私の刃
サマルカンドが血の付いた手を握り込んだ瞬間。
白騎士の体が、弾けた。
水風船が弾けたような軽い音。
血と肉片が私の所まで飛んで来て、仮面があっても思わず顔を背けた。
鎧の隙間という隙間から血を流しながら、ぐらぐらと揺れた体が、支えを失ったマネキンのような、人形染みた動きで倒れ伏す。
倒れた衝撃で、絨毯でも吸いきれない血の海を波紋が渡った。
「サマルカンド……」
黒山羊さんの名を呼んだ。
彼の瞳は、もう閉じられていて。
ぴくりとも、動かなくて。
私の視線の先にはもう、血のなくなった肉塊しかなかった。
「くそっ……」
私の背後で、何かが光った。
淡い、緑の光。
さっきも、光った。
二度、この光を見た。
禍々しささえ感じるそれに、背筋が寒くなる。
振り返ると、ぐしゃぐしゃの肉塊に成り果てたはずの騎士が、未だぎこちない、それでも確かな人間の動きで立ち上がる。
逆にそれが、目の前にいるのが人間の領域を逸脱したおぞましいものである証拠に思えてならない。
反射的に死んだ、と思った。
「……化け物が死んで怒るのか? 化け物」
けれど、ゆっくりと剣を構えながら、白騎士は斬りかかるのではなく、口を開く事を選んだ。
明らかな、言葉による挑発。
明らかな、時間稼ぎ。
私もまた、覚悟を決める。
いいだろう、乗ってやる。
私は、現実主義者で、実利主義者だ。
誇りという、人によっては命を賭けるに足るほどに崇高な物を持ち合わせた覚えもない。
「彼は私の部下で……友人だ。お前が殺したのは、化け物なんかじゃない」
けれど、友人の死を侮辱されてなお、黙っていられるほど温厚でもなかった。
「――お前が、"病毒の王"か」
「いかにも。私が、"病毒の王"だ」
さっきから仮面の調子が悪く息苦しい。恐らく炙られすぎだ。
私は、仮面に手を掛ける。
そして、外して、放り捨てた。
「女……?」
「人間のね」
「なっ……?」
顔は見えないが、確かに動揺した。
「……裏切り者が」
しかし、私の正体を人間と知ってなお、血に濡れた、白と銀の美しい剣を向けてくる。
まあ、分かっていた事だ。
人間にとって、相手が人間である事は殺さない理由にならない。
「ああ、殺せよ。でも、勝つのは私達だ。私は死ぬ。けど、"病毒の王"は死なない。病も毒も、お前達の国から消えない」
私は、勝利を確信していた。
私の死では、私は負けない。
「いつまでも森の中と夜道は矢と刃が背中から飛んでくる世界だ。お前達の畑は焼かれ、汚物の雨が降る」
サマルカンドは死んだ。
リズも、もしかしたら。
けれど、擬態扇動班も、暗殺班も、何一つ損なわれていない。
私の勝利は、揺らがない。
「私は、"病毒の王"! この名を受け継ぐ者が、お前達を殺す!」
「それだけか、人類の、裏切り者がっ……!」
振り上げられた剣に合わせて、杖を突き出す。
剣と打ち合った杖に半ばまで刃が食い込み、すぐに折れた。
刃が肩口に当たり、大量の護符が紐を切られ、しかし地面に落ちる前にダメージの限界に悲鳴を上げてほとんど全て砕け散る。
ぱらぱらと残骸が落ち、それでも止めきれなかった刃が肩に深い傷を作った。
次は、こんなものではすまない。
しかし、多重に積層された防御魔法を強引にぶち破った事で、騎士の全身を青い稲妻が走った。
私が全身に身につけているのは、防御呪文の込められた魔法道具の数々。
それを破壊すれば、相応の反動が相手を襲う。
騎士がよろけ――また緑の淡い光が全身を包むと、しっかりと踏ん張る。
間違いなく発動はしたし、ダメージもあったように見える。
だが、相手が人間をやめている場合は効き目が薄いらしい。
挑発して、防御魔法で返り討ちという方法でも殺せなかった。
つまり、私自身が取れる対抗手段は尽きた。
静かに、生きる事を諦める。
それでも私は、口を閉じる気はなかった。
それが、時間稼ぎとしての意味すらないとしても、それでも。
それでも、人類のためにここまで来たのだろう、物語の中の英雄のような騎士様に、私の知っている現実というものを教えてやりたかった。
「……私は、ここじゃない世界から来た」
痛みに喘ぎながら、私は白騎士を睨み付けた。
「お前達の国が私をここに呼び込んだ……」
「なに……?」
「私の世界から、私を使い捨ての魔力袋として喚び出した……!」
「……誰が信じるものか」
「言ったよな。私は人間だよ。お前の刃を一度防ぐのが精一杯の、ただの人間だ。そんな人間が、どうしてここまで出来たのか、理由を考えろ」
安穏とした生活から引き剥がされ、違う世界に喚び出され、使い捨ての道具として扱われ、そして殺されそうになった。
何一つ許せない。
私がされた事も、私の大切な人がそうされるかもしれない事も。
人間と魔族が殺し合うこの世界で私を――人間である私を、それでも助けてくれた魔族のひと達が、『人間』に殺される事も。
何一つ、許せなかったのだ。
「それだけの事を、されたからだっ……!」
彼は、それでも無言で剣を振り上げた。
「殺すよな。そうするしかないよな。殺してから私の言葉の意味を考えろ! 人間の私が、今お前の敵になった意味を考えろ! 魔族がいなくなったら、次は人間が敵になるぞ!」
私は、血を吐くように叫んだ。
世界の全てが、優しければよかった。
全ての世界が、優しければよかった。
「私は、人と人が殺し合う世界から来たんだから――!」
騎士の剣が一瞬震え、それでも、振り下ろされた。
剣が、大型ナイフと打ち合って火花を散らした。
視界が、闇色に揺らめく。
紺と白の、メイド服。
両手に握り込まれた、左右でデザイン違いの大型ナイフ。
両腕に巻き付けられた、赤いマフラー。
ぴんと伸びた、ダークエルフの耳。
月の光を束ねたような、銀の髪。
「……遅くなりました、マスター」
"薄暗がりの刃"、リーズリット・フィニス――縮めて、リズ。
私の最も信頼する暗殺者さんが、そこにいた。