苦い勝利
無言で、しかし勢いよく天幕の入り口の布がめくられる。
「……千客万来だな」
レベッカは呟いて、立ち上がった。
入ってきたのは最高幹部の二人――"血騎士"ブリングジット・フィニスと、"折れ牙"のラトゥースだ。
二人共鎧を外し、しかし腰に剣を吊っている。
特にブリジットの物は予備の物らしく新品で、そこだけが、全身のそこかしこに包帯が巻かれ、血が滲み、煤け、薄汚れた姿の中で浮かび上がるようだった。
「マスターはそこだ。"保護"を掛けてある」
レベッカが、事実だけを淡々と告げた言葉に、ブリジットの手が強く握りしめられた。
「何を……護衛の者達は、何をしていた!?」
「おい! そいつぁ言いすぎだ」
ラトゥースが、手をブリジットの肩に置いた。
「……あ、すまない」
彼女は、はっとした顔になり、そしてその表情がくしゃりと歪む。
両手を顔に当てて、うめいた。
「っ……死ぬなって、言ったろ……?」
がくりとバランスを崩した彼女の腕をラトゥースが取り、そのまま膝を突いて崩れ落ちるように座るのを手助けした。
ダークエルフの長い耳が下がり、手の隙間から、嗚咽が漏れ、涙が伝い落ちる。
「戦争が終わったら……いくらでも笑顔を見せてくれるって……言ったろ……?」
それは、他愛ない約束。
すまし顔で、どこか超然とした――狂い果ててなお冷静でいるような――そんな彼女が、時折見せる素の表情が、好きだった。
彼女は、城壁の上にいた。
ありとあらゆる悪意と……善意が、彼女を殺そうとした。
大切な人を守る――そのためになら、違う世界の人間を使い捨ててもいいと考えた人間達がいた。
一瞬だけ空いた、明確な防御魔法の隙間――すぐに再編され、埋まってしまう穴を『暗黒騎士団長』が見つけた。
そこに、誰がいようと。
それが、リストレアの民でないなら。
攻撃魔法を叩き込めと。――城壁の上の人間を、全部殺せと、命令した。
"病毒の王"は、"ガナルカン砦攻略戦"が初陣であるとされている。
その真実を一番よく知るのは、ブリングジット・フィニスだったろう。
一度、散歩という名目で連れ出して、『墓参り』をした。
死体を埋めて墓標代わりに折れた剣を一本突き立てただけの埋葬場所。
そんな簡素な墓地を訪れた彼女は、両手を合わせて目を閉じた。
知らない作法。知らない祈り方。
ああ、本当に彼女は人間で……この世界の住人ではないのだと、その瞬間に腑に落ちた。
一度は、必要とあれば殺す覚悟で、剣さえも向けた。
それでも、全てを打ち明けた自分に友人だと言ってくれて――
彼女は"病毒の王"の力を使い、自分は"血騎士"としての力を使った。
お互いに、それぞれの領分で、この国のために戦うと決めた。
その結果が、今だった。
かちかち、と歯を鳴らしながら、それでも立ち上がる。
「すまない……取り乱して……」
彼女は『ブリングジット・フィニス』として、立ち上がった。
歯を食い縛って、細く息を吐いて、震えも止めて見せた。
「もう平気……な、わけねえよな……」
ラトゥースの言葉は、最後は尻すぼみになって消えた。
「平気ではない。……だが、部下も多く死んだ。仲間が……死んだんだ。悲しいよ。彼女は私の『特別』だ。それでも……『特別扱い』は、しない」
目元の涙を、ぐい、と手で拭う。
「私達に出来るのは、歯を食い縛る事だけだ」
ラトゥースの脳裏を、自分の事を囮だと、薄く笑みさえ浮かべて淡々と――当たり前の事を語るように話した女性の顔がよぎった。
「……そういうとこは似てやがるな」
「……『友人に影響を受けた』という事にしておくよ」
ブリジットは、疲れたように笑った。
天幕を出たラトゥースの、狼の耳がぴんと立てられた。
翼の音が迫り、篝火が円を描くように配置された空き地に、滑るようにグリフォンが降り立つ。
「リーフ。しばらくそのまま。――荷物を下ろす! 中も外も"保護"してあるけど、ゆっくりな!」
戦場のよどんだ空気を吹き飛ばすような活気のある声。
ロープで降ろされていく、布で巻かれた木箱を下の者が受け取り、少し離れた所で開封していく。
"保護"は保存のための魔法だが、衝撃に弱い。それを逆手に取って、衝撃の目安とする事もあった。
一度だけなら防いでもくれる。二度三度と衝撃を与えないのは、運び手の鉄則であり、腕の見せ所でもあった。
「少し休んだら、また飛ぶ。――世話? ありがとよ。けど、それはいい。でも、火は絶やさないでくれよ」
ゴーグルを上げ、首元の白いスカーフを緩めて息をつく彼女の頭の、赤毛の猫耳が揺れた。
彼女の名を呼んだ。
「……アイティース」
「あ、ラトゥース様」
彼の顔を認めた途端に、その顔に笑顔が浮かぶ。
その笑顔に胸を抉られたような思いを噛み殺しつつ、ラトゥースは、単刀直入に告げた。
