ひだまりの中で
「――ズ。リズ。どうしたの、終わったよ」
ふっと、私はいつの間にか迷い込んでいた過去の記憶から、浮かび上がるように、現在に引き戻された。
差し出された書類の束を受け取る。
「あ……はい、お疲れさまでした、マスター」
「うん。疲れた……」
"病毒の王"の私室。
部屋の主は、執務机に突っ伏した。
「はー。机あったかくて気持ちいいなー……」
彼女は、日の光を浴びた机の天板に頬を押し当てると、目を閉じて、息を吐いて、肩の力を抜いた。
そしてぐてん、となる。
見慣れた光景だ。
気を張っている時はキリッとして格好いいのに、気を抜いている時とのギャップが激しい。
……ただ、"第六軍"の者には、実はそちらの方が人気があったりする。
私だって、嫌いではない。
先日、結婚式を挙げてからも、それほど生活は変わっていない。
一応正式には、私の部屋は今も隣だ。
ただ、恋人になってからは、着替えもほとんどこちらへ置いているし、夜はほぼ一緒に過ごしている。
マスターは「愛の巣って言葉の響きがちょっと好き」と言う。
私は「ああ、そういうとこ鳥類並ですよね」と返しておいたが、心の中では同意する。
彼女は、私の事を隙を見て甘やかそうとしてくる。
……一部は受け入れ、一部は跳ねのける。
気持ちがあまりに重いというか甘いので、私が気を抜くと――どろっどろに甘やかされ、溶かされてしまいそうだと思うのだ。
……少しだけ、気を抜いて甘え切ってしまえば、どうなるだろうと思う気持ちもある。
でも、かつて私が望んだのは、そのような存在ではないから。
私は、暗殺者として完成されたかった。
一本の短剣でいたかった。
信頼される道具に、なりたかった。
今の私が、どこまで理想に近付けたかは分からない。
ただ、私は近衛師団として、それなりに人材育成に貢献したという自負がある。
暗殺者としても、情報収集に護衛……暗殺まで、それなりに『貢献』した。
私に転属命令を伝えた『先輩』――近衛師団に序列はなく、軍団長も魔王陛下であるという体を取っているので建前上は同格だが、事実上の暗殺者のトップ――からは「貴方は少し強行突破しすぎだと思う」と言われたが、そういう状況が多かったので仕方ないと思う。
命令は絶対。
もちろん他殺という証拠を残してはいけない状況ならそうするが、ただ殺せばいいだけなら、護衛ごと突破するのが一番手っ取り早いと思う――というような事を、言ったら。
先輩はぼそぼそと「強行突破出来てしまう時点で割とおかしいし、それをおかしいと思ってないのがおかしい。優秀なんだけどむしろ不安になる」と言った。
少しは聞き取って、覚えられるようになったが、未だに頭に染みこまず、上手く意味が取れないひとりごと。
どういう意味だろう。
おかげで、暗殺者なのに"薄暗がりの刃"などという二つ名で呼ばれるようになってしまった。
本来、リストレアにおいて二つ名で呼ばれるのはステータス。
でも、暗殺者としては二流の烙印を押されたに等しい。
とはいえ、これは『上』の判断でもある。
国家に仇成せば、薄暗がりから刃が迫る。
後には、そういう脅しの意味も込めて宣伝された。
ささやかれる噂に実体を与えた――という意味では、"病毒の王"と似たようなものだ。
派手な名前は、実態を覆い隠す。
私達暗殺者は、薄暗がりの住人。
私が目立てば、他の者が目立たなくなる。そういう、役割だ。
"薄暗がりの刃"の名を消すのではなく、むしろ広める事になったという説明を受けた時。
先輩に「派手な名前だけど、やってる事の方が派手だから丁度いい気もする。もちろんバックアップするから、なるべく強行突破しないように」と言われた。
これは普通に言われたから意味が分かるはず……なのに、やっぱりどういう意味か迷う。
