一人きりの狩り
――今日は、非番だ。
なのに、昔の事を思い出したのは、先日"第六軍"が解体されたからだろうか。
イトリアで、"病毒の王"が死んだという報を受けた時、それが正式な通達となってさえ、私達はどこか信じられなかった。
あの、殺しても死なないような。
ただの人間の身で、魔王軍最高幹部に登り詰めた、彼女が。
死ぬはずが、ないって。
でも、彼女はただの人間だ。
訓練で木剣ならば、暗黒騎士にさえ抜けないほどの、魔法の守りで身を固めていたとして。
喋る言葉には毒が滴るようで、浮かべる笑みには恐怖が混ざるようで。
それでも、彼女はただの人間だったのだ。
……実際、死んだのに蘇ってくるあたり頭おかしい。
しかし、本当に良かったと思う。
憔悴するブリングジット様は本当に見ていられなかったし……先日の『お花見』の時に見せた優しい表情など、知られたらリタルサイド駐留軍の者達――特に古参――に吊るし上げを食うだろう。
いいものを見た。
私物の弓を背負う。取り回しのよい短弓だ。
矢も、それほど多くは持たない。今日は非番だ。
狩りに行って、それから街に獲物を売りに行こうか。
自分で食べてもいいな。
そんな風に考えながら、眼鏡ケースを手に取った。
例の『コンタクトレンズ』は軍用だ。軍務以外での着用――はおろか、自宅への持ち帰りさえ許可されていない。
眼鏡と言えば、魔法具工房の技術者がたまに掛けているもの、という認識しかなかった。
先日のお花見の際に、見張りや、狩りの時以外は目を保護したい――というような事を"病毒の王"様に話したら、「試供品という事で」と、これをくれた。
伊達眼鏡、というらしい。
感想を聞かせてくれれば無料でいい。気に入ったらそのまま使ってほしい――との事。
それはまあ、感想ぐらいはやぶさかではないし、気に入ったら、そのまま使わせてくれれば嬉しい。
無料なのは、退役後の事業を見据えた、商品開発のためのデータ収集や、発売前の宣伝を兼ねている、という事なのだろう。
……多分。
ただ、それだけで「眼鏡が似合う知的美人さんだと常々思っていた。むしろ眼鏡姿を一目見せて下さいお願いします」とまで言うだろうか。
何故か、背筋がぞくりと粟立った。
久しく感じていなかった感覚だ。
あの人の言動は、プライベートだと理解に苦しむ。
軍人としては、『同類』だと思っていたのだけど。
とはいえ、特に変な事はされていない。
言葉通り、見るだけだったし。
眼鏡を掛けると、ガラス一枚と視界の端に入るフレームの分、ほんの少しだけ世界の見え方が変わる。
鏡を覗き込んだ。
……賢そうに見えるかな?
最後に、小タンスの上に置かれた小さな赤い座布団にちょこんと乗った『遺髪』――青味がかった灰毛の獣毛――を振り返り、軽く手を上げて挨拶した。
「行ってきます、おとうさん」
森の中で、息を潜める。
狩人のよく着る、落ち着いた茶色のフード付きケープは、ダークエルフの耳が引っ掛からない耳出しタイプだ。
他も動きやすい恰好でまとめている。
眼鏡は今は外し、腰のポーチの専用ケースにしまっている。
耳で風を読み、目でも風を感じる。そのためにはガラス一枚でも邪魔なのだ。
耳で風を読む方法は、父から教わった。
……父は狼系の獣人だったので、果たしてダークエルフの私が、ちゃんとその通りに出来ているかは分からない。
小さい頃は、大きくなれば、自分にも全身に毛が生えて、狼の耳と尻尾が生えると思っていた。
私はダークエルフなので、当然ながら母はダークエルフだ。
しかし、母は私を産んでまもなく亡くなったため、私は生き抜く術を今は亡き父から教わった。
応急処置の方法。各種日常生活用魔法。食べられる草や木の実。火の起こし方に、野営の方法。弓の技。狩っていい獲物。手を出してはいけない魔獣。
……父から絶対に手を出すなと言われた黒妖犬を撫でる機会があるとは。
狩人が黒妖犬と戦うべき理由はない。
肉も毛皮も得られぬ以上、ただの命のやりとりになるからだ。
そして、分が悪い。
父は、口を酸っぱくして言っていた。
