乾いた靴下のない戦場
霧のような雨が、私のフード付きローブを静かに濡らしていく。
細かな水滴が集まって細い流れになって、全身を静かに水浸しにしていく。
手袋や靴下にも水が染みこんで、じゅくじゅくに濡れている。
手足の先が冷え、ふやけ、なのに体は熱っぽい。
もう三日以上、敵の姿を見ていない。
足下は泥でぐちゃぐちゃ。
攻撃魔法で一網打尽になる事を警戒して、間隔を大きく取り、長い列を作って歩いている。
私は先頭ではなく、中間だ。周りにはバーゲスト達も周辺を警戒しつつ進んでいるが、ここは人はおろか、生き物の気配があまりない。
足取りがとぼとぼと見えるのは、間隔がまちまちだからだろうか。
今やっているのが、戦争だからだろうか。
けれど、華々しい戦闘はない。
従って、戦果もない。
食料は乏しく、補給はない。
人が人であるためには、本当に多くの物が必要なのだと分からされる泥濘の中。
人が兵士であるためには、本当に少しの物で足りるのだと理解した。
――まあ、私の率いる"第六軍"には、あんまり関係ない話だけど?
「あー疲れた!」
張られた大型の天幕に入ると、中央の土間部分に火が焚かれていた。
他もサマルカンドによって整えられ、乾いた居心地のいい空間になっている。
たき火のそばに置かれた木箱に腰掛けると、手袋を取り、ブーツを脱いで、靴下も脱いだ。
「マスター、外から帰ったら」
現代日本なら、うがい手洗い、だ。
しかし、ここでは違う。
「ん。"浄化"。"保護"」
脱いだ服、着ている服の細かな汚れが分解され、そして保護状態に入る。
そしてサマルカンドに教えてもらった、名前さえない魔法を使う。
……魔力をなんとなくいい感じに制御して、じんわりと熱を発するだけの魔法で……個人の感覚に由来する部分が強すぎて、魔法名が与えられなかったのだ。
『魔力制御による発熱』なんて無味乾燥な名前も味気なく、私は心の中で"乾燥"と呼んでいる。
ルビを振るなら『ドライヤー』。
すっと背後に控えたサマルカンドが、私の髪を整えながら、"乾燥"させていく。
彼の教えの甲斐あって、そろそろ自分でも出来るぐらいには上達しているが、私の事を全力で甘やかしたがるので、こういった時は素直に甘える事にしている。
魔族は、ほぼ全員これらの『日常生活用魔法』を使える。
魔族にとってこういう魔法は、現代日本でいうと『ガスの火で目玉焼きを焼く』ぐらいの難易度だからだ。
もちろん上手い下手はある。しかしそれは、目玉焼きを半熟にしたいのに固くしてしまうとか、焦がしてしまうとか、その程度の話だ。
"保護"を使うのは、服や毛布が無用に傷まないようにとの配慮で、目玉焼きでいうなら焦げ防止に油を引くのに似ている。
綺麗になって乾いた靴下を、同じく綺麗になって乾いた靴に軽く引っかけて、やっぱり綺麗になって乾いた服で、清潔で乾いた毛布の上に、バーゲストを枕に寝転がった。
久しぶりにがっつりした雨に降られて気だるくなった身体の疲れが、火に温められた天幕の下でくつろいでいると、ゆっくりと溶けていくように思える。
『日常生活用魔法』は初歩的な魔法だ。
人間側もそれなりに使えるが、今では使用者は二割以下。
二割しか、戦場で清潔を保てない。
言い換えれば、八割が、自分の靴下を即座に乾かせない。
これもまた、"病毒の王"の戦果だ。
人間は攻撃魔法と防御魔法の使い手は優遇した。――けれど、ちょっぴり魔法の素養がある程度では、護衛対象にしなかった。
回復魔法持ちは最優先で狙ったし、向こうも守った。
けれど私は、同時に日常生活用魔法持ちも、攻撃対象に含めたのだ。
いずれ大規模な徴兵が行われる事は、間違いなかったから。
その時に、人間が、戦場という過酷な環境で衛生を保てないように。
もちろん、二割が使えるなら、残りの人間の衛生を保とうと思えば保てる。
――本当に?
