失われた光
魔力の限界は、すぐに来た。
体力も魔力も似たようなものだ。血に濡れた包帯で、操り人形のように無理矢理動かし続けた全身は、悲鳴を上げていた。
包帯に通していた魔力をカット――と言うより、気を抜いた瞬間に消えていた。
血で張り付いているだけになった包帯が、じゅるりと粘ついた音を立てて半ばまでほどけ、染みこんだ血が端からぽたぽたと滴った。
固定具を失い、手から滑り落ちた格闘用のナイフが板床に、とすりと突き立つ。
同じく手から滑り落ちた斧が、ごとりと音を立てた。
視界が赤く霞むような錯覚を覚える……と思ったが、錯覚ではないようだった。
目の細い血管がいくつか破れたのだろう。まばたきしても、視界の赤が消えきらない。
空気には血の臭いが満ちていて、慣れていてもなお精神に来る。
ある者は首を切られ、ある者は頭を割られ、倒れ伏している。
生きている人間は、一人きりだった。
マルタは鉈で受けた傷を手で押さえていたが、出血量からして、致命傷だった。
最高の魔法使い達と、上等な薬と、栄養のある食事と、安静に出来る環境があれば、あるいは。
今この場では、その中の一つさえ望み得ない。
「……マルタ」
ふらつきながらも歩み寄り、手を伸ばし……その手が、止まった。
私は、ダークエルフだ。
人間の彼女に、今さら何を?
「……リーズリットちゃん? 無事、なの?」
荒い息で、それでも彼女は、私をちゃん付けで呼んだ。
そして、手を伸ばし、私が伸ばして途中で止めた手を掴んで、引き寄せた。
弱い力だ。
今の私よりもなお弱く、その手を振り払う事は容易かった。
「私は……ダークエルフです」
なのに、何故か、そんな事を言うしか出来なかった。
彼女が、目を閉じたまま笑う。
「……知ってた」
「――え?」
「肩を貸して抱えたら、長い耳が当たるんだもの……。その後も、服を脱がせて、ベッドに寝かせて……気付かないはず、ないでしょ」
「では、何故、私を……殺さなかったのですか?」
簡単に殺せたはず。
グスタフにがぶりとやらせても、ナイフで喉を掻き切っても、血を流したくないなら顔に濡れ布巾を貼り付けても、よかった。
「私は、ただの罠猟師だもの……」
「その前に人間だ。私達の――敵のはずだ……」
私達と人間は、三百年以上の長きに渡って戦い続けているのだ。
「壁の向こうの国……リストレアのひとなのよね?」
「……はい。リストレア魔王国の、軍人であり……暗殺者です」
「逆に聞くけど、どうして、私を殺さなかったの……?」
「え? ……それ、は……」
ふと、その選択肢を、検討さえしなかった事に気が付いた。
助けてもらったとはいえ。
彼女は、敵国の人間なのに。
人間であるというだけで。
違う種族であるというだけで。
敵のはずなのに。
いや、それ以前に。
私がダークエルフだと知っていたという事は。
「……殺されるかもしれないと思って、私の世話をしていたというのですか?」
そんな人間の事を、私は信じられなかった。
「まあ、そうね。……そういう事に、なるわねえ……」
マルタは、ふうっ……と息を吐く。
「結局、同じ人間に襲われて……魔族のひとに心配されるなんて、おかしいわね……」
「マルタ」
彼女の手を握る。
「今からでも、傷の治療を……」
「喋れてるのが不思議なくらいよ……」
彼女は首を横に振った。
それでも万に一つの可能性があれば、私はそうしただろう。
けれど、そんな『高い確率』を夢見るには、私は人の死を見過ぎていた。
「最後にお願いが……あるの」
「なんでも。――命を救われた恩に懸けて」
「みみ……さわっていい?」
「……耳?」
「うん……ちゃんと、触ってないの。起きちゃうかなって……そんなところ気付かれたら、誤魔化すのも、出来ないかな、って……」
「……存分に」
顔を近付け、彼女の手を、自分の耳にやった。
しばらくふにふにと触っていたが、段々と、その力が弱くなっていき……私が支えてさえ、指先から力が抜け、私の耳から手が離れた。
「思い残すところ、だった」
彼女は満足げに息をついた。
「……ありがとう、可愛い盗賊さん」
「……暗殺者です。私は……殺し方しか知らない……」
私が、暗殺者でなければ?
回復魔法を、使えれば。
いや、そもそも。
私がもっと優秀な暗殺者なら。
手傷を負っていても、これぐらいの素人集団を簡単に殺せる腕があれば。
……もっと優秀だったら、そもそも手傷など負わなかったかもしれない。
私が彼女と会う事はなくて。
私が来なくとも、どのみち彼女は盗賊に殺されていただろう。
それだけの話だ。
それだけの話なのに。
割り切れない自分がいる。
「……ダークエルフって……人間よりずっと、長生きするんでしょう?」
彼女が目を開けた。
薄茶の瞳。光を映さない瞳。
それでも私の瞳には、彼女の笑顔が映った。
「他の事も、覚えられるわ」
それが、彼女の最期の言葉だった。




