た。
まずは、施療院の広い庭を歩こう。
後でリズと、バーゲストを紹介するつもりだ。
――その後、従業員探しの旅の途中だという事を伝えると、興味を示し……施療院の院長と、ブリジットと相談の上、共に旅をする事になった。
彼女は、表面上はあまり変わらなかったが。
それでも、旅が終わる時、一つ自分で選択をした。
施療院に戻るか。
――私の元に来るか。
彼女は、私の元に来る事を選んだ。
そして、彼女はリタル温泉のメイドのハルになった。




