EX19. 新たな目標
「マスター、私達、このままじゃダメだと思うんです」
退役後の、リズと私の新生活も一ヶ月。
夕食の席で、リズがそんな事を言い出した。
特に不安要素もなく、全て順風満帆だと思っていたが、あまりの爆弾発言に脳が止まる。
そしてガチャ……と、手からスプーンが滑り落ちて皿に当たって立てた音で、脳が再起動した。
「え、あの……別れ……話?」
震える手でスプーンを取ろうとしたが、上手く掴めない。
彼女の言葉を脳が認識した瞬間から、胸の中に重く冷たい塊が出来て、ずしんと心に重石となって乗っているようだった。
「……は?」
リズが眉をしかめる。
「別れ話なんてするはずないじゃないですか」
「だって、私の故郷では『私達、このままじゃダメだと思う』は、大抵別れ話に繋がるから……」
「……まあ、リストレアでもそうかもしれません」
やっぱり。
「でも、そういうつもりはさらさらありません。安心して下さい」
リズの言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。
私は席を立つと、テーブルを挟んだ向こうのリズの元に歩み寄った。
「マスター?」
近付いて、ぎゅっと抱きしめる。
「……食事中ですよ」
「怖かったから……」
「……信用して下さいよ。いきなりそんな事言うと思いますか?」
「声のトーンが本気だったから、これがその第一歩かもって」
抱きしめている彼女のぬくもりが……抱きしめ返し、私の髪を撫でるリズの手の感触が、心に生まれた冷たい不安をゆっくりと溶かしていくようだった。
しかし、不安の核は消えずに、しこりのように胸の奥に残る。
「……やっぱりマスター、打たれ弱いですよね」
「もう取り繕う必要もなくなったし」
魔王軍最高幹部として望まれた私の姿は、人類の怨敵にして非道の悪鬼。どんな無理難題に対しても立場を盾に、毒の滴るような口調でゴリ押しする、傍若無人な戦争の英雄だ。
今はもう、そうでもない。
"第六軍"の解体と"病毒の王"の退役は街の噂にはなったが、それだけだ。
今の私は、王都の城下町の一軒家を借りて、リズと住んでいる。
特に何もしていない。平和な時代を満喫している。
落ち着いたところで身体を離し、リズに軽く促されて自分の席に戻る。
「……それで、リズ。どうして『このままじゃダメ』なんて言いたくなったの?」
「だって、マスター、退役してから何もしてませんよね」
「…………」
特に何もしていない。
特に何も、していない。
「今日した事、言えますか?」
「……リズと買い物がてら散歩して……バーゲスト達と遊んで……それで……」
おかしい。リズのごはんと、リズのおやつと、腹毛に顔を埋めた記憶しかないとはどういう事だ。
「それはまあ、今まで気を張っていたんだろうなって思いましたよ。新居に慣れる時間も必要だと思いますし」
「だよね」
「でも、もう一ヶ月ですよ?」
「……収入はあるよ?」
今の我が家の収入は、主にハーケン達のために準備した牧場や、クラリオン達も利用している劇場関連だ。
二人がつましく暮らすには、全く問題ない。
「最高幹部の時ほどじゃありませんし。それに、不労所得だけあって、ごろごろしてるってそれ、駄目人間まっしぐらですよね」
「…………」
痛い所を突かれた。
「……後、『最高幹部としてキリッと振る舞う時の釣り合いを取るため』とか言ってた事ありますけど、やっぱりあれ嘘ですね」
私は、首を横に振った。
「いや、嘘ではない。ただ、そうじゃない時の私は家で大好きな人と一緒にのんびりしていたいタイプってだけだよ」
リズのマフラーがぴこりと揺れた。
「……まあ、マスターが幸せそうなのは喜ばしい事です。ただ――こんな生活をずっと続けてたら、どこかでダメになります」
「うん……」
貯金はあるが、収入が途絶えるかもしれないし、何があるかは分からないのだ。
いざという時に頼れる相手はかなり思いつくが、同時に迷惑は掛けたくない相手ばかりだ。
さらに言うと、そういう相手には、あまり駄目な姿も見せたくない。
「……後、私がダメになりそうです」
「リズが? どうして?」
「だって、マスターは私を甘やかしすぎです」
はて。
「……どの辺が? 相変わらず、リズには家事をほとんど任せちゃってるし……あ、私も分担する?」
「その辺が甘やかしてますね。……私、今、無職なんですよ。家事もしなくなったらダメ嫁一直線です」
そういえば。
リズはずっと軍人として生きていた。――兵士として、暗殺者として。副官として。……後、メイドとして。
それら全てが、なくなったのだ。
「大丈夫。我が家の収入は別に私だけの物じゃないから、私も無職と言っても過言ではないね」
「……何が大丈夫なのか分からない発言はやめて頂けます?」
もっともだ。
「……何かしてないと、不安なんです。バーゲスト達に気を遣われる始末ですよ」
「……ちなみにどういう風に?」
「私に遊びをねだる回数が明らかに増えました。具体的に言えば、私が屋敷を巡回したり、王城へ行ったりしていた分ぐらい」
なるほど。
バーゲストが私になついているという事は、私が大好きなリズに対してもなついているという事。
「この家は、屋敷と違って掃除する場所も少ないですし、食事を作る量も減りましたし……こうなったらもういっそ、平日の昼間は屋敷に戻ってメイドとして働こうかなって思うぐらいで……」
「いや、それはさすがになんかおかしくない?」
前の家――『元』"病毒の王"の屋敷は、サマルカンドとハーケンの所有になっている。
