血に濡れた短剣
彼女が三人目を無感情な目で一瞥すると、その光のない瞳の底知れぬ暗さに怯えたのか、未だ年若い彼の肩が、びくりと震えた。
彼が怯えたのはあるいは、彼女が持つ血に濡れてぎらつく、禍々しい意匠の大型ナイフだったかもしれないし、あまりにも簡単に仲間の魔法使いの女性が殺された事実だったかもしれない。
それとも、彼女が着ているのが愛らしいデザインのメイド服だという、非現実感に不気味さを覚えたのだろうか。
リズの方は、その一秒かそこらの間に、観察を終えていた。
軽装で、二刀短剣。背中には短弓、腰には矢筒。レンジャーといった所か。
覚悟を決めて突き出されたナイフを、左のナイフの柄に備えられたソードブレイカー……櫛の歯のような四本の鉄棒が絡め取り、あっさりと宙に舞わせる。
武器を飛ばされた勢いのままに彼の右腕は跳ね上げられた。そして、そこに生まれた隙間を、蛇のように右のナイフが突き進む。
せめて心臓を守ろうと突き出された左のナイフを僅かに避け、左手首の動脈を断ち切った。
溢れ出る血を、咄嗟に押さえようとした瞬間に、彼は終わった。
痛みも、流れ出る血も、命よりは価値がない。
痛みに耳を貸せば、一秒後には死んでいる。
それが、戦場だという事を、彼も分かってはいただろう。
それでも、分かっている事と、出来る事は違う。
痛みと生命の危険を身体が訴えた時、それでもその訴えを棄却し、後何秒動けるかを考える事。
反射的な行動を、それこそ脊髄反射で行わない事。
苦痛の軽減ではなく、回避か攻撃へ回す事。
それらは本能に逆らう行為ゆえに、ただ訓練でしか身につかない。
そして彼女は、その訓練を十分に積んでいて、彼には足りていなかった。
背を曲げて手首を押さえた事で晒した首筋を、右のナイフが深く切り裂く。
苦痛で背中を反らせて絶叫を上げた彼の両目を横一文字に一閃して潰し、両の手のナイフを宙に放り投げた。
両ふとももに備えられた、太い釘のような投擲用短剣を三本ずつ、両手の握り拳の指の間に挟み込んで引き抜く。
三本をほぼ戦闘能力を喪失したレンジャーの少年の胴に投げ、残りの三本を、剣を抜いて斬りかかってくる白騎士へ投擲する。
白騎士は一本を剣で弾き、二本を前へ出て、自分から強引に当たりに行く事で、当たり所を良くしてそらした。
そのための板金の丸みだとしても、至近距離なら十分装甲をぶち抜ける威力の短剣に対する回避策としては大胆の一言に尽きた。
けれど、激痛と大量の失血に苦しみ悶え、そして光さえ失ったレンジャーの少年に出来る事は、何一つなかった。
重要器官の集中する胴体に三本が三本とも突き立つ。
それも一本は肋骨をギリギリですり抜けて心臓へ。二本は肋骨を大きく避けて胃と腸がある下腹へ。
衝撃で弾かれたように飛ぶ死体を見る事もせず、リズは横へ飛んで、白騎士の突撃をかわす。
放り投げ、未だ宙にある短剣を、軽く魔力で引き寄せてキャッチ。共に逆手に握り込んで、構えた。
元々が自分の武器であり、特性を理解しているなら、僅かな距離、魔力で宙を飛ばす事など造作もない。
ただし、それは曲芸の領域であり、実戦で焦って、あるいは調子に乗ってそんな事をして、指を飛ばした戦士の話は酒場の定番ジョークだ。
「よくも……仲間を……」
歯を食い縛る音さえ聞こえるような怨嗟の声を、彼女は聞き流した。
殺しに来たのだ。
ならば、殺されて当然。
それが、戦場の常識だ。
二人は仕留めた。
そして残りの一人が、間違いなく一番手強い。
完全武装の騎士というのが、暗殺者の獲物でないという単純な事実を差し引いても、だ。
目の前の白騎士が、身のこなしから全身の装備に至るまで、並の騎士でない英雄だという事は、彼女ほどの腕がなくとも容易に分かる事だった。
それでも、後退はない。
あらゆる敵を、命令に従って排除。
それが、暗殺者の仕事だ。
罠も、不意打ちも、毒殺も、得意分野を何一つ生かせずとも。
騎士は騎士と――自分と同じような存在と戦うために訓練を積んでいる。
そして、暗殺者はそうではない。
農民を、市民を、兵士を、騎士を、貴族を、王を。
その全てを自らの獲物とするためにのみ、彼女達は存在する。
白騎士が、先に動いた。
鎧と同じく、白と金の精緻な細工で飾られた剣を鋭く突き込む。
全身甲冑に対してのメイド服という、装備の重量差からくる身の軽さを生かして、相手の攻撃を大きなステップで跳んで舞うように避ける。
戦場に全く似つかわしくない服装に見えて、ステップを踏んで身体を一回転させる際にくるりと翻るスカートにエプロン、ふわりと追随する細く長い背中のリボン、ひらひらと揺れる各所のフリルが、距離感を失わせ、惑わせ、幻惑する。
鋭い剣閃を避けるので精一杯に見える、斬り合う気のないステップは、軽やかで優雅な動きに目を慣れさせるためだった。
何度目かの突きに合わせて、逆に鋭く踏み込んで突進して相手の計算をずらす。
ぎちり、と両腕に巻き付けられた赤いマフラーが筋肉を締め上げながら引っ張り、ただでさえ速い動きを強引に加速させる。
左のナイフで刃を僅かにそらし、銀髪を散らして後ろに剣が突き抜ける風を頬に感じながら、右手のナイフを面頬の僅かな隙間、その奥に隠れる眼球と脳めがけて叩き込んだ。
びくん、と騎士の身体が跳ねる。
断末魔すらないが、手に伝わる痙攣は、間違いなく死の感触。
脳を一撃で破壊出来れば、人間は死ぬ。――ダークエルフと獣人、それに大抵の悪魔と竜も。
だから、それを油断と呼ぶには酷だったろう。
ナイフを引き抜いた瞬間、傷口から血が溢れ、そして淡い緑の光が白騎士の全身を包んだ。
虚を突かれ、目が眩みながらも反射的にもう一度突き込んだナイフは、面頬の表面に傷を付けただけに終わり、装甲された膝蹴りが腹に食い込んで、彼女の身体をくの字に曲げた。
「っ……はっ――」
苦痛のためではなく、肺から空気を強制的に吐き出させられた際に漏れた声が、どこか他人事のように耳に届いた。
そして浮いた身体に向けて、剣が振り上げられ、振り下ろされる。
(大好きだよ、リズ)
どうしてだろう。
まともに反応も出来ない一瞬の事なのに。
頭をよぎるのは、穏やかな日の光景。
耳に蘇るのは、あの人の声。
血飛沫が舞った。




