亡霊の寄る辺
「……行こう」
レベッカが、ふっと手から力を抜き、そっと私から身を離した。
「……もう、いいの?」
「ああ。見たかっただけだ。――確かめたかっただけだ」
レベッカが深紅の瞳で、塚を睨み付けた。
「オルドレガリアはもうない。『私』はここで生まれた。――『レベッカ・スタグネット』は、ここで死んだ。父上も、姉上様達も、デイジーも……」
「……『デイジー』?」
それは私が、ウェスフィアに潜入する際に、メイドとして名乗った偽名だ。
「私付きの……メイドだった」
「そっか……なんか、ごめんね」
不思議な符合。
レベッカがその名前を聞いた時、少し驚いた事に合点が行く。
「いいんだ。全部、四百年も前の事だ。全部、終わった事だ。もう、ここには何もない」
「あるよ。どんなに変わっても、レベッカの故郷はここ。もう戻る事はなくても……それだけは、変わらない、から」
「そうか。……そうだな。ここにはエルフがいた。オルドレガリアが……あった」
過去形で語られるのは、遠い昔に、人間には隣人がいた事。
この世界に、人間とエルフを分ける一本の線が引かれた事。
線を引く必要があったのかは、分からない。
線の向こう側には、もう何もない。
「リストレアに同じ事だけは……させるものか」
私も、リズも、サマルカンドも、ハーケンも、全員がそれぞれの想いを込めて、レベッカの言葉に頷いた。
私達は全員種族が違う。
けれど、同じ国に属し、線のこちら側に属している。
共に同じ、リストレアの守り手だ。
帰り道、私と手を繋いだレベッカは、一言も喋らなかった。
思う所があるのだろう。今日の夕食は要らないと言う彼女に、代わりに魔力供給はすると宣言し、彼女はそれを受け入れた。
砦内はあまり広くなく、二段ベッドの二人部屋が基本だった。
私を含む上級士官用に割り当てられた砦の指揮官部屋も、ベッドが少し大きめの一人用である以外は特に変わらない。
二段ベッドをもう一つ持ち込み、女性陣四名が寝られるようにはしてある。
サマルカンドが嫌な顔一つせず軽々と担いで運んでくれたが、私だと全力で少し動かせるだけなのは何故だ。
ノックの音が聞こえた。
「マスター。いいか」
「いいよ、入って」
扉の外から声をかけたレベッカに許可を出す。
彼女は律儀だ。
リズもアイティースも今はいない。気を遣ってくれたのもあるだろうが、やる事はいくらでもある。
「……で、我らがマスターは何をやってらっしゃるので?」
「一人が寂しかったので」
私はベッドに寝転んで、バーゲストを毛布代わりに埋もれていた。
靴は履いたままで、ベッドを汚さないように足だけ出していて、上半身はバーゲストにたかられている。
事情を知らない人間が見れば、黒妖犬に身体の柔らかい部分を貪り喰われていると誤解するかもしれない。
「お前達、ありがとね。レベッカ来たから」
バーゲスト達がするりと飛び降り、部屋の隅やベッドの下に控える。
身体を起こすと、ベッドに腰掛けた。
「さ、膝の上に」
「なんで場所指定」
そう言いながらも素直に膝の上に座るレベッカと手を繋ぎ、寄り添う。
魔力を持って行かれる感覚。バーゲスト達とも一応ただ遊んでいたのではなく、魔力供給をしていたのだが、連続だとさすがに疲れる。
「……大丈夫か?」
「後、寝るだけだから」
「そうか」
しばらくそうしていたが、レベッカが口を開き、話を切り出す。
「……私が、物質幽霊だというのは知っているな」
「うん。物質幽霊がどんなものかは、よく知らないけど」
聞いた事はあるが、よく分からなかった。
……多分、彼女は、よく分からないように喋った。
喋った内容を私が理解出来なかったせいも大きいと思うが。
それでも彼女が必要と思えば、丁寧に分かりやすく、分かるまで説明してくれただろう。
