恐怖による死
神聖騎士達が、帰ってこなかった。
砦の方に泊まっているのかもしれないが、討伐して戻る事を前提にした程度の物資しか持っていない。補給の荷車がついてはいるが、それも砦の備蓄も最低限だ。
それはもちろん、一晩ぐらいはどうとでもなるだろうが……それにしても、砦から鳩で連絡の一つもあって良さそうなものを。
まさか、いくら老いたとはいえ二百人の神聖騎士が、三百程度の不死生物に遅れを取ったとも思えない。
不安に包まれつつも、手を組んで祈りを捧げ、心の安定を図る。
翌日の夕刻に黒い影が現れた時、それは神聖騎士達だと誰もが思った。
しかし……神聖騎士ならば磨き抜かれた白銀の鎧が夕日の照り返しを受けるはずが、その光がない。
それどころか太陽が沈みゆく薄闇の中、それらがまとうのは――青緑のオーラ。
不死生物特有の、不浄なるオーラだ。
「まさか……神聖騎士団がやられた……のか?」
「いや……入れ違いになったのかも……」
一本の旗が掲げられた。
白地に青で、翼の生えた十字。――神聖王国の紋章が縫い込まれた旗。
先に派遣された神聖騎士団も同じ旗を携えていたはずだった。
それをアンデッドの集団が掲げるとは、冗談が利きすぎている。
その旗に、火がつけられた。
青緑の鬼火が食らい付き、信仰の御旗はひどくゆっくりと端から舐められて燃え落ちていく。
息を呑み、ざわつく城壁の上に小さな混乱が起きた。
「――っ……ああっ!? あ……あ……あああ……」
呻くような声に、唐突に雪山にでも放り込まれたかのような歯がガチガチと鳴る雑音が混じる。
「おい、どうした!?」
「落ち着け!」
城壁の胸壁に取り付き、今にも飛び降りそうな様子の兵士に、周りの兵士達が肩を押さえつけ、必死に押しとどめる。
残されたのは主に、老兵と、傷病兵。
その中には、心を病んだ者も含まれていた。
まだ若いのに、金髪のほとんどが白髪になっている。
「あいつだ! あいつが! あいつが……!!」
肩を押さえられながらも、それを振りほどいて、まっすぐに指さす。
一本の旗が掲げられた。
黒地に銀で短剣をくわえた蛇が縫い込まれた、蛇の舌のような二又の旗。
"病毒旗"の異名を取る、大陸の中で最もおぞましき旗。
それが指し示すものは、ただ一つ。
彼は、飛び降りようとしていたのではなかった。
ただ、心を病んでなお、神聖王国の兵士としての使命感に駆られ、脅威を指し示し、その名を呼ぼうとしていた。
「"病毒の王"……!」
しん……と静まり返った。
誰も姿を知らない。
ただ一人の正規兵の生き残りが伝えた外見は、一部の神聖騎士達に伝えられるに留まっていた。
それが姿を見せる事など、有り得ないと思われていたから。
おぞましい姿を伝える事での戦意高揚と、戦意喪失の可能性。その両者を天秤に掛けて、各国上層部が合意した、"病毒の王"の外見情報の秘匿。
しかし、神を冒涜するような旗と共に目の当たりにしてなお、それが分からない者がいるだろうか。
両隣を歩む、黒山羊の姿をした悪魔も、古戦場から立ち上がったようにボロボロの鎖鎧とサーコートをまとった骸骨も、それに比べれば愛らしくさえ見えた。
風にはためく、毒沼に浸したような深緑のローブ。
ゆっくりとした一歩ごとに、足下の大地が腐り、汚染されていくような錯覚さえ覚える。
ねじくれた杖に、美しい青の宝石が、その美しさを冒涜するかのように多数の鎖で繋ぎ止められている。
そしてフードの陰の顔は、闇の中に鮮やかな橙色で紋様が光り、眼に相当するだろう物はたった一つしかない。
不死生物の先頭を歩む、最もおぞましき者が、『それ』だった。
こちらの弓と攻撃魔法の射程距離を把握しているかのように、それ以上近付いてこないが、砦からの援軍要請の通り、三百近い不死生物を――完全武装の死霊騎士を引き連れている。
整然と並び、ひどくゆっくりと長方形の陣を敷くそれは、獲物を前に舌なめずりをしているようだった。
「……呆けるな!」
老騎士より留守を預かった壮年の指揮官が叱咤して、空気が変わった。
「攻撃魔法を使える者をかき集めろ! 投げ落とせる物……なんでもいい、固くて重そうな物をかき集めろ! 城門が破られる前に数を減らし、入ってきたところで食い止める。敵は、三百に満たないぞ!」
正確な数は分からないが、とりあえず少なく見積もった。多く言えば、士気が下がるだけだ。
明確な指示に、やる事が出来た者達が急いで命令を果たすべく走る。
時が凍り付いたような瞬間から一転、皆が、慌ただしく動き始めた。
その中で対照的に、時が凍り付いた者がいた。
「はっ……ふぅ……ぐ……」
"病毒の王"の名前を叫んだ、門番を務めていた兵士が、苦しそうに胸を掻きむしると、膝を折って、そのままどうと倒れ伏す。
「どうした!?」
「……ダメです。死んでる……」
恐怖に歪み、胸を――心臓を押さえて……。
周りの者達の心に、正解だと思われる答えが去来する。
神聖王国の者ならば、闇の魔法も知識だけは知っている。
その中の一つ。
"死の言葉"に代表される即死魔法。
この魔法を受けて抵抗出来なかった者は即死魔法の俗称通り、死ぬ。恐怖と苦悶の表情で息絶え、例外なく心臓が潰れているという。――まるで、見えない魔手に握り潰されたかのように。
何分にも、神聖王国では使い手がいない魔法ゆえに詳細は分からないが――
射程距離は、伝えられていない。
「……打って出るぞ」
「え、ええ!?」
「城壁を捨てると?」
「この距離で殺せる魔法を敵は持っていて、こちらにはない! 伏せろ、伏せるんだ! 視界に収められたら、殺されるぞ……!!」
城壁の上の者達はごくり、と唾を飲み、顔を見合わせて、それから慌てて一斉に伏せた。
「そのまま城壁から下りろ。一度に一人しか殺せないらしい。……ここであの、この世で最もおぞましき者を討ち果たす!」
そして中腰になって城壁から下りていく。
「火布槍に火を灯せ! 伊達に不死生物と数百年に渡って戦い続けてきたわけではない。神聖王国の意地を見せる時だ!」
「しかし隊長……視界に収められたら死ぬなら……」
「さっきは一人しかやられなかった。数で押す!」
「だ、誰かが死ぬって事ですか?」
「ああ。……先頭はもらうぞ」
居合わせた者が一斉に、はっと息を呑む。
「死んでも、神の御許に一足先に行くだけだ。ただ、闇に怯え、神の敵から逃げる事だけは……心が許さん」
不敵に笑う留守を預かった――いや、聖都を任された隊長の言葉に、全員が覚悟を決めた。
「城門を開けよ!」
ギギギ……と、巻き上げ式の分厚い板戸が、垂直に引き上げられていく。
「"点火"」
魔法が使える者によって、槍の穂先に巻かれた油を染みこませた布に火が灯され、炎の槍を持った者が、次の槍に穂先を触れさせ、火を灯していく。
人はこうやって、次の時代へと希望を伝えてきた。
未来を持たぬ不死生物や悪魔には、分からぬ事。
「――心に、火を灯せ!」
誰かが叫び、地鳴りのような雄叫びが上がる。
開き切った城門から、武器を持った群衆が雪崩のように打って出た。




