サマルカンドの我が儘
私は、柔らかな日差しの差し込む談話室で、しみじみと息をついた。
「あー、みんなとこうしてお茶するのも久しぶりだねえ」
この屋敷と『お別れ』してからまだ一年も経っていないというのが、信じられないほど。
下山して、まずは久しぶりの自宅をリズと二人でゆっくりと楽しんで、次に来たのはここ……『"第四軍"の管理下にある宿舎』。
以前は"第六軍"紋章だった紋章旗は、今は"第四軍"紋章だ。
しかし、屋敷の住人は、私とリズ以外変わっていない。
サマルカンドは"第五軍"に戻り、"旧きもの"、リストレア様の下で働いている。
……が、引き続きここに住んでいるし、出向という形でレベッカの指揮下になっているので、やはりあまり変化はない。
元序列第一位から第五位までの五人で、思い思いにくつろいで、談話室でお茶をしている。
レベッカが、ティーカップをローテーブルに置いて微笑んだ。
「そうだな。……仕事は、どうだ?」
「割と滑り出しは順調だよ。まだまだ知り合いとか、『上司に骨休めを勧められた』軍人さんが多いけど……それでも噂になってるみたいで、そういうお客様ばかりじゃないしね」
「ああ……。私も噂になっているのが少し気になったからな。シノに聞いてみたら、都市伝説扱いらしいぞ。『あのリタル山脈に一晩で温泉宿が出来た』――とかなんとか」
「え、なにその噂。……いや、レベッカって、シノさんといつのまにそんな仲良くなったの?」
とりあえず、一晩で出来た事実はない。
しかしそれより、さらりと出た情報源の方が気になった。
「今までも、顔を合わせてただろう。そんなに不思議でもないと思うが」
「いや、まあ……そうだけど」
近衛師団の暗殺者の補充の時からこっち、折に触れて会っている。
私が、リズとシノさんに稽古をつけてもらった時など、レベッカが迎えに来てくれる事もあった。
でも、私がいない時は、何を話してるんだろう。
「普通の温泉宿らしい噂もあるけどな。『山海の珍味が揃っている』、『グルメなら一度は行くべき』、『リタル山脈の山頂で入る温泉は格別』、『こんな所で温泉に浸かろうと考えた奴は頭おかしい』とか」
「ねえ。最後の普通?」
幅広い層から頭おかしいって言われる。
「褒め言葉だろ。多分」
「褒め言葉ですよ。多分」
レベッカとリズが、揃って頷く。
「……うん、まあ」
良くも悪くも、競合はいない。いるはずがない。
もし他に『頭おかしい』奴がいても、リタル様は許可を出さないだろう。――独占とかそういう話ではなく、安全面で。
私はかなり安全面に気を遣っている。
一度でも事故を起こせば、それで終わりだ。少なくとも送迎中に人死にを出せば、存続も難しいだろう。
宿そのものは元々軍施設で堅牢なつくりだし、私やディアナを始め、なんで温泉宿にいるのか分からないレベルの魔力持ちが、各種術式を維持している。
移動は、リベリットシープを、あのリベリット槍騎兵が訓練という名目で駆り、さらに黒妖犬が周辺警戒と先導役を務める。
魔力生命体だからか、毛皮が特別製なのか、黒妖犬は寒さに強い。
なので、雪山で、深い雪の中を遊ぶ楽しみを覚えた。
「ところで、『メイドが吹雪の中で黒妖犬に襲われているのを見た』とかいう噂が流れてきてるんだが」
「襲われてない」
見られてた。
「ああ。『支配人』が全員いると太鼓判を押したし、他の者も、『そんな事あるはずがない』という自然な態度だったという話だな」
ジト目のレベッカ。隣のリズにも横目で湿度の高い視線を送られる。
支配人は私だし、他の者は『メイドがバーゲストに襲われるはずがない』と分かっている。
娯楽が少ない事もあり、男女問わずバーゲストとの触れあいも人気だ。
それを目当てに働いている人もいるほど。
レベッカがため息をつく。
「……何があったのかは大体察するが、あんまり都市伝説を増やすな」
「うん……気を付ける」
心配してくれているのが分かったので、大人しく頷いた。
お茶の時間という事で、付き合いで水の入ったティーカップを持っていたハーケンが、口を開く。
「主殿。"第四軍"……だった者達は、息災か?」
「生き生きと働いてるよ。夜のシフトが多いけどね」
"第四軍"、死霊軍はその名の通り、リストレアの不死生物がほとんど全て所属していた。
少数ながら他軍に所属する者もいるが、魔王軍に所属していないアンデッドは、一人もいなかった。
安全のために、アンデッドはその全てが軍へ所属する事が義務だったから。
不死生物の安全のためだ。
アンデッドの強さは、様々だ。
どの程度周辺を害する――害してしまう――のかも。
うちの死霊騎士や死霊暗殺者達は、戦後は地下室にいる事が多かった。
抑えていても、緩やかに周辺の生命力を吸い取ってしまうほどだったから。
少人数だから、なんとかなっている。
これで数が多ければ……王都の周辺には、置いておけなかっただろう。
それでも私は、全員が生き残ってほしかったと思うけれど……。
"荒れ地"は、元から荒れがちな土地だった。
だからこそ、エルドリッチ様は、不死生物達をそこへ集めた。
今よりも、アンデッドとそれ以外の種族の隔絶が遙かに大きかった時代。
特に獣人達との仲は悪く、ダークエルフや……ある意味似た者同士のデーモンとさえ、仲が良かったとは言えない。
エルドリッチ様は、その全てを先送りにする決断を下した。
一朝一夕で差別がなくなる事はない。だから――ひとまず、無用にぶつからない環境を、と。
