舌のない蛇
それは、もう随分と昔の事――に思えるが、たった四年ほど前の事だ。
まだ、リストレア魔王国に最高幹部は五人しかいなかった。
"第六軍"はなかった。
私達ドッペルゲンガーは、なるべく種族を隠して生きていた。
あの人はまだ、"病毒の王"の名前を、持っていなかった。
王城の一室に、私達は集められていた。
一室と言っても、大きめの部屋だ。案内される時、中庭の練兵場に繋がっている屋内訓練場であると聞いた。
壁際にずらりと並んだ訓練用の木剣や、打ち込みの的などの道具が目立つ空間だった。
あの日の事を、私達は、よく覚えている。
ドッペルゲンガーだからだろうか? 物の形のような記憶は、皆、鮮明に覚えているという点は共通していた。
二十八名のドッペルゲンガー。
他、死霊軍より馳せ参じた数十名の死霊を中心とした暗殺者達。
後の擬態扇動班と暗殺班の雛形が、そこにあった。
彼女は私達の前に、生成りで染めていない、淡いベージュのフード付きローブという、後の"病毒の王"の衣装からさっぱりと色を抜いたような恰好で現れた。
二名の黒い鎧の騎士――"第二軍"紋章ではなくリストレア王国紋章を胸に刻んだ、近衛師団の騎士を、後ろに引き連れて。
後の仮面も、肩布も、護符も、杖もなく。
どこかに所属を示す紋章がないかと反射的に探したが、見つからなかった。
「さて、まずはこんにちは」
静まりかえった石造りの部屋の静寂が、そう声を張り上げずとも、しっかりと彼女の声を届けてくれた。
フードをかぶっていても顔は見えたし、声も分かる。
落ち着いて理知的で優しげな――普通の女性だった。
第一印象は。
「名前は……残念ながら、ない」
そう言った時の口元の動きが、印象に残った。
自嘲するようでいて……どこか寂しげな、笑み。
「立場も曖昧なものだ。今より伝えるのは、公的には陛下の命令という事になる。だが、この作戦は私が提案し、魔王陛下に承認されたものであり、陛下は私の口から伝えるようにと仰せだ」
一度言葉を切って反応を見るが、私達は場の空気に呑まれていた。
「よって、客分の身ではあるが、一応は君達の上官という扱いになるらしい。……軍人ではないので、上司と言った方が適切かな」
私達の気持ちは――少なくともドッペルゲンガーの気持ちは一つになっていた。
この人は、何者なのだ?
「名乗る名前も立場もないが、種族だけは分かる」
彼女は、フードに手を掛けた。
その時まで、私達は彼女の事を肌の色から獣人だと、無意識に判断していた。
フードの膨らみ方からして、垂れ耳の犬系だと――
しかし、フードが下ろされた時、そこに獣の耳はなかった。
もちろん、長い耳も。
私の位置からは、ダークエルフと比べると、遙かに白く短い耳が、見えていた。
「私は、人間だ」
微かなざわめきが起こる。
言葉こそ発しないが、吐息を漏らし、目と目を合わせ、身じろぎし……そんな、ざわめきだ。
「さて、作戦を説明しよう。皆には、これより人間の領土へ行ってもらう。そして、人間を殺してもらう」
――それは、説明と呼べる物ではなかった。
少なくとも、その時の私達は、そう思った。
「何か質問がある者は?」
「……はい」
私は、迷いながらも、手を挙げた。
「どうぞ」
指名を受けて、私は最前列まで進み出て、発言した。
「クラリオンであります。……私はドッペルゲンガーゆえ、戦闘能力と呼べるものはありません。そのような危険な任務は、不可能だと言わざるを得ません」
「私は優しい上司だよ。無理はさせない」
彼女は、深紫のフードを目深にかぶっている死霊を一人指名した。
「他の者も、無理だと思うか? ――そこの君」
「……はい。これだけの人数では……」
「そうだね。君達の感覚は正常だ」
軽く頷く。
「だから、もう少し補足しよう」
彼女は――微笑んだ。
「君達に殺してほしいのは、騎士でも兵士でもない。ある村の農民だ」
あの人は、笑ったのだ。
「もちろん、駐留している兵士は一人もいない」
「何を……言っておられるのでありますか?」
自分の声が上ずってかすれた事を、はっきりと覚えている。
「間違いようなく伝えようか」
その時の笑みが、私達を恐怖させた。
頬肉を歪め、歯を剥いて、口元をひきつれさせた笑み。
それは、「この世に悪という言葉の意味を知らしめてやろう」とでもいうような……『笑顔』だったのだ。
「指示された村に赴き、作戦区域内にいる人間を全て殺せ。老若男女、何の区別もなく」
その命令に従えば、作られるのは、この世の地獄。
しかし、私達が負けたら、それはリストレアでも当たり前の光景になるだろう。
今なら、そうと分かる。当時だって、それが分からなかったわけではない。
それでも、私達は全員黙り込んだ。
「全責任は私が負う」