「聞いて、くれるか」
「私でいいの?」
レベッカが身をよじって振り返り、私を見る。
「お前が、いいんだ」
そしてふい、と目をそらし、視線を戻すと、話し始めた。
「『レベッカ・スタグネット』は、エルフの小国家オルドレガリアの第三皇女として生まれた」
「軽く聞いてはいたけど、王族だったんだよね」
「ああ。『彼女』はな」
自分と切り離して語るその語り口に、ふっと不安を覚える。
「……『レベッカ』だよね?」
「……それを、話す。聞いてくれ」
「うん、分かった」
「オルドレガリアには、六つになった子供に装身具を贈る習慣があった。どんな物でもいいが、髪飾りとか、首飾りが一般的だ。皇族は、冠を贈られるのがしきたりだった。女性だと、今私が着けているような小冠だな」
そっと、今も着けているティアラに触れた。
絡み合う蔦と葉の精緻な銀細工に、涙のような小さな青い宝石。
「贈られるのが六つの歳というのは、その年齢までの子供は、どうしても死亡率が高くて……それを祝うためと、そこまで育ってくれた子供の良き未来を願って、という風な意味合いがあったようだな」
「私の国にもあったよ、そういうの。子供の魂は、七つまでは、神様のものだって」
七つまでは神の内。
七歳までは、人間ですらない。いつ死んでしまうかも、分からない。
そんな世界が、確かにある。
「……そんな所は、どこも似ているのだな」
どんな世界でも、きっとそういう道を辿る。
幼い子供は簡単に死んで、でも、子供に死んでほしくない。そんな風に願う人達がいる。
「――それで。『私』の、記憶、は」
レベッカが一瞬言葉を切って、息を吸い込むのが分かった。
「六歳の頃からしか……ない」
「…………」
「皇族が十歳になった時に、『戴冠の儀』が行われる。その時から、贈られた冠の、公的行事における着用が認められる」
彼女がふっと笑うのが分かった。
「私、な? ……十歳までの、公的行事の記憶……ないんだ」
「レベッカ……」
「戴冠の儀で、『レベッカ・スタグネット』は誓った。自らが、オルドレガリアの守護者の一人であると」
ダークエルフは、十代の半ばまでは人間と変わらないペースで成長する。
長く生きられる生き物も、幼い頃は弱くて、その期間をなるべく早く終えようとするのは、当然だ。
エルフとダークエルフに、大きな違いはない……はず。
ならば、十代前半に見える彼女が死んだのは――
「彼女が死んだのは……その三年後の事だ」
「……他人事みたいに、話すんだね」
「だって『彼女』は死んだのだから。エルフは絶滅した。オルドレガリアは滅んだ。彼女は何も守れなかった。父も、姉も、メイドも、民も……自分の命さえ」
それは遠い歴史。
けれど今と地続きの、彼女にとっては遙か昔の過ぎ去った歴史ではなく、自分が体験した過去だ。
レベッカが、私の手をぎゅっと握り、そして離した。
「――私は、オルドレガリアの……彼女の、残骸だ」
レベッカが、立ち上がってティアラを外した。
振り返り、それを私の手の上に置く。
「これが――『私』だ」
彼女は、物質幽霊だという。
物質を媒介として現世に存在する死霊の一種で……このティアラが、自分自身だと、そう言っていた。
「私はこのティアラに宿った、ただの亡霊だ……」
その言葉の意味を、今本当に理解する。
エルフはもう滅びた。
オルドレガリアはもうない。
だからここにいるのは、エルフの国のお姫様ではないのだ。
「私には、『レベッカ』の記憶がある。エルフの国、オルドレガリアの第三皇女、レベッカ・スタグネットの記憶が。……だが、その記憶は、このティアラを授かった、六歳の時からだ」
個人の定義とは、なんだろう。
同じ、名前なら。
同じ、容姿なら。
同じ、記憶があれば。
それは、同じ人間だろうか?
