リズの提案
――敵軍が、迫ってきていた。
時刻は正午を回った頃。今日は雲が多いが晴れていて、寒々とした北国の淡い色の青空が、どこまでも広がっているようだった。
これから、沢山のひとが死ぬ。
こちらから戦端を開く事はない。
こちらは急ごしらえながら防御陣地を作り、地形を把握し、罠を仕込み、戦力を伏せている。
向こうには、それらの優位はない。しかし数だけは、偵察によると百万を数えると言うから、それだけで十分な脅威だった。
私達はそれより遙かに少ない。
"第一軍"のドラゴンは、"竜母"リタル様を除いて丁度八十。
"第二軍"暗黒騎士団は、"血騎士"ブリジット率いるダークエルフの暗黒騎士が三千。兵士が義勇兵込みで二万と少し。
"第三軍"の獣人軍は、"折れ牙"のラトゥースを筆頭に精鋭戦士団が五千。同じく義勇兵込みの戦士が二万ほど。
"第四軍"の死霊軍は、"上位死霊"エルドリッチさんを筆頭に二十万を数える、数だけなら最大の戦力だ。……が、最低限の訓練しか受けていない者も多く、まともな軍人と言えるのは一割もいればいい方だろう。
"第五軍"の悪魔軍は、"旧きもの"リストレア様の下、三百ほど。上位悪魔は最早二十もいない。
そして近衛師団が、約五百。各軍に優劣はないとはいえ、門の狭さはまさしくこの国の最精鋭と呼ぶに相応しい。
各軍がそれぞれ魔法使いを補助に置いているが、『魔法使い』と軍事的な意味で言えるのは、悪魔を入れても、二千に満たないだろう。
私達でさえそうなのだ。向こうが果たしてどれだけの数を維持しているか。
最後に"第六軍"は、私、"病毒の王"を主と頂く"病毒の騎士団"が四百。リズの指揮下にある暗殺班が二百。黒妖犬がほぼ四百。
たった、これだけだ。
リタルサイドで多くが失われたとはいえ、義勇兵までかき集め、自分達のホームで迎え撃つ決戦に臨むというのに。
長距離を遠征してきて、長らく引きずり回され、同じくリタルサイドで多くを失った敵軍の、四分の一以下……。
この三年近く切り崩し続けて、それでも。
いいや。この四百年以上戦い続けて――それでも。
精鋭は、多くがリタルサイドと、その後の撤退戦で死んだ。
これからもっと死ぬ。
この内の、何人が生き残るだろう?
私はずっと、死ぬと思っていた。
"病毒の王"の名前を名乗った瞬間から。
遠からず、殺されるだろうと。
この人達は優しいから、勝てないかもしれないって、ずっと思っていた。
今日、この人達が勝つとしたら、それは私が非道であったからだ。
今日、私達が勝つとしたら、それは私に非道である事を決意させるほどに、この人達が優しかったからだ。
優しさこそが、"病毒の王"を生んだ。
私は色んな事を諦めて。
自分の人間らしささえ、諦めて。
倫理観も、人間性も、何もかも捨てて、ここまで来た。
私は、地球の歴史が繰り返すべきでないと伝える一端を、地獄のひとかけらを、この世界に落とした。
私は、それらと引き替えに、全てを手に入れたのだ。
"病毒の王"という名前を。
最高幹部のお給料を。
郊外のお屋敷を。
可愛いダークエルフのメイドさんを。
幸せな日常を。
それでも、それはかりそめのしあわせだと、感じていて。
こんな私が、幸せになろうなんて、間違ってるって、心のどこかで思っていて。
「……ねえ、リズ」
「なんですか?」
戦場から離れた丘で、陣を整えていく二つの大軍を眺めながら、私は隣のリズに話しかけた。
「私、生きてていいかな」
「……聞かないで下さい」
リズが微笑んだのが分かる。
「あなたは"病毒の王"。魔王軍最高幹部……ですよ?」
その言葉で、彼女の言葉だけで、私は、自分を許せる気がした。
誰が許さなくとも。
戦後の法廷が、私のした事を、戦争犯罪として裁くかもしれなくとも。
私が、地獄と呼ばれる場所に行くとしても。
私は、自分のした事を、誇れる気がした。
リズが言葉を続けた。
「もう、皆があなたを認めています。先陣を切る"病毒の騎士団"も、あなたの忠実な配下ですよ」
「ところで、その名前、出所どこ?」
「誰からともなく呼び始めた名前ですから、分かりません。四百十二名全員が本来の安全限界を超越した化け物集団。対不死生物に長けた天敵の"福音騎士団"が名ばかりに成り果てた今、数こそ少ないですが、間違いなく切り札です」
「うん。……強くしすぎた」
不死生物は、魔力で動いていて、魔力は生者からしか供給されない。
既に大平原の、厳しい冷え込みに耐えて健気にも青みを残していた草は、こちら側だけ、黒くしなびて、枯れている。
放置すれば、一月で自国を滅ぼしかねない。
「それぐらいしないと、勝てません」
勝つために必要だった。
そして、勝った後には不要になる。
だから、最も危険な最前線を担当させる。
だから……八割は、死んでもらわなければ、ならない。
そんな冷たい計算を、熱い言葉で私に付き従ってきた馬鹿野郎達に適用しなければならないのが、この国の現状だ。
