受け継がれたもの
「子猫達の爪痕、もうあんまり目立たないね」
「十年……ですからね」
結局修理しない事を選んだ、談話室のソファーやらローテーブルに付いた傷は、『"病毒の王"の屋敷』において数少ない『軍人でも暗殺者でもないお客様』方の、文字通り爪痕だ。
談話室と呼ばれ、応接間としても使われたくつろぎスペースは、思い出が多い。
窓を開ければ風も通る、心地良い場所だ。
部屋にもソファーはあるがこちらの方が座り心地がよく、何よりここにいると、他の用事の合間に通りすがった誰かしらに構ってもらえる確率が高かったので、真面目なお仕事の時以外は、ここか庭にいた。
特に秋から冬にかけては、ここが"病毒の王"の定位置だったと言っても過言ではない。
「……このお風呂はちょっと惜しい」
「まあ……個人用としては贅沢な広さですよね」
大理石で作られた、広い湯船。
このお風呂に『お湯』を一杯に張りたくて……私は"粘体生物生成"を一生懸命練習した。
バーゲストも、十年以上一緒に入り続けた結果、お風呂に慣れてきたらしく、昔より気持ちよさそうにしている。
リズと二人きりで入る事も増えた。
次の家は、一軒家だが借家でこぢんまりしているし、浴室は綺麗だが、湯船はあまり大きくない。
二人で入るには狭いかも。
一人で入って下さいって言われるのかなあ。
「でも、あの……狭いのも、それはそれでよくないですか?」
「なんで? 私は、広々としたお風呂が好き」
私は首を傾げる。
リズが、赤いマフラーを持ち上げて口元を隠した。
「……忘れて下さい」
「え? どういう事?」
リズの頬が上気してじわりと赤くなり、長い耳の先が少し下がった。
なにやら、失言だったらしい。
「……気になるから教えて?」
リズが目をそらす。
「……マスターとぴったりくっつけるのも、いいかなって」
マフラーで少しくぐもった、消え入りそうな声。
それは、私の意見を百八十度転換させるのに、十分すぎるほどの説得力を持ち合わせていた。
「――今、狭いお風呂が物凄く好きになった」
「……もう、天蓋ベッドでダークエルフのメイドさんとイチャイチャするのは、できないかな……」
「懐かしむセリフおかしいです」
リズが呆れ顔になる。
「……どこも思い出深いけど……さ。やっぱり、この部屋が一番かな」
「そうですね」
ベッドに腰掛ける。
ベッドカバーや掛け布団は私物だが、次の部屋にサイズも合わないので、そのままだ。
『次』の住人が処分を決めればいい。
リズが隣に座り、ごく自然に私の手を取って、軽く握る。
慣れ親しんだ甘い感触が、私の不安を和らげ……同時に、ここでこんな風にするのは最後なのだと、胸の奥を、じりじりと黒い炎が炙っていくようなひどい焦燥感を覚える。
――ずっと『ここ』にいたい。
そう思ってしまう気持ちが、思ったよりも強かったのだと思い知らされる。
私は臆病な人間だ。
けれど、私が足を止めていれば、リズは私の隣にいなかっただろう。
危なっかしい足取りで、それでも前――と私が信じる方向――へ進もうと、もがく私の手を、多くのひとが取って、支えてくれた。
「……不安、ですか?」
「……うん。何をすればいいのかな、って……」
人類絶滅という目標を掲げていた時は、迷いは少なかった。
そんな余裕は、私に……私達に、そしてこの国になかった。
私はこの国に、"病毒の王"として、"第六軍"の長として、必要とされた。
それがなくなった今、私には何もない――
……という事は全くない。
最愛の伴侶たるメイドさんは隣にいてくれるし、私がこの世界に来た時のように、人間関係が記憶ごと、物理的にリセットされてもいない。
今までほど頻繁に会えなくなる人達はいるが、例えば、戦後は劇団を率いて忙しくしているクラリオンとは、むしろ戦中より仲良くなったと思う。
誰も彼もが、私の幸せを祈ってくれている。
非道を行い、一軍の長として全ての責任を負った過去を……過去にしていいと。
だから、ここが私のスタートラインだ。
"病毒の王"ではなく、デイジー・フィニスとしての。
……でも、どうしても不安を拭えず、私は隣のリズを見た。