疲れ果てて、自分の衣服を乾かし……まだ、後四人分の衣服を乾かそうと、思えるだろうか?
魔力とは、体力だ。
魔法を使う事は、疲れる事だ。
日常生活用魔法持ちのほとんどは、攻撃魔法か防御魔法の使い手だ。
エリートとして優遇されてもいる。
……本当に?
本当に、自分の後に四人分の衣服を乾かそうと、思えるだろうか?
うん、無理!
日常生活用魔法に分類される魔法は、魔力消費は軽めだ。だが、他人の分までやっていくとその消費は馬鹿にならない。
さらに最精鋭の魔法使いともなれば、魔力残量が火力と防御力に直結する。
その辺の会議にも擬態扇動班をさりげなく介入させ、『魔法使いは魔力の温存に専念させる』というのを基本方針にしたり、実は結構地味なお仕事もこなしているのだ。
――報告にあった、ある高官の言葉が、忘れられない。
「所詮靴下を乾かすだけの魔法ではないか」
濡れた靴下で戦争をやらなくていい立場の傲慢な言葉。
延々泥道を歩いて来て、濡れた靴下をまた履くとか、会議場では見過ごされがちだが、戦場では確実にパフォーマンスを低下させるストレスだという事を分かっていらっしゃらない。
ついでに言うと、"第六軍"は不死生物がメインで、敵地での略奪という名の現地調達で補給はまかなっている。
戦闘がないのは、私達の場合、行きに敵戦力を壊滅させた帰り道だから。
さらに言うと、死霊騎士達がメインなので、この泥道はそれほど障害ではなかったりする。
一番ひ弱な人間である私に合わせてもらっているので、全体の進行ペースも適度なはず。
と言っても、かなり強行軍だが。
「リタルサイドまで……後どれぐらい?」
「このペースだと、二日ぐらいでしょうか」
神聖王国を抜け、再びランク王国に入り――リストレア魔王国の中でも、王都に次ぐ、あるいは王都をも上回る重要拠点、リタルサイド城塞も近付いてきた。
「明日は晴れると思うぜ。私達はともかく、こいつにはきついだろ。リーフに乗って飛んだ方がいい」
私と同じく、バーゲストをモフりながらくつろいでいたアイティースが言う。
「ここ三日、雨続きだったからねえ……アイティースは大丈夫?」
「お前とは鍛え方が違うから」
即答するアイティース。
「リタルサイドは……どうなったでしょうね」
リズが、北の方を見る。
天幕のせいで景色が見えるはずがないのだが。
「……無事とは、思えないな」
レベッカが、呟くように答えた。
ここに来るまでに、戦闘の跡がいくつかあった。
何もかも一緒くたに蹂躙したせいで断言出来ないが、どうもここいらから難民が流れてきてもいたようだ。
ここら一帯はガナルカンという名前で呼ばれる……リストレア魔王国が最後に失った地域だ。
私の『初陣』の場となったガナルカン砦もまた、その名前を与えられていた。
「懐かしき景色よ。リタル山脈の位置からして、おそらくはこの周辺のいずれかが、我が生前の故郷であったのだろうな」
「ハーケンの? ……そっか。故郷を失ったって……言ってたね」
リタルサイドに壁を築く事は、ここを放棄する事と同義だった。
ここに住む人達に、生活の場を捨てろという事と、同義。
私はそうまでして築かれた城塞を、捨てろと言った。
「なに、過ぎた事よ。……我らだけでもない。多くの者が故郷を失い……新たな土地を故郷と定めた。リストレアという、な」
レベッカも、ハーケンも、私も、故郷がそのままの形で残っていない。
いや、私の場合は残ってはいるはずだが、世界から違う。
ただ、私が帰るべき場所は――生まれ故郷では、ない。
リズがスープの入ったカップを差し出して、私の隣に座る。
私は肩を寄せた。
「なんです?」
「リズ成分を補給中」
ここが、私の帰るべき場所。
そして、同じような帰る場所を、リストレアという国に属する皆に残す。
それが、魔王軍最高幹部の仕事だ。
そして、同じような帰る場所を、人類の全てから奪う。
それが、"病毒の王"の仕事だ。




