契約と信頼において
「我が主。リズ様が三名中、二名を排除したようです。……一名がこちらへ」
「リズ、は?」
「分かりませぬ。リズ様は、戦闘中ですら自らの魔力反応をほぼ完全に遮断しておりますゆえ……とてもこの距離では……」
サマルカンドが首を横に振った。
「そう、か」
ぎゅっと、杖を握りしめた。
漆黒の大鎌を持ったサマルカンドが、私を軽く手で促す。
「私の後ろへ隠れるようにして下さいませ」
「ああ……」
視界のほとんどを、サマルカンドの広い背中が埋める。
毛足の長い黒の毛。盛り上がった筋肉。私の――しもべ。
私の副官さんは……もしかしたら、もういない。
私は仮面を着けた。
音声変換をオンにする。
「リズが負けたとして……その相手に、勝てるか?」
「我が全力をもって、我が主の敵を排除し、それが叶わぬならば盾となる。それだけでございます」
鈍い金属音がした。
剣で鍵を破壊しようとして、失敗したらしい。
当然それで諦めてくれるほど甘くはなく、木に鉈が食い込むような、ガッガッ、という音が聞こえる。
剣で、ドアを切り崩しているのだろう。
強化魔法や防御魔法が掛かっていても、所詮は木製のドアだ。同じように強化された剣を叩き付けられれば、いずれ削れて壊れる。
「品のない来客ですな。――昔の私を見ているようだ」
「お前はもう少し上品だったぞサマルカンド。少なくともドアを破壊しなかった」
サマルカンドのジョークに、少しだけ緊張がほぐれ、僅かだが笑みが戻る。
ゴトン、とドアだった木塊が落ち、剣の切っ先が少し覗いた。
そして引っ込み、またドアを切り崩していく。
破られるのは時間の問題で、そしてそれはもうまもなくだ。
「我が主。……さすが我が主ですな。刺客も一流です」
「ならばお相手を頼む。お前も一流だろう」
「光栄の極み」
サマルカンドが振り返り、私を山羊の横三日月の瞳で見つめる。
「我が主。――ただ一言、契約の名においてお命じ下さい。『勝て』と」
「ああ。契約と信頼において」
私は、自らの心臓に手のひらを当てた。
「『勝て』」
熱く脈打つのは、私の心臓か、サマルカンドの心臓か。
体を流れる血が、果てしなく熱く感じる。
高揚と、興奮。そして――歓喜?
全身の細胞が震えるような。
サマルカンドの瞳が赤く輝き、たくましい筋肉がさらに一段盛り上がり、毛先が白くほどけるように空間へ消えていく。
短い角が、ぐねぐねと、長くねじくれた形へと伸びていき、ひどく禍々しい形で固定された。
生まれも分からない。親もいない。
だから、この世界に存在した証を欲し、生きている間の繋がりを欲する。
それが悪魔だと、彼はそう言った。
目の前のそれは、確かに悪魔的だった。
人が恐れるに足る、異形の姿。
けれど……分かる気がした。
何もなくなったのは、私も同じ。
それでも繋がりを望んだのは、私も同じだった。
彼の気持ちが私に分かるのは、私が"病毒の王"と呼ばれるほどに悪魔的だからだろうか?
それとも……彼が、人間らしいからだろうか?
ドアが、破壊された。
押し開きながら壊し、残骸を踏み越えながら、金で縁取られた白い鎧をまとった騎士が室内に押し入ってくる。
兜の左スリットからは、鮮血が涙のように流れている。
その鎧もまた血まみれだという事に気が付いた瞬間、血の気が引く。
その鎧に浴びた大量の返り血は――誰のものだ?
私が硬直した瞬間にも、サマルカンドは動いていた。
距離を一瞬で詰め、大鎌を横薙ぎに振るう。
その大鎌は、ドアを破壊した剣に受け止められ、さらに刃を砕き折られた。
しかしサマルカンドは動きを止めず、柄だけになった大鎌をそのまま一回転させて、兜を強打して吹き飛ばした。
壁に叩き付けられた騎士の身体がぐらりと崩れ落ちそうになり……淡い緑の光に包まれる。
姿勢を立て直した瞬間、大鎌の柄を捨てたサマルカンドの巨大な手のひらに顔面を兜ごと握り込まれる。
捨てられた柄と、砕かれた刃の破片とが、黒い粒子になって消えた。
騎士が突き出した剣を、体を僅かに動かしてよけ、手首を掴んで万力のように縫い止める。
ミシミシ、と金属鎧が悲鳴を上げる音がした。
自由な左拳をサマルカンドの腹に叩き込むが、サマルカンドは動じた様子もなく魔法を詠唱した。
「"炎柱"」
白騎士の全身を、足下から伸び上がった炎の柱が覆う。
この距離でも、仮面がなかったら息が詰まるのではないのかと思うほどの熱量。じりじりと熱気が全身を炙る。
"病毒の王"の正装に掛かっている防御魔法がなければ、火傷ぐらいはしていたかもしれない。
いや、間違いなくしていただろう。
その証拠に、熱に炙られた大気が軋み、この部屋で魔法防御が最も薄いもの――カーテンがぼうっと燃えた。
一瞬で燃え尽きて、灰がはらはらと絨毯に落ち、カーテンレールに残ったフックが最後に小さく揺れて微かな金属音を立てた。
膨大な熱量に焼かれる騎士の肉体から煙が上がり、室内におぞましい匂いが立ちこめる。
