"病毒の騎士団"
人間側の陣営は、混乱に満ち満ちていた。
先の演説が真実なら――"病毒の王"の正体はただの人間の若い女で、最高位の悪魔や、不死生物ではない事になる。
それはいい知らせのはずなのに……あの、人類の怨敵にして非道の悪鬼が人間だったかもしれないというその事実が、兵達を動揺させていた。
人間が正義で、魔族が悪だと――その図式を素朴に信じ、あるいは信じ切れぬまでも故郷を守るためにと、ここまでの厳しい旅路を歩き通してきた。
あらゆる前提が、一瞬で崩れた。
自分達が数の上で圧倒的優位に立ち、魔族を北の果てへと追い詰めているという『事実』を、兵の心の支えにすべく、指揮官達は繰り返し強調してきた。
それが全て、裏目に出た。
そこに、巨大な魔法陣が大樹のように天に伸び上がり、それが消えたと思ったら地上に魔法陣が描かれ、天からの流れ星が中央を粉砕した。
逃げ腰と兵に陰口を叩かれつつも、本陣を後方へ置いていたのが功を奏し、指揮能力が失われてはいないのがせめてもの救いだろうか。
追い討ちとばかりに現れたのが、巨大な肉の巨人だ。ありったけの攻撃魔法が叩き込まれ、その動きを止めたが、生きて帰ったら全員がうなされるだろう、悪夢から抜け出したようなおぞましさだった。
しかし、そのおぞましささえ、序の口だったかもしれない。
最前線に、一本の旗が翻った。
力強く掲げられ、冷たい風を受けてはためくのは、二又の尾を引く旗だ。
黒地に金糸で縁取られ、銀糸で縫い込まれたるは、短剣をくわえた蛇。
最前線でその旗印を確認した者達から、うめき声が漏れた。
「病毒旗……!」
その旗印を知らぬ者が、この戦場にいるだろうか。
リストレア魔王国、魔王軍最高幹部、"第六軍"軍団長、"病毒の王"の紋章を。
その旗を掲げ持つのは、不死生物特有の青緑のオーラに包まれた、死霊騎士の一団だった。
全て、『格が違う』。
雑兵と呼べる者など、一兵もいない。
この数の英雄クラスを揃え、温存もせずに先陣を切らせるなど、正気の沙汰ではない。
さらに狂った事に、黒妖犬が多数付き従っている。
「我らは、"病毒の騎士団"!」
先頭をひた走る一人の死霊騎士が、声を張り上げた。
古めかしい鎖鎧をまとっているが、背骨が剥き出しだった。
「「「「「我らは、"病毒の騎士団"!」」」」」
死霊騎士達全員が、唱和する声が戦場に響く。
知らぬ名前。だが、待ち構える全軍が心に刻む。
あの肉の巨人など、ただの前座だ。
そしてあの旗を掲げ、病毒の騎士団を名乗り、黒妖犬を猟犬のように従える者達が、あのおぞましき大魔法使い、"病毒の王"の配下でないわけがなかった。
両軍が、激突した。
並べられた長槍が、突き出された槍の林が、藪を切り開くが如く、容易く切り払われていく。
打ち合わされた剣が折れ、鎧のない部分を切り裂かれ、鎧の隙間に剣の切っ先をねじ込まれ、果ては鎧ごと両断される。
足下を滑るように突っ込んでくる黒妖犬に足首を噛んで引きずり倒され、喉を噛み裂かれ、剣を掲げた腕に食らい付かれ、出来た隙を死霊騎士に突かれる。
最前線の彼らは、自分達が捨て駒だと、薄々分かっていた。
人類救済のために――そして飢えるよりは――と志願しただけで、ろくに戦闘訓練も受けていないのだから。
長槍で、相手の突撃を少しでも食い止めるための存在だと、分かっていた。
攻撃魔法がその間に削ってくれる……はずなのだが、中央が吹き飛び、その後かなりの火力を先の巨人に集中させた影響で攻撃魔法は散発的で、相手の動きは全く鈍っていなかったし、被害らしい被害も見えなかった。
「畜生! 畜生……!!」
両腕ごと槍を切り払われ、それでも死に損ねた一人が呻く。
せめて、後続が早く来てくれと願う。
自分はきっと死ぬのだろう。だが、それでも。
意味もなく死ぬのだけは、嫌だった。
その顔が、喜色に染まる。
