山頂に待つ絶望
彼女は、雪に埋もれて止まりそうになる足を、懸命に動かして進んでいた。
雪山には不似合いな薄着。まるで近所の森へ山菜採りへ行くような、地味な色のシャツとスカートに、赤いスカーフだけという軽装。
手袋はしているが、作業用の革手袋で、足下も普通のブーツだ。
夏とはいえ、リタル山脈を踏破するにはあまりにも頼りなかった。
栗色の髪に垂れた犬耳、同じ色の尻尾が示すように獣人であっても、防寒になるほどの毛皮はない。
魔法の助けがあってさえ、絶望的な道行き。
それでも、歩き通さねばならない理由があった。
「灯り……!」
夜が迫りつつある薄闇。
雪こそ降っていないが、吐く息は真っ白で、耳の先から肺の内まで冷え切っているようだった。
見えてきた小さな灯りは、あの"四番砦"のものだろう。
もしかしたら『奴ら』に通じているかもしれない――そんな思いが彼女の胸の内に生まれる。
それでも。
もう、リストレア魔王軍に、あの非道の悪鬼はいないのだ。
「……ん?」
私は顔を上げた。
「どうかしました?」
隣のリズが私を見た。
今は、二人並んで厨房で夕食の準備中だ。
丁度、煮込みなおせばいい状態にしていたシチューを鍋に入れたところ。
以前とは違い、私も荷物を持てるので、長引いた時に備えて保存食なども持ってきている。
軍施設としては廃棄が決定され、既に無人ではあるが、解体か、非常用の山小屋としての利用を視野に入れるかは検討中だったとは、"第一軍"の副官のクラド様が教えてくれた事だ。
なので薪や食糧はまだ備蓄が残されているのだが、一応自、分達の分は自分達で持ってくるようにした。
正式に買い取るとなれば、備蓄も込みで買い取った方が面倒がなくていいだろう。増改築中に使う機会もあるはずだ。
私はリズを見返した。
「……黒妖犬の警戒網に何か引っ掛かった」
「――何ですか?」
リズの顔が一瞬で引き締まる。
歩哨代わりに数匹の黒妖犬が砦の周りを固めている。
「いや、なんとなくしか分からないけど……普通の人……っぽいような?」
「普通の?」
「軍人さんっぽくないし、魔力反応がやけに小さいというか……」
黒妖犬の警戒網は、群れに対する警告というのが一番近い。
危険かどうか位は分かる……と言いたいが、一番危険なのは、それを悟らせない相手だ。
「……暗殺者の可能性がありますね」
「遭難者かも」
私達は顔を見合わせた。
可能性は両極端の物が同時に存在している。
「――三人に声をかけよう。どっちにしろ、全員で確認に行こう。こっちに向かってるみたいだし……バーゲスト達を迎えに行かせるよ。普通の敵ならそれだけで倒せると思うし」
「もし遭難者だったら、雪山で黒妖犬に遭遇するのは、ちょっと刺激が強くないですかね」
「その辺の告知、まだ行き渡ってないんだよね……」
"第三軍"の魔獣師団にて運用されている黒妖犬に関しては、まだまだ機密指定されている情報も多い。
既に数件の遭難で、救助犬よろしく発見に貢献した功績はある。
しかし助けられた人は例外なく『死神がお迎えに来たかと思った』というような意味の感想を抱いたらしい。
「――いやあああああああああああ!?」
思ったよりも近くから、絹を裂くような悲鳴が聞こえた。
「……あの、やっぱ刺激強かったんじゃないですかね」
「……うん」
反省。
とりあえずバーゲスト達には手を出さないように厳命しつつ、三人と合流すべく厨房を出た。
手早く、黒妖犬の警戒網に引っ掛かった者がいて、一応暗殺者の可能性も考慮に入れつつ、遭難者救助を前提に動くと伝えて砦を出る。
遠巻きに三匹のバーゲストに囲まれているのは悲鳴の主らしい女性で、栗色の髪と垂れ耳にふさふさの尻尾を持つ、犬系の獣人だ。
