病と毒の帰還
リストレアの王都は、悲しみに包まれていた。
戦争には勝ち、王都には住民と、避難民が共に戻りつつある。
略奪すべき物は何も残していかなかった王都の被害は、皆無に等しかった。
しかし、あの決戦で七割近い兵が失われた。
"イトリア平原の戦い"でリストレア魔王国が勝利した理由は、いずれ伝説となっていくだろうエピソードと共に語られている。
リタルサイド城塞で、従軍可能なほぼ全てが失われたはずのドラゴンが、八十騎参戦した事。
"病毒の王"の演説によって地に落ちた敵軍の士気と、高まった自軍の士気。
開幕に叩き込まれた、かつてない規模の攻撃魔法だと伝えられる、天から降った流れ星。
攻撃魔法の盾として使われた死霊術の失敗作にして傑作、"不死の大巨人"。
たった四百人で先陣を切り、囲まれつつ前進を続け、最終的に僅か十数人になりながらも敵陣を突破してみせた"病毒の騎士団"。
ランク王国の竜鱗騎士団の槍騎兵を『倒した』という、"病毒の王"が使用した、『生命創造魔法の奥義』によって生成された『強大な召喚生物』。
そして最後に、"病毒の騎士団"と共に戦場を駆け、さらに混迷の度合いを増していく終盤の局面において、獅子奮迅の働きを見せた黒妖犬の群れ。
もちろん、他の魔王軍最高幹部、そして末端の兵の一人に至るまで、それぞれの役割を果たした事は間違いない。
これが総力を結集して勝ち取った勝利である事に、疑いはない。
ただそれでも、多くのエピソードに"病毒の王"の名が見え隠れする。
生き残った者達は、その名を尊敬と……痛みを込めて語った。
魔法使いの身で戦場に立ち、そして帰らなかった、最高幹部の事を。
一つの棺が、決戦の場になったイトリア平原から帰ってきていた。
その棺を見守る者は、六人の最高幹部の中で唯一帰らなかった一人を悼み、喪服であり、最上位の礼装でもある黒を身につけている。
棺の中身に収められているのは、一人の人間の遺体だ。
棺を守り、粛々と王城へ進むのは四人。
いずれも、彼女に仕えた縁の深い者達。
先頭を行くダークエルフの女性が持つのは、所々に火の粉で穴が空き、ほつれ、煤け、薄汚れた旗だった。
"第六軍"の紋章、『短剣をくわえた蛇』が縫い込まれた、一目見て戦場より持ち帰られた物と分かるその旗の名前は、『病毒旗』。
この旗を目指して敵軍が殺到し、最後の最後まで、この旗は戦場に立ち続けたという。
――その主が倒れた後も、なお。
一匹の黒い犬を連れ、深緑のフード付きローブを目深にかぶった人影が、ふらりと人混みから棺の前にまろびでた。
「……何者です。その姿……この棺の中身が、誰か知っての狼藉ですか」
病毒旗を持ち、短い葬列を先導していたダークエルフの女性が、喪服の黒レースのヴェール越しに、闖入者に鋭い視線を向ける。
「これ、誰のお葬式?」
女性の声だった。
「"病毒の王"様です……もうよいでしょう。道を空けなさい」
その深緑と若草色のローブを重ね着した恰好は、"病毒の王"がまとってより、定番となった。
しかし、その当人の葬式に参列する恰好には、全くもって相応しくなかった。
闖入者が、首を傾げる。
「やっぱり私死んだ?」
「……わた、し?」
鋭い目を向けていたダークエルフの、声が震える。
「下がっておられよ、リズ殿。――フードを下ろされるがよい!」
左腕に喪章である黒布を巻いた一人の骸骨騎士が、ダークエルフ――リーズリット・フィニスをかばうように前に出て、剣の柄に手を掛けた。
「事と次第によっては……」
「私もまだ、事と次第がよく分かってないんだけどね、ハーケン」
ぱさり、とフードが下ろされる。
「っ……」
棺を守っていた、四人全員の顔が歪んだ。
骸骨のハーケンだけは表情が変わらないが、瞳の青緑の鬼火が大きく揺れる。
ざわざわと、葬列を見守っていた市民達にも動揺が広がる。