「『彼女』は、優しかった。死に際にも、民の事を、エルフの未来を思っていた。……許せなかった。何一つ。優しいあの子が死んだ事も、その子をあそこまで追い詰めた人間達の仕打ちも、何一つ、『私』には、許せなかった……!」
彼女は苦々しく叫び、目をそらした。
「この喪章に誓って……私はただの復讐者だ。あの子は死に際にさえ、復讐なんて考えなかったのに。でも、あの子にとっても、私にとっても大切だった、家族も、民も、その人達が住む王国も、何もかもなくなったから……」
レベッカが、ティアラに固く結ばれた、古びて色褪せた黒いリボンに、そっと触れる。
多分そんな所だろうとは思っていたけれど、やはり喪章だったらしい。
彼女の喪は、四百年以上経っても、終わっていないのだ。
「だから私は、きっとただの『物』だ。一番近くで『レベッカ』を見てきただけの……同じ時間を過ごしただけの、自分の物なんて何一つ持っていない、寄る辺なき亡霊だ」
「レベッカ」
彼女は、『レベッカ・スタグネット』。
「私が、いるよ」
「お前が、私のなんだと? お前は『レベッカ』を知らないだろう」
「知ってるよ。私は、『レベッカ・スタグネット』を知ってる。"蘇りし皇女"。"歩く軍隊"。"戦場の鬼火"。元"第四軍"序列第七位の死霊術師。今は"第六軍"序列第三位で、黒いフリフリの服が似合う、ジト目で毒舌の女の子だよ」
レベッカが、泣きそうな顔になる。
「……それは、誰だ?」
「『レベッカ』だよ。私にとっては、私が会ってからの『レベッカ』しかいない。それに、レベッカがレベッカじゃないなら……私は、なに?」
私は、自分の名前すら覚えていないのだ。
記憶は、人の名前を中心にボロボロに抜け落ちていて。
どんな名前を仮に付けられても、どうしてもしっくり来なくて。
「私は、"病毒の王"。……過去なんて、あってないようなもの」
だから私は、『"病毒の王"』を名乗り続けている。
与えられた称号。
与えられた役割。
私が――勝ち取った全て。
覚えている事のほとんどが、この異世界では役に立たなくて。
人間と魔族が、絶滅戦争をしている世界で、平和な世界での生き方なんて、使えなくて。
それでも、私には許せない事があって。
それでも、私には守りたい物ができて。
だから今は、"病毒の王"の名前が、私自身なのだ。
「『レベッカ』の種族が何かとかは……どうでもいい。悪いけど」
そっと歩み寄って、彼女の艶やかな銀髪にティアラを差し込んだ。
そして両手を広げる。
「私は、"病毒の王"。レベッカは、私の部下。――そして、友人。私にとっては、それだけでいい」
おずおずと寄ってきたレベッカを、強く抱きしめた。
「……大切なものなんて、本当に少ないんだから」
私は、自分が自分であるために必要だと思っていた、ほとんど全てを失った。
名前。家族。友人。立場。財産。……思い出。
それでも、私には、今こうして抱きしめたいと思えるような人がいる。
新しい思い出が、ある。
「……私は、卑怯だな」
レベッカが、自嘲するように笑うのが分かった。
「『マスター』なら、そんな風に言ってくれると……思ってた」
そして、抱きしめ返してきた。
彼女と、本当の意味で友人になれた気がした。
そう思ったのはきっと、今まで彼女に伝えてきた気持ちが、ようやく意味のある物になった気がしたから。
初めて彼女のために、何か出来た気がしたから。
しばらくして彼女は身体を離すと、私の目を見て微笑んだ。
目の端に、涙が浮いている。
それでもレベッカは笑ってくれた。
「……ありがと、お姉ちゃん」
いつものように、少し喉の使い方を工夫して、大人っぽく聞こえるようにした声で、彼女はそう言った。
いつものようにふざけて、たわむれたい衝動をぐっと抑えて、私は自分より年上の、『可愛い妹』の頭を、そっと撫でた。