「……マスター、この部屋で、言ってくれましたね」
彼女はにこりと微笑む。
「私と、ずっと一緒にいたい、って」
「……うん」
「結婚式でも、そんな風に言ってくれましたね」
リズが身を寄せる。
「……私、嬉しかったんですよ」
「……私の方が嬉しい。リズがそんな事言ってくれたから」
「何故そこで張り合うんです。――まあ、負けるつもりはありませんけど?」
……私はリズの事を、大好きだけど。
その私が、もしかしたら気持ちの強さで負けるのではないかと思ってしまうほどの自信。
同じくらい、という事にしておこう。
「私も、不安です。……ずっとアサシンでしたからね」
「ここ十年ぐらいは、メイド成分も多くない?」
「まあ、それはそうですけど」
頷くリズ。
彼女は今や、どこに出しても恥ずかしくないベテランメイドだ。
ただし、どこにも出す気はない。
「新生活に不安はありますよ。……でも、ちょっと楽しみです」
「楽しみ?」
リズが立ち上がって、くるりと一回転する。
ふわりとマフラーとスカート、それにエプロンが広がって、目を奪われた。
ぴたりと綺麗に止まって見せた彼女は、両手を後ろに回して、座った私を覗き込んだ。
「――だって、マスターと一緒ですよ」
私は反射的に、両手で顔を覆った。
喉の奥からかすれ声を絞り出す。
「リズの馬鹿……可愛い……」
「……その罵り方、おかしくないですか?」
少しして、顔の火照りが引いたところで手を下ろす。
おずおずと手を伸ばすと、リズがその手を取りながら、私の膝に乗るようにして私を抱きしめてくれる。
豊かな胸――をちょっとよけて、肩のあたりのフリルに顔を埋めた。
「……少しだけ、こうしてていい?」
「もちろんです」
「大好き……だよ」
「私もですよ」
リズが私の頭を軽く抱いて、そっと髪を撫でた。
その優しい感触が、私の不安を解きほぐしていく。
何もかも、変わっていく。
でも。
リズは、私の隣にいてくれる。
変わらない事が一つあれば。
屋敷を出た時には、日が傾き始めていた。
「……お前達と初めて会ったのは、庭だったね」
ぴったり寄り添っているのに、歩くのに全く邪魔にならないポジションにつけているバーゲスト。手を伸ばして頭をガシガシと撫でると、黒犬さんは目を閉じて、頭を押しつけてくる。
最後に庭を一周し……お別れが済んだ。
敷地を踏み越えた瞬間、胸に寂しさが湧き起こる。
もう、ここに来る事はないだろうか。
リズが、外から門を施錠する。
……今までは、いつも留守番役がいたので、そうする彼女を見るのは、戦中に人間の支配領域に赴いた時以来だ。
あの時は、罠は仕込んでいても、この屋敷との別れを覚悟したものだけど。
帰ってきて、いくつか罠を踏んだ時点で侵入を諦めたらしい、予想よりは控えめな惨状を見た時は、ほっとした。
まだ高い、けれどどことなく寂しげな日差しに照らされた屋敷を見る。
ここはもう、私の『家』じゃない。
心の整理が済み、意識的に情報を入れないようにしていた事を聞いた。
「……ここ、この後どうなるか、とか……知ってる?」
リズが頷いた。
「はい。――サマルカンドとハーケンが、個人的に買い取ったそうです」
「……ん?」
「彼ら二人と、"病毒の騎士団"の生き残りが管理を買って出ました。書類上の処理としては"第四軍"宿舎として民間の建物を借り受ける、という形になるようです。――なお、『別宅と思い、いつでもお越し下さい』と」
『家』とお別れしたと思ったら、『別宅』が出来ていた。
ちょっと何を言っているのか分からない。
「……待って。私、この屋敷が人手に渡ると思って、結構がっつり、しんみりとお別れしたよ?」
「ええ、そうですね。私もちょっとうるっと来ました」
しれっと、そんな事を言うリズ。
私は、思わず叫んでいた。
「――茶番すぎる! リズは……いや、みんな知ってたんだよね!?」
「それはまあ、私達、マスターの部下ですからね。『面白おかしく』の方針は、私達の胸に立派に根付きましたよ」
微笑むリズ。
「…………」
私は黙り込んだ。
あまりにも完璧にしてやられたのと、その笑顔があんまりにも卑怯で。
そして二人同時に、笑い合った。