フードの下にあったのは、長い黒髪の女性の顔だった。
白い肌は比喩ではなく、半透明に透けている。
けれど、長い耳も、褐色の肌も、獣の耳も、山羊の角も、もちろん鱗も、何一つ持たぬそれは。
紛れもなく、人間の姿だった。
ささやかれる"病毒の王"の正体の噂。
公式発表はなく、強いて言えば公式には『種族不詳』となる。
それでも根強くささやかれる、"病毒の王"の種族の筆頭は――人間。
不死生物の元の種族は問わぬというのが慣習ではあるが、人間の不死生物は、少なくとも広く知られている中にはいない。
直立した黒山羊の姿をした悪魔が、儀礼用の斧槍を、その顔に突きつけた。
「あり得ぬ。かの尊きお方の姿を借り、名前を騙ろうとは不遜の極み……」
「サマルカンド。その理由は?」
「私は"病毒の王"様に"血の契約"を申し出て、あのお方はその契約を受け入れられた。既に契約はなく、あのお方はこの棺の中に眠っておられる。遺体は見守られ、不死生物となる事もなかった。ゆえに……ゆえに……そうであるはずが……」
言葉の最後が、震えた。
女性は、うんうんと頷く。
「まあ、正論だね」
「……いくつか、聞こうか」
「レベッカ」
ずい、と進み出た、黒服をまとう肌の白いエルフ耳の少女に向けて、透けた顔に笑みを浮かべて、その名を呼ぶ。
入れ替わりに、サマルカンドの斧槍が引かれた。
レベッカ・スタグネットは、硬い表情を崩さないまま、言葉を続けた。
「……私達の名前など、知っていて当然だ。今から、いくつか質問をするぞ」
「私に答えられる限り、答えよう」
「あの方の、妹の名前は?」
女性の表情が、少し陰る。
「答えられぬなら、話は終わりだ」
「……私は、その質問に答えられないよ、レベッカ」
悲しそうにうなだれた。
「では――」
「待て、サマルカンド。まだだ」
動こうとした悪魔を、レベッカが制した。
「どうして、答えられない?」
「忘れちゃったから……」
悲しそうに呟く。
「……私の、生まれた国の名前は?」
「オルドレガリア」
「私の……私の、メイドの名前は?」
「デイジー」
「っ……」
レベッカが、後ろのリズをすがるように見た。
固唾を呑んで見守る周囲の誰も、彼女の答えが正解かは知らない。"病毒の王"がそれを知っているのかすら。
だが、その反応が何より物語っていた。
「――あなたが! あなたが、真にあの方であると……"第六軍"を率いた者であるというのなら!」
リズが、病毒旗を取り落とし、黒いヴェールを引き千切るように外し、彼女と向き合う。
「リズ」
「答えてみなさい! あの方が掲げた、我が陣営の目標を!」
女性が、透けた顔に微笑みを浮かべた。
彼女は、地に落ちた旗を掴み、そして掲げた。
ぼろぼろの旗が、風を孕んで、力強くはためく。
石突きを石畳に打ち付け、その激しさに火花が散った。
そして人が変わったかのような、朗々とした声で宣言する。
「私は、"病毒の王"! 目標、人類絶滅……!!」
リズの顔が、怒りと失望に歪んだ。
しかし女性は、柔らかい口調で、言葉を続ける。
「基本方針は、『面白おかしく』」
リズの顔が、くしゃりと歪んだ。
「マスター……なんですか? 本当に? 嘘じゃないですか? 幽霊じゃないですか?」
「多分そうだよ。本当かどうかは、まだよく分からない。幽霊なのは、そうかも」
リズが、両拳を握りしめて、涙声で叫んだ。
「まだ……また、私の事大好きだって、言ってくれますか……っ!」
――『私』は、微笑んだ。
「何度だって言うよ」
手に持った旗を手放すと、歩み寄って、彼女を抱きしめた。
しがみつくように私を抱きしめ返して、声を上げて泣きじゃくるリズの背と頭を優しく撫でる。
そして彼女の長い耳に、精一杯の愛しさを込めてささやいた。
「ただいま、リズ。……大好きだよ」