見つかったら、絶対に敵意を向けるなと。
あれは満たされぬ飢え。
ひとが隷属させてはいけないもの。
実際、狩人仲間の間では、手を出さなければ無害という結論で落ち着いている。
森で狩りをしていれば数頭の黒妖犬を見かけた事ぐらいはある。
明らかにこちらに気付いた風に視線を向けるが……緊張しつつ見合っていると、やがて向こうから視線を外し、森の奥へ消えていくのが常だった。
狩人が黒妖犬に襲われたという話はまず聞かない。
被害が皆無というわけではなく、たまにはぐれた家畜が狙われているようではあるが、それは『森の取り分』と諦めるべきだ。
森の奥深くで消息を絶った者が、どうして帰ってこなかったのかは……分からないが。
極端に被害報告が少ないのは……戦いになった時、それを語る者がいないせいもあるだろう。
それでも、狩人は人の領域を踏み越えて、森の領域を侵すのが生業。
いつか報いを受ける覚悟を、狩人はみんな持っている。
黒妖犬が番犬として利用されるようになり、捕獲して一攫千金を目論んだ者達のほとんどが、無残な死を遂げた。
数を集めれば容易く逃げられ、少数で害意を持って近付けば、逆に狩られる。
一時は黒妖犬を所有するのはステータスとして人気が高かった。――『捕獲』の難易度と、失敗した者達の末路が噂に花を添えたせいで。
父は、黒妖犬がただの猟犬……いや、狂い果てた番犬として使われる事に苦い思いを抱いていたらしい。
いつか、とんでもない事になるのではないかと心配していた。
……その『とんでもない事』は、多分父が予想しなかった形だったとは、思う。
あの『合同訓練』で、黒妖犬が現れた時は肝が冷えた。
反射的に弓に矢をつがえかけたほど。
……普通、黒妖犬を一目見て危ないと思うはずだ。
『あんなの』を撫でようとするとか、危険を感知する本能が死んでるとしか。
魔力反応が見えないのだろうか? ――あの、希薄さ。
夜明けに朝日と共に、ふっと消える朝霧のような。秋の初めに降る、積もらない粉雪のような。
この世界の物とは、思えないほどの。
深い井戸を覗き込むような、果てのない底知れなさ。
……確かに、撫でさせてもらった毛皮は気持ちよかったけども。
よく手入れされていた。
猟犬を使う狩りには馴染みがなく、普通の犬にもあまり詳しくないが、あの"病毒の王"が、自慢げに胸を張るのも分かる。
……遠慮しなくていいと言われたので、しばらく撫でた後、首元に抱きつくと、ちょっと父を思い出したのは内緒だ。
小川の川縁に上がったばかりの水鳥を二羽、獲物と定める。
正にいい鴨。
矢を取ると、弓につがえる。
二本目の矢は用意しない。引く手に矢を持てば、精度が落ちる。
短い弓で、魔法効果も最低限。いつもの軍用の長弓と比べれば、射程距離や威力は心許ない。
リタルサイドでは、軍と住民の間の親睦を深めるべく一年に一度、交流祭が行われる。
その祭りで、リタルサイド城塞の見張りが持つ長弓は、それを引けるかどうかを力試しの種目として扱うほど。
暗黒騎士の甲冑の着用体験ほど人気はないが、初めてで成功する者は、市井の者の中では、そうそういない。
当然だ。
弓の有効射程が、そのまま防衛圏。そのために長大な射程距離を実現し、城壁に取り付こうとする敵兵を打ち払うための剛弓。
敵兵の目がはっきり見えるほどの至近距離で、丸みで逸れなければという条件は付くが、防御魔法が付与された板金鎧さえ貫通し得る。
軽装で、騎士や兵士と違って鎧に魔力を回さない分、弓と矢、そして、己の身体強化に全力を回せるのだ。
熟練の弓兵となれば、風を読み、その風さえも僅かに操れる。
それに、小さめの弓とはいえ、馬鹿にしたものではない。
自分に合わせて調整しているし、何より――
放たれた矢が、鴨の首に突き刺さる。
そして、素早く矢筒から二本目を抜き、羽ばたいて飛び上がろうとした二羽目の首に矢を運んだ。
長弓で使う矢と比べて、はるかに矢尻も小さいが、あっさりと命を奪う。
――狩人の獲物は、防御魔法を展開していないし、板金鎧も着ていない。