「"病毒の王"が……死んだぞ」
「……っ!」
息を呑み、目が見開かれ……そして閉じられる。
今にも目の前の敵に噛み付きたいとでも言うように、口が薄く開けられ、外気に冷やされて白くなった息が細かく吐き出される。
そして最後に一つ息を吸って吐くと、目を開けた。
「――他には?」
細められた緑の瞳も、出た言葉も、感情が抑制された、落ち着いたものだった。
「え、いや……」
こんな顔をする奴だっただろうか――と、思う。
弟が戦死した時は、他の、"病毒の王"を気に入らない奴らと一緒になって、剣さえも向けた。
身内と認めた相手に対し、自分の持てる力の全てを使うのが、獣人だ。
彼女にとって"病毒の王"は……軍の枠も、種族の枠も超えた友人だと……思っていた。
「他にないなら、私は行くよ」
踵を返そうとする彼女を、思わず肩に手を置いて引き止めていた。
「待てよ。他に……他に、言う事はねえのか?」
振り向くと、アイティースは素っ気なく答える。
「ねえよ。……私は"第三軍"のグリフォンライダーだ。一人でも多くの戦士が欲しい時になんで温存されてたかって言ったら、伝令と輸送のためだろ? しばらく急ぎの医薬品を飛んで運ぶので手一杯だ。……泣いてる暇なんて、あるかよ」
「……おう。けど、よ……」
「ラトゥース様! めそめそしてたら、誰か一人でも生き返るのか!?」
アイティースが、業を煮やしたように叫んだ。
そして、表情を暗くして、うつむく。
「"第三軍"のみんなだって、沢山死んだろ。……敵も味方も、沢山死んだろ」
「……ああ」
彼女が、顔を上げた。
そして、口の端を力なく上げた、苦い笑みを浮かべる。
「――でも、私達は、勝ったんだろ?」
「――ああ」
それだけは、間違いないのだ。
今日、ここに集った者が、ほとんど死んだとして。
ただの屍になり果てて、山と積まれていたとして。
ありとあらゆる種族の命が、使い潰されたとして。
それだけは。
「だから……ひでえ事言うけど……笑っててくれよ……」
「……あ? 笑う?」
「『勝ったんだ』って……『これで良かったんだ』……って……」
言葉の途中で、彼女の声が涙に濡れた。
飛行服の袖を目元に強く押し当てる。
「思わせて、くれよぉ……」
――悲しくないはずが、ないのだ。
身内と認めた相手に対し、自分の持てる力の全てを使うのが、獣人だ。
ただ……彼女は、"第三軍"の中でも、戦士団ではなく魔獣師団に属しているグリフォンライダーだ。
勝つために剣を取って戦うのではなく、勝った後に――あるいは負けた後に――グリフォンと共に飛ぶ事が仕事。
共に戦うと誓った戦友達と肩を並べて死ぬ機会さえ、与えられない。
……だから、志願者が少ないのだ。
けれど彼女は、まるで最古参のベテランのように振る舞って見せた。
自分を律し、感情を脇に置いて、命令に従う。――より多くの命のために。
失われた物ではなく、これから失われるかもしれない物のために。
もう、昔の彼女ではない。
……これも『友人の影響』だろうか。
そっと手を伸ばして、わし……と赤毛を撫でた。
「……悪かった。そうだ。そうだな。……今は泣くな。リーフと一緒に、頼むぜ」
そして、狼の牙を剥き出しにするように笑って見せた。
へたった猫耳が、ぴこっと動く。
「ん……私、グリフォンライダーだから。あいつが――この服を、くれたから」
彼女は胸に手を当てた。
グリフォンライダーに与えられる、飛行服。
八騎いるグリフォン一頭につき、正規の乗り手が一人、予備の見習いが二、三人いる。
あくまで最初は、正規の乗り手が決まっていないリーフの乗り手を決める際に、あえて因縁のあるアイティースにチャンスを与えてみようと思っただけだったが。
国内の足として飛び、ウェスフィアの陥落に多大な貢献を果たしたという"第六軍"軍団長よりのお墨付きを得て、正式なグリフォンライダーになった。
本来、その時に専用に仕立てられるはずの飛行服だが、作戦行動中に、副官であるリーズリット・フィニスに仕立ててもらったのだという。
その後も人間の支配地域までドラゴンと共に飛び――今日の勝利の礎を、翼をもって築いて見せた。
予想以上の成長と、期待以上の成果。
……それが、かの最高幹部が遺した物の一つだった。
「行ってくる、ラトゥース様」
「おう」
スカーフを締め直して、緩めた首元を整えると、ゴーグルを下ろす。
リーフのそばで声をかけ、準備が整うと「飛ぶぞー!」という掛け声と共に最後の安全確認を済ませて飛び上がり、真っ黒になった夜空へ溶けて消えた。
「……なあ、耳なし。俺ぁ、前にお前が泣かねえのを怒ったけどよ……」
"折れ牙"のラトゥースは、もういない、悪い魔法使いへ向けて呟いた。
「お前も、最高幹部してたんだな……」




