最後の命令
私も参加した、簡単な軍議が終わる。
優しいっていうか甘い事に、陛下と魔王軍最高幹部全員が、私に後方へ下がってもよいと仰せになったが、私は元々囮役が仕事だ。
幻影魔法は見破られる可能性があるし、ドッペルゲンガー達に任せるつもりもない。彼女達はもう、十分に働いた。
それに蚊帳の外は、嫌だった。
この場に集ったリストレアの者達を、一人でも多く生き残らせ、連れ帰る。
私は、そのためにいるのだ。
そのために、この名前を、敵軍に憎悪に満ちて呼ばれるようにした。
戦局に関わらず、あらゆる理性的な判断を無視して仕留めたいと思うほどの――実に理想的な囮役。
……"病毒の王"の名が、自軍には信頼を込めて呼ばれるようになったのは、誤算だったが。
元々、嫌われ役が仕事だったというのに。
嬉しい誤算、というやつだろう。
基本的には、正面から迎え撃つだけだ。
絡め手は、ここまでの道中でしてきた。物量の差は未だ絶対的だが、その優位性こそが長距離の行軍には重くのしかかる。
それでも三年前なら、なんとかなっただろう。
ここが、正念場だ。
私達は勝利条件を、この戦いの後、リストレア魔王国が存続する事と規定した。
この場に集った戦士が何人死のうとも。
死んでほしいわけではない。
私は誰一人だって死んでほしくないのだ。
ただ、私は、魔王軍最高幹部で。
責任が、ある。
「……さて、こうして戦闘前に話すのが、最後である事を祈っている。こんな一大決戦の後に、まだ戦争があったのでは、たまったものではないからな」
私は、ハーケンを含む、四百十二人の騎士の前に立っていた。
"病毒の騎士団"。そんな名前で呼ばれるようになった、規格外の不死生物達だ。
私が乗っているのはただの木箱で……今の私には、実にお似合いの演台だった。
「――そうだな。現実的な話からしよう」
全員が黙って聞いている。
「この度の戦いは、お互いのほぼ全ての戦力をぶつけ合って勝敗を決する、文字通りの決戦となる」
今までの全てが、この戦いのためにある。
「何人死ぬか、分からん。だが、最悪でも相討ちに持ち込まねばならない」
敵戦力を削り、引きずり回し、こちらも相応の犠牲を払って整えた舞台だ。
それでもまだ、未来は分からない。
「こちらも、多くが死ぬだろう。そういう戦いだ」
私は、誰一人だって死んでほしくない。
けれど、もうそれは望めない。
私はこいつらを、『強くしすぎた』。
「お前達は、確実に死んでもらうために、最前線を命じられる」
「ま、マスター!?」
背後で呼びかけるリズを手で制した。
「お前達は……強くなりすぎた。お前達は、生者からの魔力供給が必要な、不死生物だ。……この国は、お前達のような大食らいを、とても養えない」
胸を貫く痛みで止まりそうな口を、動かし続けた。
「だから死ね」
ぽたり、と涙が落ちた。
「"病毒の王"の名において命じる。最前線を切り開き、英雄的に死ね」
泣いても何にもならないのに、歯を食い縛っても涙は止められなかった。
ぼたぼたと、涙が後から後から、頬を伝って、足下の木箱を濡らしていく。
一瞬左手の仮面を見てしまった。
これを着ければ、私は"病毒の王"になれる。
公式には未だ種族不詳の、非道の悪鬼に。
仮面を、足下に落とした。
これは、ただの自己満足。
大切な物が失われるなら、せめて自分の手で壊したいというだけの事。
こいつらに、嘘だけはつきたくなかった。
……私は、信じているのだ。
こんなクソみたいな命令だって、こいつらは従う。
軍人だから。序列があるから。――騎士だから。
私を主と、定めたから。
私が、この世界で手に入れた物。
私を主と慕う、私の騎士団。
心地よい、居場所。
それが失われるのは、いつかではなく、今この瞬間だ。
私は、自分を信じる、自分を慕う相手へ、こんな非道な命令を下さなければならないような馬鹿なのだから。
「気休めにしかならないだろうが、私もまた、囮として最前線へ配置される。……お前達の、奮戦を期待する。お前達はリストレアの騎士だ。……責務を果たせ」
私が、本当に、世間が噂するような"病毒の王"なら良かった。
私の心が、非道の悪鬼なら、よかった。
涙が、流れて。
風が、冷たくて。
冷えた涙で、凍えそうで。
私は、ローブの袖に涙を染みこませながら顔を隠し、うつむいた。
冷たい闇の中で、からから、という音が聞こえた。
からから。からから。からから。からからからから……からからからからから。
聞き慣れた音。
四百十二人分の、顎の骨が、歯が、打ち合わされる音。
聞き慣れた声。
……笑い、声?
