文化的相違点
犬の吠え声が聞こえる。
すごく、近くから。
夢では――ない?
「グスタフ? お客様が起きちゃうでしょ。静かになさい」
「んっ……」
べろん、と頬を犬の舌が舐める。
獣の臭いが鼻につくが、そのおかげで目がさめた。
薄目を開ける。
窓から入る太陽の感じからして、昼前といった所らしい。
私は、誰ともなしに呟いた。
「……ここは……? リタルサイド?」
「いいえ、ガナルカンよ。リタルサイドは、もっと向こう」
女性の声が答える。
「あそこには魔族の人達が城塞を築いてるもの。危なくて、近付けないわ」
違和感を覚えた。
それも、強烈な。
しっかりと目を開けて、声の方を見る。
栗色の髪をした女性だった。
……ダークエルフに比べると、はるかに白い肌。
耳は、短い物が二つだけ。
瞳の色は、目を閉じられているので分からない。
――人間?
「何故、私を助……け……」
言葉が、尻すぼみになっていく。
――助けられたのか?
もしかして、これから……。
反射的に、ほとんど習性で最悪の可能性を考えるが、続けられた言葉が、とりあえずそれを否定する。
「怪我をしている女の子を森で見つけたら、助けるわよ。そういう時はお互い様でしょ。やけに軽装だったから驚いたけど」
驚くのは、そこではないはずだ。
自分は、ダークエルフで、彼女は人間……助ける理由がない。
そう思ったが、真意を読めず、黙り込む他ない。
けれど、彼女が続けた言葉に、はっとする。
「服は洗濯中。腰のポーチとナイフは、ベッド脇に置いてあるわ。でも、持ち物が全部揃ってるか分からないの。ごめんなさいね、私、目が見えないから」
「……目が?」
彼女を見ると、目を閉じたままだ。
「ええ。もう長いし、少しは魔力の流れが分かるし、グスタフもいるから、そんなに不便はないのよ」
目を閉じたまま彼女が笑うと、栗色の髪が揺れた。
「グスタフ……他に、住人が?」
「え? ああ……グスタフは犬の事よ。私はマルタ。罠猟師よ」
そう言う彼女の様子に、特に演技は感じられない。
そもそも敵対する気があるなら、目覚める前に殺すか、もっと入念に拘束するのが普通だろう。
盲目で、耳にさえ触れていないなら……ダークエルフとは気付かないものかもしれない。
人間とダークエルフは――それほど近しい種なのだ。
「あなたのお名前は?」
少し躊躇い、それでも素直に答えた。
「リーズリット……」
フィニス、とは続けない。
不自然ではないはずだ。ランク王国では、名字を持たない者も多い。マルタという彼女も名字は名乗らなかった。
ペルテ帝国では、かつての部族名から派生した名字が普通にあり、書類上の住民の区別に使われているという。
ダークエルフのルーツは、かの国の砂漠にあると聞く。もしかしたら名字を持つ者が多いのは、その名残なのかもしれない。
「……危ない所を助けて頂き……ありがとうございます。ですが、急ぎの旅なので、これで……失礼を……」
身体を起こし、ベッドから起き上がろうとしたところを、マルタに肩を押さえて止められる。
耳が当たらないように思わず首を捻った。
「ダメよ」
「いや、でも、ご迷惑をお掛けするわけには」
「ダメです」
有無を言わせない口調。
「……事情は聞かないわ。でも、あんな怪我をして、薄着で一晩過ごして、無事だったのが不思議なぐらいよ。今、行かせるわけにはいかないわ」
「……貴方に危害を加えると、考えないのですか?」
私は声色を硬質な物に変え、薄く笑った。
「私が盗賊だったら?」
どの国でも盗賊は厳しく取り締まられるために珍しいが、飢饉の年などはそれでもなお、食い詰めた者達が盗賊に身をやつす。
そうでなくとも、単独の強盗程度なら、どこにでもいるものだ。
……特にこの、苛烈な税率で名高いランク王国では。
平時でさえ生かさず殺さずと搾り取られるのに、厳しい年となれば。
それでも、王国へ……正規軍へ公然と反旗を翻す事は出来ず……絶望と焦燥に追い詰められ、同じ境遇の民を襲う『盗賊』が出る。
今年の夏は、冷たかった。
南の方はよくても、この北の地では――
彼女は口元に手を当て、少し考える様子を見せた。
「……まあ、いいかなって」
「はい?」
「光をなくした時にね、私は一度死んだのよ。……少しだけ、見える世界が変わったの」
「……なおさら、警戒心を持つべきです」
「盗賊はね。そんな親切な事言わないの。お礼言って立ち去ろうとか、絶対にしないの。もしあなたが盗賊なら――向いてないわ」
ぐうの音も出ない。
確かに盗賊ではないのだけど。
私、暗殺者向いてないのかな……と真剣に考えさせられてしまう。
しかし暗殺者であればこそ、仕事以外では刃を抜いてはいけない。
私達は、狂人ではないのだ。
たとえ、人殺しであったとしても。
「悪いようにはしないから、もう少し寝てなさい」
子供のように寝かしつけられ、憮然としながら、傷がひきつらない位置を探す。
背中の傷には当て布がされ、包帯が巻かれている。
それ以外全裸だという事に気が付いてしまうが――見ると、窓から見える庭の物干し場に、フードその他が干され、風に揺れていた。
台所に立って、何事かしていた彼女が、コップを片手に戻ってきた。
「これ……は?」
薄緑色。
お茶だろうか? ハーブによっては、こういう色になる。
しかし差し出される時――コップの中の液体が、不自然なほどに揺れなかった事に気が付く。
「お湯で薄めたウーズよ。ちょっとぬめっとするけど、身体にいいの」
それは、知ってる。
飲んだ事もある。
ランク王国でも、ウーズを飲むとは知らなかった。
……人間達が日常的に"粘体生物生成"を使っているとは聞いた事がないが、天然物のウーズをお湯で煮て、薄めて飲む文化は――もしかしたら、私達が壁を築いて人間と生活圏を分ける、三百六十年ほど前からあって、こちらでも連綿と受け継がれてきたのかもしれない。
――ただ、リストレア魔王国で推奨されている希釈率は、正確に計量するなら『二十倍』だ。
実際それが守られているかというと、医療現場でもなければ割とアバウトなのは認める。
それでも、普通、さらりとするまで薄める。
これは、どろりとしていて。
どう考えても『贅沢すぎる』。
「え、いや……あ、そうだ。トイレに」
「これ飲んでからね。お腹の調子がよくなるから」
有無を言わせない彼女の口調に押され、コップにおずおずと口を付ける。
いつもより希釈率が低いウーズは、喉に絡みついて。
すごく、ぬめっとした。




