ささやかな恩返し
傷の治りが、遅い。
……というか、これが普通なのだ。
手持ちの僅かな薬――血止めの軟膏と、麻痺毒でもある痛み止めは、既に使い切った。
潜入前に隠してきた手荷物の回収にも失敗したから、腰の小さなポーチに残った、本当に最低限の量しかない。
回復魔法で傷を塞いでもらう事も出来ず、治りをよくする薬草もない今の状態では、無理は出来なかった。
探しに行きたくとも、この体ではそれもままならない。
もう少し動けるようになったら、ここを発ち、リタルサイド城塞へ戻らねば。
一応任務は果たしたのだ。
彼女は――マルタは、人間だ。
この戦争がどう終わるにせよ、きっと……誰もが幸せになど、有り得ない。
『上』は、和平の道を探っているようだが、向こうが私達『魔族』を種族ごと認めていないのだから、どうしようもない。
人間が魔族を殺し尽くせば……戦争は終わるのだろうか?
私達という敵を失えば、今は先送りにしている問題が表面化するだけではないだろうか?
その逆も。
魔族が人間を殺し尽くせば……――
私は、そこで思考を打ち切った。
出来るはずがない。
向こうは私達を滅ぼせて、私達にはそれだけの力がない。
それが現実だ。
それでも私達が、相応の血を流さねばならない敵である間は、この『安定』と『平和』は保たれる。
時の流れが、人の憎しみを薄れさせてくれれば……という儚い祈りは、歴史上、何度も裏切られてきた。
……ただ、今の私は、マルタを殺したくない。
彼女は私の命を救ってくれた。暗殺対象でもない。ダークエルフとさえ気付いていない彼女を害する合理的な理由は――存在しない。
彼女はランク王国の住人で、敵国の人間かもしれないけど。
甘いとは思う。
けれど、もっと大きな力に翻弄される彼女を見て、それを敵だとは……まして殺すべきだとは、私には思えなかったのだ。
となれば、多少なり恩返しなどしたくなるのが情というもの。
マルタに、ちょっとした手伝いなどを申し出て、「傷に障らない範囲なら」という条件で、彼女はそれを受け入れた。
私は斧の刃を軽く木に入れ、叩き付けて割って薪にしていく。
時折積まれた木にも斧を入れ、枝を払い、短くし、薪にしやすくする。
薪が少なくなっているという事で、薪割り中だ。
「リーズリットちゃんは、薪割り上手ね。音がリズミカルだわ」
「……いつもはこれを、目に頼らずに?」
「まあね。多分、出来は悪いんだろうけど、まあなんとかなるものよ」
彼女は魔力量が割とある方だし、盲目の人間は音や空気の流れで世界を見ているとも聞く。
今の私が単に目をつぶっている状態とは違うのだろうが――それでも、よく一人で生活出来ていると思う。
一度「物の配置は変えないでね」と言われた。
私がいなくても、彼女はこれまでの人生を生きてきた。
だから、私がいなくなった後も――彼女の人生を生きていくのだろう。
物は少しずつ劣化していく。
グスタフだってずっと生きてはいない。
彼女自身、年老いていく。
その時……彼女を支えるものは、きっと何もない。
「そうだ。もしよかったら……お花、摘んでくれない?」
「花? 薬用か、食用か、どんなものか教えて下さい」
「いや、そういうのじゃなくてね。その辺のでいいから、コップに生けて」
「……はあ」
水の入ったガラスコップに生けた、名前も知らない白い秋の花を前に、マルタは楽しそうにしていた。
「見えないのに、花を?」
「少しだけどいい香りがするし、こんな風に触れても、ね」
テーブルをつうっと指先で辿り、コップに当てると、それに生けられた花をそっと撫でた。
「でも、自分一人だと中々……ね」
つんつんと花がつっつかれて揺れ、ふわりと、微かにだが優しい香りが鼻をくすぐった。
「……私ね、結婚して……るのよ。夫は、罠猟師でね。私は農家の出だったけど、嫁いでから罠を使う狩りを覚えたの」
ぽつぽつと話し始めた彼女を遮る事はせず、黙ったまま頷き――伝わらないと分かり、言い直した。
「罠の仕掛け方が上手いから、長いのだと思っていました」
「十三の時から、十五年だもの。……罠のある生活の方が長い」
「……その、目は……いつ?」
「十八の時よ。……もう十年になるのね。冬に熱を出して……薬を飲んで、熱が引いて、汗でぐっしょりの布団から起きたら、真っ暗でね」
彼女はふっと、笑ってみせた。
「薬が合わなかったのかもしれないわね。夫が街に出て買ってきてくれたのだけど、その年は病が流行っていて、薬が足りなくて……怪しいお店もあったって噂よ。……失明するといった病ではなかったみたいだから」
よかれと思って手に入れた薬が、自分の妻を傷付け、光を失わせたかもしれないとなれば――どんな気持ちになるものだろう。
病が流行るのは仕方ない。けれど、それによる被害が大きくなるのは……国家、そして統治者のせいが大きい。
「それから少しずつ……慣れていったの。夫はもっと広い範囲に罠を仕掛けていたし、大型の獲物が掛かって、解体を現地でしたりする事もあったから。一日二日、留守にする事もあったのよ」
目が見えていれば――それは、当たり前の日常。
けれど、光を失った後なら。
「夫は目が見えなくなった私が普通に生活出来るように練習するのを、手伝ってくれたわ。自分がいない一日や二日の間は、一人でいられるように。私が、一人でも生きていけるように……」
少しだけ、自分とかぶった。
自分も軍の中で訓練し、腕を磨いてきた。
敵を殺し、仲間を殺されないために。
一人でも生きていけるように。
「でも……罠の見回りから帰ってこなくて……もう、二年になる」
「それ、は……」
「行商の人がね? シーズンごとに、毛皮を取りに来てくれるのよ。日用品も適当に見繕ってくれて、助かってるの。夫の事も、何か耳にしたら教えてくれってお願いしてる。でも、分からないって……」
マルタが、息をつく。
「お金は、全部かは分からないけど、ちゃんと残ってる。そういう意味で『捨てられた』のではないのは、確かよ。……でもね。彼一人ならいくらでも『やり直せる』。盲目の女なんて……邪魔だと思っても、私は彼を責められない……」
「……マルタ」
「考えるのよ。彼が、罠を仕掛けている途中、森の中で獣に襲われて死んでしまったのと。私が……見捨てられたのと……」
それは、どちらを選んでも、幸せにはなれない二択。
「どっちの方が、いいのかって……」
「……生きてるかも、しれない。何か、事情があって。戻れない、だけかも」
私の言葉は、実に陳腐だった。
私が殺した領主にも、護衛にも、歩哨にも……それぞれの人生があり、大切な人がいただろうに。
「……ありがとう。リーズリットちゃん」
マルタの顔に、少しだけ笑顔が戻る。
彼女に、少しでも何かしたくて。
「夕食は、私が作ります」
そして、作った夕食を食べた彼女の顔からは、笑顔が消えた。
その後、頑張ってぎこちない笑顔を浮かべて見せたのは、彼女の優しさだろう。
それと、根性。
「……うん、次からは私が作るわね」
「…………」
思ったより、自分が料理が下手だと分かった。