そして、その計算さえ、きっと甘い。
ただ、無為に死なせるための配置ではない。
中央は各軍の精鋭が固めた混成軍。
両翼を固めるのは獣人軍と暗黒騎士団。
死霊軍もその後方に分割されて割り振られている。
上空にドラゴンが、後方にデーモンを中心とする魔法使いが控えて、攻撃魔法と防御魔法で援護。
これが、この国。
多種族共生国家としての、到達点。
それはまるで、全てのピースがあるべき所に収まった、大作ジグソーパズルのような美しさだった。
……これを超えなければ、ならない。
平和になった時に、この光景よりもなお価値のある光景が、あるといい。
それがどんなものかは、今の私には、ちょっと分からないけれど。
ひとが、姿形や、種族や、生まれた場所で争わない世界が、あるといい。
この世界の人間にあるものか。
レベッカの国を滅ぼして。エルフを絶滅させて。
少数部族や小国家など、同じ人間でさえどれだけ殺してきたか、分からない。
私のような、違う世界の人間さえ、ただの資源と見た。
そんな人間達に、未来など、あるものか。
あって、いいものか。
ああ、怖い、な。
私は本当に生きたいと、思ったから。
勝つだけでなく、勝った後の事を、考えたくなったから。
だから、こんなにも怖い。
「マスター。最後に言っておきます」
「何? 愛の告白?」
笑いかけると、彼女は苦笑して――真面目な顔になる。
「それはもうしてますから。――どさくさに紛れて、逃げていいですよ。目立つ衣装だけ脱いで下されば、それで」
私は、思わず微笑んでいた。
「……揃いも揃って、みんな甘々だねえ」
「は? みんな?」
リズが怪訝そうな顔になる。
「陛下やブリジット達もそうだけど、レベッカにも、同じ事言われたよ」
「……そうですか。レベッカも」
リズが少し意外そうにする。
「だから、私は同じ事を言うよ」
にっと、歯を剥き出しにして笑った。
「私は戦うよ」
戦う理由を、持っている。
守るべき物を、知っている。
「……ここは、私の国。私の第二の故郷。私が骨を埋めるべき場所は、ここしかないんだ」
「マスター一人いたところで……」
「私は、"病毒の王"。私がいるといないとでは、士気に違いが出るでしょ?」
「それは、そうですが……私、暗殺班を率いて、敵の指揮官達を狙いに行きます。マスターの護衛、出来ません」
「頼りにしてるよ」
お飾りだって構いやしない。
辛い時にかけられた優しい言葉が、苦しい時に貰った応援が、心を奮い立たせる事がある。
そのための名前と、立場だ。
「合流しよう」
「…………」
「リズ?」
リズが、付いてこない。
彼女の方を、振り返った。
「……マスター、今からでもあなた一人で逃げて下さいって言ったら、逃げてくれますか」
それがどういう意図で発せられたのか、一瞬分からないほどに、感情の排された声だった。
「……リズ?」
彼女はただ淡々と告げた。
「――私はあなたを死なせたくないと言ったら、どうしますか」
「……リズ」
それは、魅力的なお誘いだった。
勝てば、"病毒の王"は戦争の英雄だ。元々黒幕的な活躍がメインで、今回もそう戦力としては期待されていない。
負けても……私は種族的には人間だ。頑張れば、人間側に溶け込めるだろう。
少なくとも、命は、助かる。
命だけは。
「ごめんね、リズ。できないよ」
彼女の方を向くのをやめた。
戦場へ歩き出す。
「私は……命より大切なものを、見つけたから」
戦争が、なくならないわけだ。
私達は――人間も、ダークエルフも、獣人も、不死生物も、悪魔も、竜も、そんな風にして、大切な物を胸の内に持ってしまう。
人を殺してでも、守りたい物を。
お互いの大切な物を壊し合ってでも、叶えたい夢を。
でも、この人達が生きていけない世界なんて、間違ってる。
この人達が生きていてはいけない世界なんて、許せない。
ひとは死ぬ。
戦っても、戦わなくても。
なら、せめて戦おう。
「行くよ、リズ」
「ええ、マスター」
斜め後ろにぴったりと付き従うリズからの返事。
この副官さんは、私がなんと言うかなんて、分かっていたのだろう。
そこでふと思いついて、私はリズを見て、笑いかけた。
「ねえ、リズ。私が一緒に逃げてって言ったら、逃げてくれた?」
「当たり前じゃないですか」
即答するリズ。
……さすがにノータイムとは、思わなかった。
「……ごめんね」
「いいえ。後悔は、すると思いますから」
どちらからともなく、手を繋いで、指を絡める。
「行こう、リズ」
「ええ、マスター」
心は、落ち着いていた。
怖いし……実は少し、逃げたいけど。
私は、"病毒の王"。
この名前を信じるひと達がいる。
どうせ死ぬなら、私を信じた馬鹿野郎達と、同じ日がいい。
種族、人間。
私は自分と同じ種族を、敵と定めた。
自分とは違う種族を――この国のひと達を、好きになったから。
目標、人類絶滅。
何度も、自分の胸に刻み込むように呟いた言葉。
――今日、その目標を達成する。




