星の落ちる時
"病毒の王"の演説を受け、人類側の空気は冷えて、動揺している。
それでも、勝たねば本当に全てが終わると、今し方位置を示した"病毒の王"を目標に、攻撃の準備が整えられている。
対するリストレア魔王国軍側は熱を持ち、迎撃の態勢を整えたまま、自分達の王による『開戦の合図』を待ちわびていた。
「陛下。始めましょう」
彼は――魔王の称号で呼ばれるリストレア魔王国国王は、自分の傍らに立つ、伸び上がるような巨体の上位悪魔――"旧きもの"の言葉に、頷いた。
「うむ。……リストレア。よくぞここまで、私を信じてついてきてくれたな」
「へ、陛下?」
デーモンらしい骨だけの山羊の頭に、黒い毛むくじゃらのひょろりとした異形。
しかし彼にとっては、四百年以上を連れ添った相手の、見慣れた姿だ。
「勝っても負けても、今日、私達が始めた戦いが終わる」
「……いいえ陛下。戦いは終わりませぬ。我らは人類を滅ぼす事を目的としていない。――皆が笑える国を作ると、そう誓ったのです」
「平和になったら、引退したいものだが、な」
「……下手に未来を語ると、死の旗が立つと言いますよ」
「そういえば"病毒の王"がいつか言っておったな。旗がどうとか……。ジンクスのようなものだと言っておったが」
頷いて、彼は笑った。
「では、かの病と毒の王の協力で完成した魔法のお披露目といこう、リストレア。……我が愛しき上位悪魔よ。約束を果たすためにも、な」
平和になったら、結婚しよう――そんな約束をしたダークエルフと、デーモンがいた。
常に壁の向こうに敵がいる、戦争をしていないだけの小康状態を『平和』と呼ぶ気にはなれず……未だ果たされていない、遠い日の約束。
それでも、忘れた事などなかった。
――お互いに。
「陛下……!」
彼は手を伸ばし、彼女の頭の山羊骨をそっと愛おしげに撫でた。
「"契約において"。全魔力解放。後の事は、気にするな。……『俺』に力を貸せ、リストレア」
「はい――我が愛しきお方」
"旧きもの"の全身が、ほどけた。
膨れ上がった魔力と反比例するように、身体が縮む。
褐色の肌に、黒髪。山羊骨の暗い眼窩に燃えていた橙色の鬼火を閉じ込めたような、金の瞳。
人型となっても変わらぬ、湾曲した四本の山羊角が、同じ存在だと主張しているようだった。
同時に、自らが悪魔であると宣言するかのような、背中のコウモリに似た翼の薄紅の皮膜が裂け、それでは収まらず、成長を続ける樹木のように伸び上がり、高く掲げられる。
金色の瞳が、燃えるように輝いた。
爆発的に跳ね上がった魔力反応に、両軍に動揺が走る。
特に人間達の動揺は、魔族達の比ではなかっただろう。
魔族達にとっては、"病毒の王"の演説の後、魔王陛下が『開戦の合図』をする――というのは、知らされていた事だ。
ただ……皆、長く戦場に立っていない、老齢の国王がする合図というのは、あくまでのろし代わりの"火球"を上空に打ち上げる事だと思っていた。毎年している、新年の挨拶のように。
魔王陛下と共に従軍した者は、リストレア国軍の中にもう少ない。
それでも、古参の者は、誰もが口を揃えて言う。
魔王陛下がいなければ、リストレアという国はなかったと。
それが、政治的手腕という意味ではなく――実に物理的な意味だと、遅まきながら、その場に集ったリストレアの民は理解した。
武力をもって攻め来たる脅威を打ち払い、地獄の激戦と呼ばれた"第一次リタルサイド防衛戦"を含む、建国戦争を生き延びたという事の重さを、理解した。
規格外の化け物が『二人』。
この世界の誰も経験した者がいないような規模の戦いに臨む恐ろしさが、薄れていくようだった。