――白く輝く、全身甲冑の一団が見えた。
無数の光の槍が投げられ、一部は切り払われ、しかし一部は直撃し、不死生物の不浄なる魔力を根こそぎにし、消滅させていく。
思わず、傷の痛みも忘れて快哉を叫んでいた。
彼はエトランタル神聖王国の人間で、敬虔な信徒だった。
そうでなくとも、この大陸にあの騎士団の名を知らぬ者がいるだろうか。
"福音騎士団"。
対不死生物、対悪魔に特化した、神聖王国の神聖騎士団の最精鋭。
"病毒の王"によって"福音騎士団"は一度壊滅させられたが、再編が行われ、再びあの騎士団は神聖王国の花形に返り咲いた。
そうだ。何も失われていない。
"ドラゴンナイト"も、"福音騎士団"も、"帝国近衛兵"も、確かに失われ、損なわれはしたが。
人間は、まだ魔族よりも多く、強いのだ。
あってはいけない。
あんな不浄なバケモノ共が、この地の覇者になる事など。
人間が、負ける事など。
あってはいけない。
「雑魚に構うな! 切り捨てて、前進せよ!」
だから、先頭の死霊騎士が言った言葉の意味が、彼には分からなかった。
生え抜きの神聖騎士が、黒妖犬もいるとはいえ、不死生物の戦士達に打ち負け、鉄と肉の塊に成り果てる事など、信じられる光景ではなかった。
あれは、神聖騎士団の最精鋭のはず。
一度はその全てが……失われたとは……いえ……。
混乱する頭が必死に紡いだ、言い訳のような思考が、目の前の戦局を綺麗に説明した。して、しまった。
"福音騎士団"は、神聖王国最強の騎士達だった。
ゆえに、代わりなどいない。
不浄を滅ぼすべき最高の騎士達であり、後進を鍛え上げるべき最良の教師達は、あの白き山で、果てた。
"病毒の王"に、殺された。
あれの正体が人間だったとして――あれが最も人類に仇成した存在である事実は、揺らがない。
あれは、人類の怨敵。
同じ人間であるというなら、なおの事。
「囲まれる事を恐れる者など最早おるまいな!? ただひたすらに前進せよ! 一歩でも前で果てよ。一歩でも先で死ね! その上で生き残れ! ――我らが主のために!!」
「おう!」
「無論!」
「死ねと言った後に生き残れとは、ハーケン殿は無茶という言葉をご存知か!?」
「ああ、よく存じておる! 我が主がよく口にされるからな!」
「違いない!」
「全く、我らはよい主を持ったものだな!」
「それこそ違いない!」
口々に応じる声と共に、死霊騎士達は前進する。
立ちはだかる者を切り払い、自らも刃に倒れ、それでもなお前進する。
顎骨を打ち鳴らしながら、殺して、殺されて、それでもなお立ち止まらない。
「長きに渡る侵略を、今日ここで終わらせるのだ!」
……侵略?
ありえない、あってはいけない光景に心が冷え、絶望し命を手放そうとしていた彼の心に、疑問符が灯る。
お前達が先じゃないか。
お前達が、"病毒の王"なんて、人間にあるまじきバケモノを担ぎ出して攻めて来なければ……。
声が、遠くなっていく。
ああ、やはりあいつらは、バケモノだ。
あんなに、楽しそうに笑って、殺し合いをするなんて。
……少し、羨ましいな。
自分達が笑えたのは、ごく最初の方だけだった。
罠に怯え、配給される食糧が徐々に減って飢え、本国よりも遙かに冷たい水で喉を潤す度に、心が冷えていくようで。
悲壮感と、使命感と、絶望感に包まれ。
それでも歩み通した背後で、守ろうとした全ては失われていた。
あれらの主である"病毒の王"は、一体どういう存在だったのだろう……?
もう、声は聞こえない。
そしてもう、何も見えなかった。
彼はただ、祈った。
自分の信じる神に。そして、運命と呼ばれるものに。
人類に力をお貸し下さいますように、と。
彼を踏み越えて、ダークエルフの暗黒騎士団と、獣人軍の戦士団と、死霊軍の死霊騎士団が押し寄せる頃には、彼はもう息絶えていた。




