平穏な日常
私は、庭にいた。
後ろには、リズとサマルカンド。
私の手の先には、お腹を見せて寝転がるバーゲスト。
周りにも数頭いて、次に撫でられるのを大人しく待って……ないな。
お仲間が撫でられるのを邪魔するほどではないが、待てないとばかりにすり寄ってくる。
右手で腹毛を撫でながら、左腕をすり寄ってきた一匹の首に回し、顎下をわしゃわしゃと撫でた。
空を見上げると、秋晴れの高い青空が広がっている。
切れ切れの細い雲が筋になってゆっくりと流れていく。
太陽に温められた芝生の上で、膝を崩して座っていると温かい。
もう暑くはない。
日本なら、まだ残暑の厳しい季節だろうけれど、ここでは長袖でも丁度いいぐらいだ。
もしかしたら、日本にいた頃よりも、穏やかな時間。
今日はいい日だ。
「ねえ、リズ」
「なんですか?」
「こんな毎日が、ずっと続けばいいね」
「……最近、週一で命を狙われていますので……もう少し平和だと嬉しいですね……」
「あはは」
「笑う所ですか?」
「笑う所だよ」
ここで笑えないなら、"病毒の王"は向いていない。
「我が主。この命に代えても、我が主の生命をお守り致します」
「……サマルカンド? もうちょっと自分を大切にね?」
「ええ。私は骨の一片から血の一滴にいたるまで貴方のもの。ゆえに、私は最後の瞬間まで貴方の盾でありましょう」
「……ああ、うん」
勢いに負けて頷いた。
バーゲストを撫でるのを切り上げて立ち上がると、リズにそっと歩み寄った。
そしてにこりと笑いかける。
「大好きだよ、リズ」
「えっ!? ……ど、どうしたんですか急に」
「言いたくなったの」
「……っこのマスターは……もう……」
リズが狼狽をすぐに消して、小さくため息をついた。
――リズのマフラーは、特殊だ。
魔力で作られた布、魔力布製で、所有者が魔力を通すことによって、ある程度は動かせる……とは本人の言。
リズは魔力量は並だが、魔力コントロールは訓練の賜物により、最高クラス……とはやはり本人の言。
その高いコントロール能力を生かして、魔力布マフラーを腕に巻き付け、自身の動きを強引にサポートする事で格闘戦性能を上げているという。
重大な欠点があるのを伝えるべきなのだろうか。
ぴこぴこと動くマフラー。
どうも、リズのマフラーは、たまに本人の感情に連動して動いている。
戦闘中は感情を調整する魔法を使っているというし、集中しているから問題ないのだろう。
普段は、いい意味で気を抜いているので、気付いていないのだろう。
しかし、たまに感情がダダ漏れ。
とはいえ、中身がどういうものかは、あくまで私の推測になる。
でも、大体犬の尻尾と同じようなものと考えてよさそうだ。
とりあえず、好きと言われて悪い気はしないらしい。
「でもマスター、なるべく危ない事しないで下さいね」
「私、実はそんなに危ない事してないよね?」
「……ええ、まあ。実はそうなんですけどね」
リズが、不承不承といった感じで頷く。
何度か、バーゲストしか護衛を付けずに一人で外出した以外は、『危ない事』はしていない。
私は死にたがりではないのだから。
それでも危ない目に遭うのは、私が色々狙われる立場だからとしか。
リズがいなければ、私はとうの昔に死んでいる。
「けれど、マスター。何度でも言います。覚えておいて下さい」
リズが、真剣な瞳で私を見つめる。
「あなたの代わりなど、誰もいません」
ストレートな言葉に、ぐっと来る。
「ありがとう、リズ」
けれど。
「……でも、本当はよくないんだけどね、そういうの」
「……どういう事です?」
「個人に頼るべきじゃないんだよ」
人を一人殺すことさえ、平時の成熟した社会においては重罪だ。
けれど戦時には、それは罪とされない。
その責任は、人一人が個人の意志で背負うべきではない。
私はちょっと開き直っただけだが、本当はよくない。
私が壊れたら――あるいは、私がまともになったら、どんな事になるか。
「トップでさえ、替えが利く存在であるべきなんだ」
ビジネスでも、やっぱりカリスマの社長、創業者、最高経営責任者などがもてはやされるが、いなくなった途端に業績が芳しくないものになったりするのも、よくある話。
「……それ、危険思想だと思うんですよ」
「そう? 私の世界では普通なんだけどな」
リズの言う事も分かる。
この世界の国家は、多少名前は違えど、基本的に王を戴く絶対君主制だ。
そこでトップの替えが利く存在であるべきという思想は……魔王陛下の前では、言えないかも。
「マスターの世界、狂ってません?」
「まあ、人間のやる事だからね」
人間は長くて百年程度で死ぬのだ。
役割を果たせる時間は、もっと短い。
魔族は種族によるが、全体的に世代交代は緩やかだ。
けれど、戦争をしているのだから。
特に軍人であるならば。
魔王軍最高幹部でさえ、替えの利く歯車であるべきだ。
「……暗殺者としての私は、マスターの言う事、分かります。替えの利かない存在を、ピンポイントで殺す事を望まれる存在ですから」
そう、呟くように言うリズ。
「でも、私はあなた以外の"病毒の王"に仕えるつもりは、ありませんからね」
「……うん」
軽く抱き寄せる。
「やっぱり私が死んだら、二代目"病毒の王"やるって事だよね!」
「やっぱりうちのマスターは思ったより頭悪いですね」
呆れた顔で言葉の刃を閃かせて、私の妄言を一秒で切り捨てるリズ。
さすが暗殺者だ。
出会った頃に比べれば、本当に表情豊かになったし、舌の冴えも、今や癖になるレベル。
この立場を捨てる気には、中々なれない。
「サマルカンド。周辺警戒を引き続き頼む」
「御意。心安らかに過ごされますよう」
サマルカンドが一礼する。
すり寄ってきたバーゲスト達の首筋を撫でて、もたれかかるように倒れ込みつつ、彼女の手を引いた。
抱き寄せて、一緒にバーゲストの群れの、黒いもふもふの毛皮に埋もれる。
「お昼寝しよっか」
「……仕方ないマスターですね」
リズが呆れたように、けれど極上の笑みを向けてくれた。
この時間は、後少ししかない。
冬が来れば、庭でこうやってバーゲストに埋もれて眠るのは出来なくなる。
ふと泣きたくなるぐらいに、平穏な日常だ。
この立場になる事を選んだ時には、もっと辛い道行きになると、覚悟を決めていたのに。
今はもう、彼女がいない日常を、生きていたくない。
こんな毎日が、ずっと続けばいい。
けれど、私の名乗るべき名前は一つしかない。
"病毒の王"
魔王軍最高幹部。
人類の怨敵。
だから、私が望んだ平穏な日常とは、ただの夢物語だ。