第七次までを数えた"リタルサイド防衛戦"が、回を重ねるごとに、その溝は浅くなっていった。
共に肩を並べて戦い、不死生物とはどういう存在なのかを幼子にも分かるように教え……信頼を積み重ねて、ここまで来た。
……彼らにとって、"第四軍"を出て私の元へ来るというのが、どれほど重かったのか。
あの時の私には、本当には分かっていなかった。
私が――本当に彼らの主に相応しかったのかは、分からない。
けれど彼らは、私を主と呼んで、信じてくれた。
ハーケンが、剥き出しの歯を隠すように口元を骨の手で覆った。
「……生き生きと、か。アンデッドにそのような言葉が似合う日が来るとは、思ってもみなかった」
暗い眼窩に燃える、青緑の鬼火が細められる。
長い長い、戦争があった。
負ければ、全て滅ぼされる。そういう戦いだった。
私達は、殺されないために戦った。
そして、リストレアという国を守るために。
全ての種族が手を取り合って、笑える国のために。
私達が殺して、殺されて……そんな風に戦ったのは、この未来のためなのだ。
不死生物が、お茶を飲む真似事をして、友人達とテーブルを囲むような――そんな世界。
私も微笑んで、最後の一口を飲んで、空になったティーカップを置いた。
そして立ち上がると、ソファーに座っているサマルカンドの前に立つ。
深く腰掛けているのに、目線が丁度いい。
「――さて、サマルカンド。考える時間はあっただろう。遅くなったが、遠慮なく『我が儘』を言え」
すぐには思いつかないとの事で、保留していた。
以前彼が言った、『我が儘』は……『レイラが私にナイフを向けた事実を水に流し、彼女を助ける』事。
自分の偽物は許せないし、レイラの事情を聞けば味方してやりたくなる。レベッカの言ったように、とても我が儘と言えるようなものではなかった。
サマルカンドの忠誠は疑いようがない。……しかし、十年以上を経てもなお、サマルカンドは私に丁寧すぎるほど丁寧に接する。
"血の契約"という、刑罰として使われるような、絶対的な契約の名の下に従属しているのだから、当然かもしれない。
けれど、だからこそ……私は……主と従者という形でも、彼に、もう少し自分というものを、出してほしかった。
「……は。考えさせていただきました」
私だけでなく、全員がじっとサマルカンドを見た。
この分だと、誰にも言っていないらしい。
彼はぬっと立ち上がり、私は視線を上に向けて……また下に向けた。
片膝を突いてひざまずいたサマルカンドが、そのたくましい胸に手を当て、黒山羊の顔に真剣な表情を浮かべ、口を開く。
「我が主の家に、招待してはいただけませぬか?」
「……私は、我が儘を言えと言ったんだぞ? 何を当たり前の事を……」
レベッカが立ち上がり、私の腕に軽く手を触れて、言葉を遮った。
「お前にとってはそうかもしれないが、サマルカンドにとっては、十分に我が儘……自分の望みだ」
「……そう?」
確かにサマルカンドが私に言う『我が儘』は、私には上手く想像出来なかった。
それを言えというのは、無茶振りというものかもしれない。
しかし、そんな当たり前の事をどうして、我が儘だなんて。
「私達は……遠慮していたからな。押しかけても迷惑かと……」
「迷惑?」
私はレベッカの言葉を、眉をひそめてオウム返しにした。
「ああ。退役というのは……一区切りだろう。だから、その……軍時代の事は、あまり思い出したくないかと……」
少し寂しげなレベッカを、思わず思いきり抱きしめた。
「うわぷ」
妙な声を上げるレベッカを、抱きしめたまま一回転して、振り回した。
そして元の位置でとん、と立たせると、呆れ顔のレベッカが私をじとーっとした目で見る。
「なんだ急に」
ぐしゃぐしゃになった髪を整えながら、彼女の頭を撫でる。
「いつでも来て。……いつだって、歓迎するよ。迷惑だなんて、思うものか」
死線を共にくぐりぬけた人達の事を、思い出したくないなどと、どうして思うだろう。
あの戦争の事は……楽しい思い出とは、とても言えない。
けれど、今はもう戻らない日々の日常が、あれほど鮮やかに思い出されるのは。
非力な人間の身で病と毒の王を名乗りながら……それでも、私が、全てを投げ出さなかったのは。
私を信じてくれる人達が、いたからだ。
サマルカンドが、頭を下げる。
「……は。では、手土産を持って行きましょう」
「あまり気を遣うな。お前の要望……『我が儘』だぞ」
サマルカンドが、軽く笑った。
「これは、私の我が儘です。我が主」
「……そうか」
私も、苦笑ではあるが、笑って頷いた。
それが――そんなものが、彼にとっての『我が儘』だというのなら。
せめてそれを叶えてやるのが、主の務めだ。
一度、その重みも知らないままに"血の契約"を結び――その重みを知ってさえ、もう一度彼の全てを縛った、私の務めだ。
そっと後ろに控えたリズを振り返る。
いつでもとは言ったが、留守にする用事もあるし、準備もある。
「いつにしようね? リズ」
「明日でもいいですよ」
頼もしい返事だった。
「……ところでサマルカンド。たまには、本当に本当の『我が儘』言ってもいいんだからね?」
私の黒山羊さんは、細い横三日月の目をさらに細めて、微笑んだ。
「善処いたします」
サマルカンドは長い付き合いなので、「善処します」というセリフが、私の故郷ではあまり改善するつもりがない時に使う言葉だと知っている。
引き続き、今と同じ関係を、お望みらしい。
全く、なんて困った――我が儘な――黒山羊さんだろう。