半ば呆然としながら顔を上げると、目が合った。
「我らが主は、当然の事を言葉になさるなあ」
「全く、そんなくだらぬ事を気に病んでおられたのか?」
「ははは。主殿の涙を見るのは初めてだ」
「なんなら、命じられなければ志願するつもりであったというのに」
「本当になあ。我らは"第六軍"の……"病毒の王"様直属の騎士であるぞ?」
「最前線を切り開くなど、誉れではないか」
「あ、え……お前、達?」
部下が何を言っているのか分からない。
「……ハーケン。通訳しろ」
「必要なかろう?」
にやにやと笑っている。――絶対に。
不死生物の、特にスケルトンの表情は分かりにくい。
けれど、揺らぐ瞳の鬼火が。
薄く開かれた歯が。
積み重ねた時間が、無表情な骸骨の感情を、はっきりと伝えてくる。
「――私は、お前達に死ねと言ったんだぞ!?」
激情のままに叫んだ。
しかし皆は、それを一笑に付す。
「光栄の極み」
「それはもう、上官は部下に死ねと言うのが仕事であるから」
「一度死んだ身で何を恐れよというのか」
「ああ、怖いのは主の期待に応えられぬ事であるなあ」
「おう、それは怖い」
「一体どのような罰を受けるか、想像しただけで全身の血が凍るというものだ」
「いや、お前ら血ないだろ」
思わず突っ込んでいた。
また、からからと笑い声が聞こえる。
いつの間にか、涙は止まっていた。
「……ああ、この馬鹿野郎共め。耳がないからな。脳もないからな」
歯を剥き出しにして、笑う。
「だから、間違えようのない正確さで、もう一度命令をはっきり伝えてやる」
一度、息を大きく吸い込んで。
喉も裂けよとばかりに、叫んだ。
「生き残れ! 一人でも多くだ!!」
「おや? 我らが生き残っては、面倒な事になるはずであるが?」
「ふむ。これは聞いてよい命令なのか」
「なんというか、予算という物を考えておられない」
「キャパシティという言葉はどうやら"病毒の王"の辞書にないようであるな」
「どうも、面倒事が好きなのではないか」
「全く我らが主は、脳があるくせに中身がお花畑のようである」
「好き勝手言いやがって」
またからからと笑い声が応える。
「もう好きにしろ! 死ぬ気で戦えとか、やっぱ趣味じゃない。最前線は変わらないが、精々生き残れ! 生き残ったら、全部私がなんとかしてやる。ドラゴンナイトみたく牧場でもなんでもやって維持してやるから!!」
宣言した。
もし、この軍団が生き残ってしまったら、面倒な事になるだろう。
……ああ、でも。
こいつらがいなくて面倒事のない世界より、こいつらと面倒事がある世界の方が、何百倍もいい。
こいつらを使い潰してさえ、勝敗は分からない。
勝ち負けさえ、決まっていなくて。
その中で、最前線を戦うこいつらが、一人でも生き残る確率など、おそらく市販の電卓ではコンマ以下が足りない。
けれどこの世界では、電卓など存在さえしていないのだ。
賢く、悟ったような事を言うために、今日まで生きてきたわけじゃない。
"病毒の王"なんて馬鹿な名前を、名乗ったわけじゃない。
「繰り返す。生き残れ。これは命令である。守れなかった奴は、罰として、一足先に地獄で陣地構築でもしていろ!」
「「「「「はっ!」」」」」
踵が打ち合わされ、一糸乱れぬ隊列を組み、唱和した声が、私の胸に響く。
微笑んだ。
「私も行く。すぐに行くか遅くなるかは分からんが――な」
地獄さえ、怖くない。
こいつらが、いるなら。
私の騎士団が。
"病毒の騎士団"が、この手にあるなら。
「以後、レベッカ・スタグネットに指揮権を委譲する。現場では可能な限りハーケンの指示に従え。いいな、レベッカ、ハーケン」
「ああ、マスター」
「うむ。ご命令通り、一人でも多く連れ帰ろうではないか」
「では――解散!」
杖の石突きを、足下の木箱に強く打ち付けた。
「生きていても、死んでいても、また会おう」
木箱を下りると、くるりと踵を返した。
また、涙が流れそうだったから。
振り向いた途端、涙が溢れ出した。
この顔は――さっきの顔より、部下には見せたくない。
この寒さの中、火傷しそうな熱い涙で、くしゃくしゃにした顔なんて。