……一瞬、いい匂いとさえ感じる匂いが混じったのが、嫌悪感を助長した。
肉の焼ける匂い。――肉と血と内臓と表皮と頭髪がもろともに焼ける匂いだ。
唐突に、天井の魔力灯がひび割れ、パチッ、という音を立てて消えた。
赤々とそびえ立つ炎の柱と、カーテンが燃えて遮る物のなくなった窓から差し込む月明かりで部屋中が怪しく照らされる。
殴り続けていた拳が解かれ、だらんと垂れる。
さらにそのままゆっくりと上げられる――と見えたのは、おそらく筋肉の収縮反応だ。
もう、息はないのだろう。
だが、サマルカンドは拘束も、炎柱の展開も止めない。
「っ……サマルカンド! お前!」
思わず声を上げる。
敵の頭を握り込んだままの彼の右手もまた、業火にさらされ、見ている間も焼け焦げていく。
「ご安心を。――この相手に腕の一本なら、安いもの」
不敵に笑う彼を、それ以上咎め立てる事は出来なかった。
彼が今、文字通り体を張っているのは……私のためなのだ。
「良い鎧だ。……革紐すら炎を通さぬか?」
燃え続け、ドアと同じく強力な防御魔法が掛かっているはずの壁と天井をも焼き焦がし続ける炎柱にさらされてなお、白い鎧はほとんど傷付いたように見えない。
鎧には革紐や革手袋など、金属でない部分もあるが、そこも同様だ。
「だが、生身は耐えられまい」
しかしそれは、サマルカンドも同じだった。
ぼろり、と炭の塊が床に落ちた。
絨毯の上で、サマルカンドの指の形をしたものが、落下の衝撃で崩れて一山の炭の粉になる。
炎の柱が、現れた時と同じように、唐突に消えた。
同時に光源が月明かりだけになった事で、視界が真っ暗になったように感じる。
サマルカンドの右手が炭化して崩れ、握り込んだ手首を支点に、騎士の身体が――騎士だったものが、ぐらりと倒れ込む。
「ごふっ……」
そして、サマルカンドが血を吐いた。
淡い緑の光が見えたと思った瞬間に、白騎士は腰の小剣を抜いて、深々とサマルカンドの腹に突き立てていた。
そのまま横に切り開かれ、切断された腸がぶちまけられる。
さらに小剣が突き上げられ、サマルカンドの首を貫いた。
小剣を貫いたままにして、今も自分の手首を万力のような力で握り込むサマルカンドの指を、折って強引に外した。
サマルカンドの体が崩れ落ちるのを無視して、動きを確かめるように、右手の剣を何度か振る。
白騎士がゆっくりとこちらを向いた。
白い鎧には、古い血が焼け焦げた跡と、新しいサマルカンドの血がべったりとついている。
左目のスリットから流れていた血もまた、黒く焼け焦げて焼き付いている。
その姿は、それこそ地獄の悪鬼のようだった。
「お前が……"病毒の王"か」
よく通る男の声。久しぶりに聞く、人間の声だった。
「…………」
私は、答えなかった。
あれで死なないとは、随分と常識の外にいる御仁のようだが……愚かにも、『敵に背を向けた』。
サマルカンドの体を中心にして、血だまりが急速に広がっていく。
けれどサマルカンドは、まだ死んでいない。
私の中に流れる血が、息づく心臓の鼓動が、彼との繋がりだ。
彼はまだ、生きている。
ぷつん、と『繋がり』が切れた。
「……サマルカンド?」
冬の夜に、不意に毛布を失ったような、心細さに似た寒気を感じた。
思わず、あえて見ないようにしていたサマルカンドの方を見る。
死んでは、いない。
血だまりの中で。
指についた血で、魔法陣を床に描きつつ。
半ばまで切断された胴体を、僅かに起こし。
まだ小剣が刺さったままの首をそらして、私を見て。
「全ての血がなくなろうと……貴方が私の主です」
笑った。
口元を緩めるように。
横三日月の目を細めて。
愛おしいものを、見るように。
「……よせ! これは命令だ!」
「聞けませぬ。この身は、血の一滴に至るまで、貴方の盾であるがゆえに」
彼は初めて、私の命令を拒否した。
それは有り得ない。
"血の契約"がある限り。――それが今もあるのならば、彼はいかなる愚かな命令だろうと従う。
ああ、そうだ。この黒山羊さんは、確かに言ったではないか。
"血の契約"は呪いであり、『我が体に血が流れる限り』、絶対的な命令権を持つのだと。
一回り小さくなったように見えるサマルカンドが、血で描いた魔法陣に、手のひらを押しつけた。
その瞬間、床一面の血全てが――おそらくは彼の体内にあった全ての血が、生き物のようにうごめき、白騎士にまとわりつき、締め付ける。
思い返してみれば、あまりにも、血の流れ出るのが早すぎた。
けれどそんな事、もうどうでもよくて。
大事なのは、私の黒山羊さんが、もう私の手の届かない所にいるという事。
永遠に私の手が届かないところへ、行こうとしているという事。
「我が愛しき主。短き間なれど、お仕え出来た事……真に幸福でございました」
「サマルカンド……!」
思わず手を伸ばし、声を上げる。
サマルカンドが、血のついた手のひらをぎゅっと握り込んだ。
「"血の掌握"」