私はただ、命令通りの仕事を、自分が出来るやり方でこなしただけだ。
今の私は、"病毒の王"とセットで語られる事が多くなった。
結婚してからは……特に。
たまに、近衛師団の元同僚や、文官の娘達に、同性婚について聞かれたり、相談されたりするが、あまり気の利いた事は言えてない。
ただ、幸せだと伝えているだけだ。
そして、この国には複数の種族がいて……性別も、一つの要素に過ぎないと。
「……お疲れさまです」
手を伸ばして、マスターの髪を撫でた。
さらさらの髪。――上位死霊なのに、髪も、肌も、触り心地は以前と特に変わらない。
「……ふふ。なんか、リズに撫でられると、疲れが溶けてくみたい……」
マスターが口元を緩めて、ちょっと目を開けて私を上目遣いで見つめた。
「やっぱり上位死霊でも、疲れるんですね」
「あんまり肩はこらなくなったけどね。精神的な疲労は溜まる」
「……休憩しましょうか」
書類をトン、と揃えて机に置いた。
(他の事も、覚えられるわ)
マルタの言葉を、たまに思い返していた。
けれど、必要と思えなかった。
殺し方以外の事を覚えたいと思ったのは、マスターに出会ってからだ。
一応、炊事・洗濯・掃除など、一通り家事は出来る――つもりでいた。
しかしそれは、軍人として寮や宿屋で過ごすのに不自由がない程度で。
あるいは暗殺者として短期間潜入したり野営するために必要な技術で。
メイドとしては、全く足りないのだと思い知らされた。
ただ、それにマスターが不満を言った事は、ない。
料理を焦がした時も、明らかに味付けが変な時も……一度だけ、塩と砂糖を取り違えた時でさえ、何故か妙に嬉しそうにしていたものだ。
出来てしまった甘すぎるシチューは、台所の設備に不慣れながらも、明らかに私より料理に慣れた彼女が調整し……そのシチューは、優しい味がした。
彼女は、私に不満らしい不満を言った事がない。
不満がないのかと問えば、「メイドさんがいてくれるだけで胸がいっぱいだから」と笑顔で言い切り、二の句が継げなかった。
それでも――特に最初の一年、ふとした拍子に体調を崩す彼女に、少しでも出来る事をしたくて。
それらの原因は、いくつか挙げられるだろう。
彼女が最高幹部という称号に似つかわしくないほど、丁寧にしていた書類仕事の疲れ。
時折差し向けられる、人間と――魔族の暗殺者によって、命が危険にさらされていた事。
……それと多分、食事の栄養バランスが悪かったと思う。
彼女はダークエルフでも、獣人でもないのだ。
魔力が多いほど、身体機能は安定するが、それでも――元々の身体のつくりが、違う。
割と適当な事しか語らないが、彼女のいた国は、もっと暖かったのだろう。
最初は、私に暖炉の火を強くしてほしいと言う事さえ、遠慮しているような有様だったから、なおさらだ。
お互いに、どことなく距離を詰めかねていたような、探り合いの果てに。
いつものように熱を出し、治った後も心細そうにしている病み上がりの彼女に、思わずといった様子で袖を引かれ……振り払う事も出来ず、目を離す事も出来ず、添い寝し……懐かれた。
その後、いつもより近くまで寄ってくるのを追い払うと、犬だったら尻尾が力をなくすのが見えるだろうというほどに、しゅんとして。
私なんかに少し優しい言葉をかけられただけで、それはまあ嬉しそうにして。
私なんかを、世界で一番大切な存在であるかのように、笑顔を向ける。
情も移る。
考えてみれば、彼女はほとんど一人だったのだ。
軟禁……いや、監禁同然で、王城の一室で時間を過ごしていた。
彼女は初めて会った時、「話し相手が欲しかった」と言った。
……私達は、彼女になんという事をしたのだろう?