レベッカも、一度は私室を引き払ったように見せかけるまでしておいて、あっさり入居し直した。
なんでも、十年ちょっと使い込んだ地下の実験室は捨てがたいのだとか。
私が「思い出もあるんじゃない?」と、ちょっとからかってみたら、レベッカは平然と「ああ、そうだな。……お姉ちゃんとの思い出とか」と、にこっと笑って返してきた。
完敗。
あの屋敷は軍施設であり、軍施設の譲渡には機密保持の観点からしかるべき理由が必要となるが、私の前にはしばらく住人がいなかったような代物だ。
サマルカンドとハーケンは相応の額を積んだようだし、関係者への根回しも万全で、さしたる問題はなかったとか。
……魔王陛下と最高幹部五人が承認して通らない事案があるだろうか? いや、ありはしない。
そこで、リズがちょっと目をそらす。
「……後、夜の生活が……ですね……」
「……何か、不満が?」
「……ないです。ないですけど。……こういうのを多分『爛れた生活』って言うんですよね」
「……い、いや。夫婦だし、多少はね?」
爛れてはいないと思う。
多分。
「明日から頑張るよ。……だから見捨てないで下さいお願いします」
「……見捨てませんよ」
後半早口になった私に、呆れ顔になるリズ。
そして真面目な顔になった。
「狩人でもやります? エスタさんは、非番の日は狩人やってるそうですよ」
リズのハンター風衣装を思い出す。
仕事用ではあるが、リズの服の中では私服に近いし、活動的で可愛い。
弓兵のエスタさんほどではないだろうが、リズは弓も扱えるし、槍を使った狩りの経験もあるらしい。
しかし。
「……黒妖犬を猟犬代わりにしたら、それでいいやってならない?」
「……なりそうですね。いや、そういう猟犬任せの狩りもあるにはあるんですけど……」
うちは猟犬の性能が『良すぎる』。
それはまあ、この子達はそれぐらい喜んでやってくれるだろう。
……が、群れの一部は今も"第三軍"で真面目に働いている。
カトラルさん指揮下の魔獣師団で、本格的な運用が既に始まっている。今の所、災害時――主に遭難――の救助活動などに留まるが、いずれ規模が拡大すれば、予防的な僻地の巡回警備や、少ないが厳然として存在する犯罪への抑止力として使われるかもしれない。
――それは、行き過ぎさえしなければ、私のあずかり知らぬ所だ。
私は、軍にいた頃から孤児院などに顔を出し、幼いうちに自然と黒妖犬への恐怖心をなくす活動などしている。
最初はちょっと警戒しつつも、子供がうちの愛らしい黒犬さん達の魅力に抗しきれるはずもない。
「何がいいですかねえ。――お店でもします?」
「エリシャさんみたいに?」
「……ある意味天職かもですねえ」
エリシャさんのお店は、最近お隣が空いたので買い取って、規模を拡大した。
少しずつ、王都から人が減っている。あまり悪い話ではなく、『南』の方……かつての人間の支配地域への入植が進みつつあるからだ。
今は公式に開拓村が作られ、本格入植前に調査をしている段階だ。
安全に関する調査は済み、まず危険はないが、主要都市から遠く離れるため娯楽の類は少ない。しかし、その代わり割と実入りがいいので、志願する人はぽつぽつといる。
そんな風に、緩やかに、ゆっくりと、この国は広大に、そして豊かになっていくだろう。
「……でも、ダメですね。私の『前職』……役に立ちそうもないです」
「リズのメイドスキルがあれば、接客は問題ないね」
「そっちじゃないです」
ジト目になるリズ。
「まあ、アサシンスキルはねえ。生かされても困る」
「ええ。普通に犯罪ですね」
「でも、それを言ったら私の前職『魔王軍最高幹部』だけど」
「……なんて潰しの効かない職業でしょうね」
リズが、わざとらしくため息をついた。
そして、ふと思い出したように話題を変える。
「……そういえば、小耳に挟んだんですけど、"四番砦"が役目を終えるそうですよ」
「あの? リタル山脈の?」
「ええ。『国境防衛』はもう必要ありませんしね。黒妖犬のおかげで警戒範囲が広がりましたし……」
「その後どうなるかとか、知ってる?」
「いえ、そこまでは」
リズは首を横に振った。
「……ふむ。特殊な立地にある使い込まれた雰囲気のいい建物……」
「……マスター?」
「非日常……隠れ家的な……」
ぶつぶつと呟く。
断片的な思考がまとめられていく。
「……また、ろくでもない事を思いつかれたので? 『マスター』」
私は彼女に向けて微笑んだ。
「ああ。なるべく私達の能力を生かしつつ、危険でもない『お仕事』が必要なのだろう?」
「……ええ、まあ。そうなりますね」
リズが頷いた。
「私はあのウェスフィアで、思った事がある」
「ウェスフィアで? ……どのような事を」
リズが、真面目な顔になる。
ウェスフィア。
私が、初めて陣頭指揮を執って黒妖犬を戦線に投入し、『都市攻略戦』の舞台になった、砂漠のオアシス都市の名前だ。
都市を一つ、痕跡を残さずに住民ごと灰燼に帰したそれは、"病毒の王"の戦功の一つであり――非道の一つ。
私が、目の前で黒妖犬に人を殺せという命令を初めて下した戦場。
平和な都市を一つ地獄に変えてでも。
それでも、リストレアにだけはそれをさせないと誓った。
……しかし、あのウェスフィア攻略戦は、ハードな殲滅戦である後半と、ソフトな潜入任務である前半がある。
つまり。
「Sランク観光地を、この手で作り上げる」
今回はソフトな方。
「……すみませんマスター。十年連れ添っておいてなんですけど、ゆっくりと筋道立てて話してくれます?」
「うん、ごめんね。つい癖で」
『何を言い出すか分からないやべー奴』を演じていた期間が長すぎる。




