失われたもの
彼女――リーズリット・フィニスは、天幕の中で目覚めた。
「……リズ。起きたか」
「あ……レベッ、カ」
粘ついて、上顎に張り付くような舌を引き剥がすが、呂律が回っていない。
「これを飲め。薄めたウーズだ。お前は丸一日寝ていた。今は、『決戦後』二日目の夜だ」
「は、い……」
小さな手を背中に差し込まれ、半身を起こした。
手渡された金属製のコップに入った、ぬめっとした液体を口に含み、ゆっくりと流し込む。
「トイレは?」
「今は……まだ、いいです」
大分改善されているが、おむつというやつは、やはり普通の下着とは着け心地が違う。
マスターも、負傷時から合同訓練の保険まで、幅広くお世話になったものだ――
と、そこで、はっとする。
「レベッカ。マスター……は?」
辺りを見回すが――人間は、誰一人いない。
姉のブリジットと、他数人の女性ダークエルフが、敷かれた毛布の上で、静かに寝息を立てていた。
野戦病院代わりの天幕、ここは女性用――それも上級士官用の一つなのだろう。
「あのひとは……?」
寝ている者に気を遣い、声を潜めるリズ。
レベッカはその質問に答えず……目を伏せた。
その動きで、全てを察する。
しかし、心が理解を拒んだ。
よろよろと立ち上がり、枕元に畳まれて置かれていたマフラーを首元に巻いた。
さらに、いつもは腕に巻いて武器を操る助けとするそれを、胴体とふとももへと巻き付けて歩行の助けとする。
「……どこに、いるんですか」
「……隣だ」
天幕を出たところで、ぬうっと現れたデーモンへぶつかりそうになった。
直立した黒山羊のような巨体――サマルカンドだ。
「サマルカンド。マスターはどこへ?」
「ハーケン殿は、生還されました。現在、死霊騎士達は他に十二名が見つかっております。リズ様が率いた暗殺班よりは、八名が。……恐らく、これ以上増える事はないでしょう」
「あの戦場を生き延びて、その数を連れ帰るとは。さすがハーケンですね。それで、マスターはどこにいますか? "血の契約"は、ある程度契約者同士の位置が分かるはずです」
「……契約は、もうないのです、リズ様」
サマルカンドがうなだれる。
巨体が力をなくし、小さく見えた。
「……サマルカンド?」
心が認めようとしない可能性が、忍び寄ってくる。
それでは、まるで。
まるで、マスターが――
恐怖感に突き動かされるように、彼女は隣の天幕の入り口を跳ね上げた。
天幕の中央にあるのは、木箱と白布で作られた簡易的な寝台。
そこに寝かされているのは、深緑のローブをまとった黒髪の女性。
それの生死は"薄暗がりの刃"の名で呼ばれた暗殺者であるリーズリット・フィニスにとって、分かり切っていた事だった。
魔力反応がない。暗殺者が、この至近距離で、ひとの生き死にを間違えるはずがない。
それでも、彼女は手を伸ばした。
そして褐色の指先が、死人の白さを持った肌に触れ、その冷たさが肌に伝わった途端、頬を涙が伝う。
「っ……ます……た……」
喉から嗚咽が漏れ、それきり言葉にならなかった。
遺体はそうひどい状態では、なかった。
天幕の薄闇の中では、眠っているだけにさえ、見えた。
手が背中と足に差し込まれ、遺体が持ち上げられる。
首に手が回される事はなく、人形のようにくたりと、"病毒の王"を名乗った女性の腕が投げ出された。
冷たい身体を、ぎゅっと、抱きしめた。
けれど、抱きしめ返される事も、心が落ち着くようなぬくもりもない。
絶望から愛しさまで、ありとあらゆる感情を色濃く映した瞳は、もう二度と開かれない。
背筋が寒くなるようなものから頬が思わず緩むようなものまで、多種多様な笑みを浮かべた顔は、もう動かない。
意味を理解しようとする努力だけで頭が痛くなるような、頭のおかしい発言も、その口から、もう発せられる事はない。
全てが、永遠に失われた。
「……リズ」
しばらくそうしていたリズの腕が震えるのが、心の痛みだけではないと見て取ったレベッカが、その背中に声をかける。
彼女達全員の主――だったもの――が、そっと元通り、横たえられた。
「……勝った……んですよね? 今さらですけど」
「今さらだな。……勝ったよ。『完勝』だ」
「マスターを……死なせて?」
「それでも、だ。少なく見ても、二割が生き残った。負傷者の手当が順調にいけば、三割に届くかもしれん。最高幹部も……五人までが健在だ。私達はそれだけの戦力を残した」
「レベッカは……計算、じょうずですね」
「……すまないな。私には、こう言うしか出来ない。……今は」
「分かってます。……分かってしまうんです」
彼女はレベッカに向けて振り向くと、わらった。
「レベッカ……試しますか? 我らが主が……『蘇る』かどうか」
「……それは……『マスター』か?」
「違う……のでしょうね。でも……あの人なら……もしかしてって……」
絶望的な戦局を、たった一人で覆したひとがいた。
もちろん、本当の意味で一人ではない。
けれど、"第六軍"の者は全員が、「勝てたのは"病毒の王"がいたからだ」と言うだろう。
意味が分からない言葉の意味を理解する頃に、結果が追いついていた。
運も、偶然も、奇跡さえあったかもしれない。
それでもそれは、悪い魔法使いを自称し、"病毒の王"を名乗った一人の人間がいなければ、結実しなかった可能性の一片だった。
そんな彼女なら、もしかして――
「無理だ、とも言っておこう。呼び覚ますべき魂がない。……バーゲストにくれてやったんだろう。最後の奴らの奮戦は、尋常ではなかった」
しかし、レベッカにきっぱりと否定される。
死者の蘇生は出来ない。
どれだけ魔法が発達しても――無理なのだ。
肉体の修復はまだしも、精神や心と呼ばれる領域は、ほとんど一方的に干渉し、壊す事しか出来ない。
感情を昂ぶらせるのも、鎮静させるのも、隷属させるのも、記憶を植え付けるのも……結局は暴力的な改変だ。
そして、『ひと一人』が抱く情報が、いかに多いか。
どこに、それだけの情報を記録出来るというのだろう?
「……その後、バーゲストは?」
「一匹も見つかっていない。……生き残りがいても……な。主はもう……いないのだから」
「そうですね。……あれは、あのひとの群れでした」
黒妖犬を使役する方法は、今もって分かっていない。
たった一人それを出来た人は、「寂しい同士気が合ったんだよ」と笑っていた。
多分、これから先も、誰にも分からないままだろう。