しかし、装備が……軽装すぎた。
防寒具らしい防寒具を着ていない。
取り囲むバーゲストに対して震える手で短いナイフを抜いて構えているが、そのナイフにしても作業用の物にしか見えなかった。
リズの、今も両手に持っている、ナイフと呼んでいいのか分からない大型格闘用ナイフと比べるべくもない。
これは特殊な例だけど。
私に対して過保護なサマルカンドが、万が一に備えてと言って聞かないので、私は彼の陰に隠れるようにしている。
レベッカにささやいた。
「レベッカ、お願い」
「私か?」
「私とリズは、もう軍人じゃないから名乗る立場ないし」
「分かった」
レベッカが頷いて、声を張り上げる。
「――私達は、リストレア魔王軍の者だ! 黒妖犬は当方の支配下にある。助けられる事はあるか?」
「……軍の……ひと……?」
見るからに彼女の緊張が緩んだ。
ナイフを腰の鞘に収め、よろよろと歩いてくる。
「良かった……。助けて……助けて、下さい」
かすれ声。
余程辛い目に遭ったのだろう。
事情を聞かねばならないが、遭難者ならまずは身体を温めてあげないと。
上位死霊としての能力を引き出した戦闘用モードという事もあり、サマルカンドの陰から出て挨拶する。
「こんにちは。私達に出来る事があれば――」
「……"病毒の……王"?」
こちらへ向かっていた彼女の足が止まる。
小刻みに震えていたが、より強い寒気に襲われたようにガタガタと震え出す。
そして腰の鞘からナイフを再び引き抜き、私に突きつけた。
サマルカンドが大鎌を召喚し、ハーケンが剣を抜く。
リズもナイフを構え、レベッカもワンドを抜いた。
震えた手から、するりとナイフが落ちて、足下の雪に埋まるように突き立った。
「っ……私……馬鹿だ。……全部……全部、分かってて遊んでたんだ……」
彼女の目尻に、涙が滲んだ。
顔を覆った手の隙間から涙と嗚咽が漏れる。
何かひどい誤解をされているような。
こちらは、何も分かっていない。
思わず、自分の恰好を見た。
深緑のローブに若草色のローブを重ね着し、首には三種の護符を下げ、金糸でルーンを縫い込んだ黒い肩布を垂らし、手には禍々しい杖を持つ。
仮面こそ着けていないが、これは"病毒の王"の正装だった。
誤解では――ないのだろうか?
「みんな……みんな、お前がっ……」
彼女は震えながら、それでも足下のナイフを拾い上げて、両手で握りしめた。
そして私に向かって駆け寄ってくる。
「"――」
「待て、サマルカンド」
術式が分からないが、呪文を詠唱しようとしたサマルカンドを止める。
持っていた杖を捨てて、両手を広げた。
「待って! 敵じゃない!」
「聞くものか!」
叫び返しながらも走り寄ってくるが、その速度は遅い。
雪に足を取られているせいだ。
雪山用のブーツではない。見た目からしてそうだが、魔法効果もないらしい。
皆を制しつつ、前に出た。
ナイフが突き出されるが……本当に突き出しただけといった動きで、正直話にもならない。
エルドリッチさんに仕込まれた柔術的な技を使うまでもなく、手首を軽く掴むだけで止められた。
身体能力が違いすぎる。
彼女の顔がくしゃりと歪み、そして憎しみと絶望を湛えた焦げ茶の瞳が私を睨み付けた。
「地獄に落ちろ、非道の悪鬼め……!」
生々しい憎しみ――この十年で、随分と遠いものになった、ひとの悪意と敵意。ぐつぐつと沸き立つ、煮えた汚泥のような感情。
私は……それを浴びせられるべき存在なのだ。
「みんな……ごめん」
彼女の顔から表情が抜け落ちて……それから、彼女は静かに笑った。
全身から力を抜いて、膝から崩れ落ちるように倒れ込む。
抱き止めるが、もう気絶していた。
途方に暮れた気分で、後ろの四人を振り返る。
「……どうしよう?」