思い返すと今でも、胸が痛む。
あの王城の一室は、客間として使われる事もあるが、監視用の部屋だ。
豪華な牢獄とさえ言えるほどに、何もないのだ。
彼女は――何も持っていなかった。
姉である暗黒騎士団長の手紙以外、頼れる物を、何一つ持たず。
この世界の住人でさえなく、記憶を奪われ、辛い目に遭って……人間達に、ただの薪や油のように、燃料として『使われる』ところだった。
そんな彼女を……ようやく築いた僅かな人間関係を捨ててでも、この国の――私達のために、何かをしたいという気持ちだけを抱いて来た相手を。
閉じ込めて。
本さえ与えず。
たった一人にした。
それからも、ドッペルゲンガー達も、文官達も、最初は明らかに怯え、警戒していたから、今のような和気あいあいとした雰囲気はどこにもなかった。
今では、"第六軍"の空気をうらやましがる他軍の者もいるほどだ。
戦後作られた『上官にしたい幹部ランキング』とやらでもトップになっていた。
けれど……それらは全て、時間を掛けて培われたものなのだ。
そして王城を離れた後は、『囮役』として、この広い屋敷に……ほとんど一人きりで……。
最初は、それが合理的な選択だと思った。
この人は、自分を道具だと規定した。
……私と同じように。
それでも、私は彼女の語る言葉があまりにも残虐で、非道で……そこから導き出される作戦が効果的だったから、気付かなかったのだ。
彼女は、自ら軍に志願した私と違い、戦闘訓練も、軍人としての教育も、何一つ受けていない、『ただの人間』だという事に。
それでも、彼女は魔王軍最高幹部"病毒の王"で。
私は、副官ではあっても、ただの暗殺者だった。
人間と、ダークエルフ。
ただの、上官と部下。
私は、彼女と自分の間に、一本の線を引いた。
その線に気が付く度に、彼女は少し寂しそうにして。
それでも、彼女は私が引いた線を、自らの立場を守り続けた。
……私が、自分の気持ちを、抑えられなくなるまで。
「それで、マスター。もしよかったら……」
かつて望んだのは、まともな主。
マスターが、そうであるかは、怪しい所だ。
けれど、確かに、リスクとリターンを考えて作戦を立案し、きちんと命令書にして命令をくれて……暗殺者を甘やかす。
もっとまともな主は、いるかもしれない。
「昔話、聞いてくれますか?」
けれど、私がこんな話を聞いてほしいのは、彼女だけなのだ。
私を、道具とは見ない人。
それでいて、私を暗殺者である事を認めてくれる人。
その人の命令になら、喜んで命を懸けられるような、そんな人。
いつか夢見た、理想の主?
……いいや、そんなものではない。
――絶対に生き延びて、この人の元に帰ると、あのイトリアで誓った。
それでも、私は自分を優遇はしなかった。
暗殺班の全員に、自分を含めて死ねと言った。
一人でも多くの指揮官を刈り取り、戦場を混乱させ……そして、"病毒の王"の元へ殺到する敵軍の圧を弱める。
私は正直にそう作戦目的を伝え、全員が笑って頷いた。
それは、叶わなかったけど。
この人は、私の所へ、帰ってきてくれた。
いつかハーケンも言っていた。
――「理想など、所詮頭の中で思い描く美しくもあやふやな絵にすぎぬ」……だったか。
彼女の事を、理想の主だと思った事はない。
一から理想の主を想像するなら、絶対に彼女のようにはならない。
ただ、私達は彼女の事が大好きなのだ。
マスターが起き上がり、さっきまで自分の髪を撫でていた私の手を取って、それはそれは愛おしそうに、両手で包み込む。
初めて会った時には、見せてくれなかった表情だ。
……それを今、私一人に向けて見せてくれる事を、幸せだと思う。
「もちろんだよ、リズ。聞かせてくれる?」
薄く透けた顔に笑顔を浮かべて、私のマスターが微笑んだ。