一個人が負える責任ではない。
それでも、彼女はそう言った。
「そしてクラリオン。――暫定だが、村人を全滅させた後は、君が指揮を執れ。君達は、その村の生き残りという事にして、ありとあらゆる流言を広めろ」
「……はい。どういった内容でありましょうか?」
既に軍に組み込まれた身。拒否権があるはずもない。
しかし、続きを聞くのが怖かった。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「後で命令書の形で受け取れ。内容はこちらで用意したが、現場の判断で変えてよい。もちろん、ドッペルゲンガーの変身能力を利用してばらまいてもらう」
「危険が予想されます」
答えながら、私は胸の鼓動を、うるさく感じていた。
自分が、何を命じられているのかを分かるにつれて……怖くなっていった。
そして、同時に。
期待も――してしまっていた。
「ドッペルゲンガーの皆には、能力を使用して人間に擬態しての、民衆の扇動を行ってもらう。よって、危険はない」
「見破られたら?」
「私は、陛下にドッペルゲンガーの能力を正確に説明して頂いた。――見破る方法は存在しない、と」
彼女は、『私達』を必要としていた。
「……外見だけであります」
「それで十分だ。長期間潜伏させるような無茶な真似はさせない。なるべく初対面の相手に、魔族という事だけがばれなければいいのだ。いずれ慣れたら、もう少し複雑な任務をこなしてもらう事になるだろうが、それは先の話だ」
それでも。
それでも、その命令は、あまりに、そう……『非人間的』だった。
それが……例えば"第四軍"や"第五軍"から出た物なら、私達は嫌悪感を感じつつも、それほど意外には思わなかったかもしれない。
しかし彼女は、自分が提案したと言い、責任は全て自分が負うと宣言したのだ。
人間である彼女が。
「今回の任務はテストケースであり、比較的簡単なものだ。能力的には、何の問題もない」
「……その……倫理的には?」
彼女は、微笑んだ。
さっきまでの狂気を孕んだ表情が嘘のような、優しい笑みだった。
「何の、問題もない」
そして、断言した。
「そんな決まりは、どこにもない。我が国の法律は、自国民以外の殺傷を罰する規定を持たない」
「決まりはなくとも……」
「それ以上の何が必要だ?」
彼女は私の反論を探すような、甘えた言葉を遮った。
「勝つために戦っているのだろう? ――この戦争に勝つという事は、一度や二度国境を守り切る事ではないぞ」
この戦争は、まっとうな理由で始まっていないのだ。
まっとうなやり方では、終わらない。
「人間を殺し尽くすまで、あるいは私達が殺し尽くされるまで、終わらないぞ」
「……あなたを……信じるに足る、何かは、あるのでありますか?」
「自分達で決めろ。ただ、陛下は私を信じて下さった。魔法的な契約も行っている。これは、正式な命令だ」
素っ気ない物言い。
正直に言って、その時の私は……危険を知らせる感覚が、全て活用されているような状態だった。
これは、いけない。
ダメだ。
怖い。
狂ってる。
この人は、私達を地獄に連れて行く。
――いいや。地獄を、私達自身に、創らせる。
「私は、信じているよ。君達の能力をもってすれば、何の問題もないと」
――それでも。
誰も、私達ドッペルゲンガーを信じてはくれなかった。
……私達自身でさえ。
「細かい通達は他の者がする。それでは」
彼女はぐるりと、全員を見渡した。
「武運を祈る」
そして最後に、少しだけ口調を柔らかいものに変えた。
「また会える事を、信じているよ」
私は、去ろうとする彼女に向けて何か言わなくてはいけない気になって、思わず手を挙げながら、口を開いていた。
「最後に一つ……もう一つだけ、質問を、お許しいただけますか?」
「うん、一つなら」
「あなたは……本当に、人間なのでありますか……?」
彼女は、力なく微笑んだ。
名前がないと言った時に似た、けれどそれよりも穏やかで、寂しそうな顔をしていた。
「……ああ。間違いなく」
私はその瞬間、この人を信じると決めた。
全員がそうではない。彼女は時間を掛けて信頼を勝ち取った。
私も、盲目的に信じる気にはなれず、しばらくは見定めようとしていた事は否定しない。
ただ、あの時あの場にいた多くの者が、最後の返事の時に見せた表情が忘れられないと言う。
人間が、人間に対してああまで。
自分の種族を呪うように。
ならば自分達に出来る事は――この人を信じて、行く所まで行くだけだと。
魔王陛下は信じた。
"第四軍"の魔王軍最高幹部、"上位死霊"エルドリッチ様も、部下を差し出した。
私達ドッペルゲンガーも、この人に自分達の未来を賭けた。
――そして、私達の『戦果』が、彼女を"病毒の王"と呼ばせた。




