黒い犬の記憶
――ほんの少し前の、夢を見た。
使用する魔法は、漏れる魔力反応が限りなくゼロに近い、僅かな精神調整魔法と身体強化魔法のみ。
そうしてする事と言えば、ただの食糧泥棒だ。
誰も頼れぬ敵地。手持ちの食糧には限界があり、可能な限り痕跡を残さず、複数の家から少しずつ物資を『調達』する事が、必要だった。
誇り。名誉。
……暗殺者にそれは、必要ない。
ドブネズミのような真似が、仕事。
それでも、勝つためなら。
この国を、守るためなら。
そう思うのに、心がじくじくと、ゆっくりと血を流して、腐っていくような気がする。
歪な安定が今にも破られようとしている空気をひしひしと感じるのに――派遣されたのは、自分一人。
それも、正式な命令書さえなく。
――以前、黒妖犬を討伐した時もそうだった。
何の栄誉も、報いもなかった。
暗殺者は日陰者だから――というわけでもなく、ダミーの籍は暗黒騎士団の兵士なのだし、国内の魔獣討伐任務なら、少しぐらいの恩賞があってもいいものを。
敵は黒妖犬。
二十匹の群れ。
それをたった二十匹の犬ころ、と侮るような馬鹿は、指揮官しかいなかった。
確かに引き連れた討伐隊は五十人を数え、数字の上では余裕の相手だった。
群れの数が増えれば危険だが、単体で見れば、あくまで中級の魔獣なのだ。
手練れを同数以上用意すれば、負けない事は容易い。
しかし、数を増やせば黒妖犬は出てこない。
腕にもよるが、同数以上はまず狙ってこない。
黒妖犬が勝てると判断するギリギリの数を引き連れるのが黒妖犬討伐のセオリーで、それゆえに危険度が高い。
大人数を繰り出すのも示威行動としては悪くなく、奴らは危険があると思えば森の奥に引く。人里から追い払えば、それでいいのだ。
そもそも黒妖犬に殺されたと――はっきり分かる――事例は、ごく少数なのだ。
行方不明者の何割かは、黒妖犬に魂ごと喰われているとまことしやかにささやかれているが、所詮は噂だ。
黒妖犬は群体型の魔獣とされるが、同一個体だという説もあり、それが真実なら、果たしてどれだけの魂を蓄えているやら、想像もつかない。
まあ、そんなものはおとぎ話にしても、黒妖犬と喧嘩したい馬鹿がそうそういるはずもない。
不幸だったのは、上官がそういう馬鹿で、さらにタチの悪い事に『黒妖犬と喧嘩させたい馬鹿』だった事だろうか。
私はたった一人で、おびき出すための囮にされた。
応援が来てくれる手筈――ではあったが。
実際には、すぐに助けが来る距離に味方がいれば、黒妖犬が近付くはずもなく。
魔力反応をギリギリまで抑えられる私が、上官の独断と偏見で選抜され、森にほど近い草原へ放り出された。
自分達を狙っているらしい相手から『一人はぐれた』のを見て、単に飢えを満たすために目を付けたのか、はたまた弱い所から削ろうとしたのか。
とにかく私は、あっさりと囲まれた。
一応、攻撃魔法適性がないながらも使える、連絡用の調整"火球"を一発打ち上げはしたものの――応援は、戦闘開始に間に合わなかった。
生死を賭した戦いだった事は、間違いない。
ただ、今までの魔獣の討伐とは、全てが違った。
希薄な気配。完全な連携。後ろに目が付いているのかという動き。目には赤い光が灯り、黒い毛の先がほんのりと白く輝いて、宙にたゆたう。
それはまさしく、死神のようだった。
たった一つ救いがあるとすれば、遠距離攻撃手段を持たない事。
すれ違いざまに、一匹ずつ仕留めていく。
お互いの命を削り合うような、それでいて、言葉よりも強くお互いを分かり合うような感覚。
刃を首元に埋め込まれる瞬間でさえ、それは殺気のような物を示さなかった。
まるで熟練の暗殺者のように、淡々と。
ただの獣とは違う。生存本能に突き動かされているのではなく、猟犬に近い。
何かに従うようにして動いていた。
そしてそれは――群れの長ではないような気がした。
野犬の群れ、狼の群れ……そういったものと、どこか違う気がした。
上官殿が欲しがったのも、分かる気がする。
魔法で縛りに縛れば、完成するのは出来の悪い番犬であろうと――黒妖犬というのは、どこか、特別なのだ。
誰もが知っているぐらいに有名で、けれど被害は少なく、戦った者も少ない。
ただ、農村部では時折家畜が『正体不明の被害』に遭い――そういうのは大体黒妖犬のせいにされる。
濡れ衣かもしれないが。
三百六十年ほど前――建国初期に初めて捕獲。『番犬』としての運用方法が確立されたという。
けれど、スパイクの仕込まれた落とし穴のようなものだ。
踏み込んだ範囲の敵に噛み付くトラップの一種であり、本当は番犬と呼べるようなものではないし、まして猟犬などではない。
上官殿は、黒妖犬を猟犬のように仕込みたいのだろうが。
そんな奴がいたら、歴史に残る英雄だ。
殺さない余裕など、あるはずがなかった。
囮として黒妖犬を引きずり出し、さらに後続の精神魔法が使える者が来るまでに手傷を負わせ、弱らせる――というのが私に与えられた任務だったが、許されるなら全力で拒否したい。
私は暗殺者なのだ。
殺し方しか、知らない。
仕留める度に、瞳の赤い輝きが消え……手に付いた黒妖犬の赤い血も、薄く透けていき、消えていく。
まるで不死生物のような消え方だ。斬れば肉の感触があり、傷口からは血が噴き出るのに。
噛み付かれた右ふとももと、噛み付かせた左腕から、さっき見た黒妖犬の物と同じ赤い血が流れ、褐色の肌を伝う。
魔力吸収能力の込められた牙――厄介な物だ。
半分の十匹を倒したところで、ようやく討伐隊がやってくる。
囲まれ、数の優位を失ったバーゲストが数人を負傷させつつも斬り倒され、弱らせたところを精神魔法で拘束される。
何故か、それに痛みを覚える。
『お仲間』の負傷ではなく、先程は死神とさえ思えた黒妖犬が、ただの犬のようになって、ぐったりとしている姿に。
後から護衛付きでやってきた上官殿には全く褒められず、色々あって、もう何も期待していないとはいえ、単純に疲れる。
討伐隊の者は、多少は気を遣ってくれたが、もう少し真剣に上官を止めてほしい。道具に徹する事を望まれる暗殺者と違い、騎士は意見具申も仕事のはずだ。
最初、一人で黒妖犬と戦った感想はどうだとかも聞かれたけれど。
感想は一つだけ。
――もう、二度と黒妖犬とは戦いたくない。