前面に展開する、自分達の四倍以上の敵軍は、それはもちろん怖いが。
この二人や、"病毒の王"を含む、魔王軍最高幹部達と敵対する方が、何倍も恐ろしい。
本陣付きの者達が、遠巻きに魔王陛下と"旧きもの"を見守る。
一部の者は、"旧きもの"が変身した姿が、ちょくちょく城内で見ていた人型の悪魔だった事に気が付いた。
生活する際に都合がいいからと、平時のデーモンの一部は人型を取るが、まさかその中の一人が、あの"旧きもの"だったとは。
空に、白く淡く輝く魔法陣が浮かんだ。
それが、増えていく。
共に両腕を掲げ、天に届く梯子を掛けようとしているかのように、腕の先に展開する魔法陣を増やし続けている。
魔法とは、積み木遊びだ。
その中でも、遊びの域を超えた遊び。
二人の腕の先にある魔法陣の数が増え続けていく。
そして伸びた魔法陣の連なりが巨大な塔になり、天に届いた。
巨大な魔法陣が、天空に描かれていく。
魔法陣と魔法陣が連結され、それらが巨大な同心円に囲い込まれ、さらにその同心円に魔法陣が連結されていく。
隙間を埋めるように線と文字がほとんど無軌道に、しかし明確な規則性を持つ物だけが生む機能美を有して描かれていく。
全ての線と文字が、ほのかに白く光る。
世界を照らす、淡い光。
遠く果てしない物へ、手を伸ばす憧れを、ひとの目に見える形にして具現化したような。
そして、不思議と楽しそうな声が、唱和した。
「「つかまえた」」
その言葉が発せられた瞬間、魔法陣が下から順番に、白い光から、赤い光へと色を変えていく。
それでは終わらず、全てが変わりきらないうちに、後を追うようにまた下から順番に青い光へ。
魔法陣が色を変えていく。世界が色を変えていく。
そして青い光に満ち満ちた魔法陣が、下から順番にほどけた。
ぱらぱらと破片が舞い散るように。
青くなりきった魔法陣が、はらはらと細かな残骸になって、ひどくゆっくりと落ちていく。
「……これでよいのだな?」
「ええ、陛下。"病毒の王"にうるさく言われましたからな。『大きすぎるよりはマシ』でしょう。小さい物でも、十分な威力だと」
「……うむ、そうだな」
二人で、決戦用術式として練り上げていたこの大魔法を行使するために、このイトリア平原は――近くにリストレアの施設が一つもなく、だだっ広いだけの平原は、本当に適していた。
そして、その中でも『着弾地点』に適している緩やかな盆地へと、敵軍を自然に布陣させる位置取りを、先に押さえたのだ。
あの違う世界からやってきた黒髪の彼女は、口を酸っぱくして言っていた。
――「理論上、問題なく出来るとは思いますが、リストレア魔王国を滅ぼしたくなければ、絶対に――絶対に『弾』のサイズは小さめの物を選んで下さい」と。
そう、確かこうも。
――「最初におっしゃったサイズでは、多分この大陸全部吹っ飛びますからね? 相談してくれて本当に良かったです」と。
そして、こう続けた。
――「私の世界では、ドラゴンより巨大な生き物達でさえ、それで滅びました」と。
「照準用魔法陣、起動、展開」
"旧きもの"の呟くような言葉が聞こえたはずもないが、人間側に動揺が広がる。
何しろ、自分達の足下の地面が赤く輝いたのだ。
――その全貌を分かった者はその場にいなかったが、それは、途方もなく巨大な魔法陣のラインだった。
「座標軸固定。軌道設定。――陛下」
「ああ。……手を」
老いて皺の刻まれた褐色の手に、黒く起毛した手袋に覆われた手が重ねられる。
「「"流星"」」
地上に描かれた魔法陣へ向けて、軌道上の雲と、魔法陣だった淡い光のかけらを打ち払いながら、空を滑るように一筋の閃光が走った。




