緑色の死
私の目の前に、リズがいた。
ほっとしたような、小さな微笑みを浮かべている。
私の嫌がらせのような抵抗は、時間稼ぎとしての意味が、あったらしい。
後、数秒でも彼女が遅れていれば、私は斬り殺されていただろう。
私の上から下まで素早く走った彼女の視線が戻り、肩の傷で止まる。
そして、彼女の目が細められ、瞳から光が消えた。
「お怪我を」
「斬られた。リズ……は?」
彼女の背には、大きな傷があった。
応急手当もされていない、ざっくりと斬られた刀傷。
「……かすり傷です」
絶対嘘だ。
「――排除します。お下がりを」
「……ああ、頼む」
私は、戦士ではない。
だから、彼女がいる。
先にリズが動いた。
滑るような動きで右側へ回り込み、右手の格闘用ナイフを投擲する。
白騎士は回転しながら飛ぶそれを余裕を持って弾き――リズの左手のナイフが僅かにタイミングをずらして投擲されていて、それを辛くも弾く。
その隙間を縫って、リズがスカートを跳ね上げて引き抜いた、ふとももに仕込んでいる投擲用ダガーが飛び、脇の下を射抜いた。
鎧には、隙間がある。
完全に固めては、動けないのだから当然だ。
だが、敵は動いている。
戦闘中にその僅かな隙間を狙い打つ技量を、一体何人が持っているというのか。
しかし、淡い緑の光が見えたと思った瞬間、ずるりと投擲用ダガーが血の帯を引いて抜け落ちた。
「……全く面倒なものですね」
リズが、投擲し、弾かれて床と壁に突き立った格闘用ナイフを、指をちょいと動かして宙を飛ばす。
危なげなく受け取って、構える姿は惚れ惚れする。
「この身には、竜の加護がある」
「竜の加護……?」
リズが呟く。
「魔族を滅ぼすために、選ばれた者に与えられた力だ」
自信満々な白騎士。
「味方が誰もいないからといって気を抜きすぎだぞ。――そこは『人類を救うために』と言わなければな。そんなだから、目的と手段が、すぐに入れ替わる」
『人類を救うために』なら、『他の世界の人類を使う』という発想は間違いだ。
しかし『魔族を滅ぼすために』なら、その悪魔的発想は正当化される。
ただし、魔族を滅ぼしても、別に人類は救われたりしない。
「何を――」
私の方に一瞬意識を向けた瞬間、リズがその意識の外側から忍び寄り、背後から両目のスリットにナイフを突き込んだ。
びくんと体が跳ね――リズが、ナイフを突き捨てにして後ろへ下がった。
淡い、緑の光。
既に嫌になるほど目に焼き付いたその光が光った瞬間、ぼたぼたと両目のスリットから血が溢れ出し、ナイフが二本とも落ちる。
地面に届く前にリズが引き寄せ、構え直した。
「大した再生力です。しかし、我が主のお言葉に気を取られ、目の前の敵から視線を外すとは」
リズの愛らしい声が嘲りを含むと、向けられた側の神経はただでは済まないだろうと思わせる棘がある。
しかし、ちょっとでも注意がそれたら、ぐらいだったんだけど。
二秒もせずあそこまでやれるリズがおかしいんだと思う。
しかしもっとおかしいのは、それでも平然と、涙のように血を流しながらなお、剣を構え直す白騎士だ。
「負けはせん……正義は我らにある」
彼の言葉は、間違っていない。
けれど、私達の側にも正義ぐらいある。
そして、正義の有無は勝敗を左右しない。
「再生能力を誇るなら……殺し切るだけです」
リズの言葉は頼もしい。
しかし、彼女の背の傷からは今も血が伝い、背中側のスカートをぐっしょりと濡らしている。
長期戦を戦えるはずがない。
手品の種を暴くには、材料が足りない。
ならば、相手の土俵で、相手を殺し切るしかない。
そこで私の脳に閃いたものがあった。
「――リズ。抑えられるか」
「マスター?」
多くは語れない。
だから私は、ただ重ねて聞いた。
「抑えられるか?」
「――そうします」
リズが、突っ込んだ。
刃が激突し、火花が散る。
ほとんどゼロ距離のインファイトで、大型のナイフとはいえ、長剣よりはるかに取り回しやすい短い刀身の利点を生かそうとするリズを、甲冑をまとった膝蹴りが迎え撃つ。
「それはもう、見ました」
リズが、軸足に足を差し込んで払い、滑らかに刈り取る。
そして自分もナイフを投げ捨てて倒れ込みながら、足と足を絡め――関節技を極める。
四の字固めだ。
人間である以上、関節技は有効だろう。
関節構造は、人間とダークエルフは変わらない。一部骨格から異なる獣人よりも、余程近い種だから。
当然白騎士は拘束をほどこうと暴れるが、それを簡単に許すリズではない。
「リズ。そのまま抑えていろ」
「はい。ですが、長くはもちません」
関節を極めているが、相手は治癒能力持ち。
激痛に耐え、関節が壊れる事を受け入れれば、強引に抜ける事も可能だろう。
まともな覚悟では出来ないが、まともな覚悟で、敵地まで少数でやって来て最高幹部を狙おうなどと思うはずもない。
そもそも、リズは手負いだ。
リズの額に脂汗が浮かぶ。
私は、折れた杖を構えた。
魔力を充填した宝石は失われていても、杖自身が魔法の発動媒体だ。
これから発動しようという魔法の助けにはなる。
「"粘体生物生成"」
杖で指し示した先に、にゅるん、と黄緑色の粘体生物――ウーズが召喚されて、ぼとりと落ちた。
「マスター? 何を!?」
「そのままだ。"粘体生物生成"」
さらに追加。兜の隙間から、二匹目が乗った事で押し出されたウーズがぬるりと流れ込んでいく。
私は、ウーズを『飲んだ』事がある。
天然物のウーズが、整腸作用と栄養の補給を目的として、医療の現場で使われる事がある。
その際には、ウーズを水で割って『二十倍に希釈』するのが決まりだ。
そして入浴用の召喚生物としてのウーズも、温める事で『緩め』て、粘度を抑えて使用する。
びくん、と騎士の体が跳ねるのを、リズがぎちりと抑え込んだ。
「"粘体生物生成"」
さらに詠唱を重ねていく。
「"粘体生物生成"」
「"粘体生物生成"」
「"粘体生物生成"」
「"粘体生物生成"」
「"粘体生物生成"」
「"粘体生物生成"」
「"粘体生物生成"」
「"粘体生物生成"」
合間合間に、騎士の体が跳ねる。
兜の奥の顔は、苦悶で歪んでいるのだろう。
息の出来ない、苦しみに。
何度も何度も、緑色の光が騎士の全身を包んだ。
その度に、騎士の体が跳ね、拘束をほどこうと暴れる。
「"粘体生物生成"」
「"粘体生物生成"」
「"粘体生物生成"」
「"粘体生物生成"」
「"粘体生物生成"」
「"粘体生物生成"」
「"粘体生物生成"……」
私は詠唱を続けた。
顔を中心に、統合され、盛り上がった巨大な水たまりのようになったウーズ。
緑色の光が断続的に輝くのが、唐突に終わった。
騎士の体が動かなくなる。
「……ます、たー?」
リズの震え声が、耳に届く。
「リズ。もう少し抑えてて」
「は、はい……」
リズの瞳に、光が戻っていた。肩で息をしている。
私は油断なく杖を構えながら、しばらくそうしていた。
動く気配は、なかった。
「……もう、よろしいかと」
「ああ。油断はするな」
「はい」
リズが、関節技を解いて立ち上がった。
片腕を振ってウーズを払い落とす。
そして顔をしかめた。傷に響いたらしい。
「マスターは、お怪我は?」
「まあなんとか」
極度の興奮と、心が冷えるような怒りが忘れさせていた痛みが、じくじくと傷跡から伝わってくる。
「リズは?」
「動けます。問題ありません」
私よりどう見ても重傷なので、問題はあると思うんだけど……多分、私も同じような事を言っているので、気にしない事にする。
夫婦は似てくると言うが、主従も似てくるものだろうか。
二人共、生きているというのが大事だ。
……二人は。
サマルカンドの死体に視線を向けた。
本当に、彼は命を懸けた。
何度も聞いた、『我が命に代えても』という言葉。
それは彼にとって、確かに真実だったのだ。
苦い思いで、視線を外す。
その時。
「中に入った連中は?」
「分からんが……反応がない」
窓の外から、声が、聞こえた。