友との別れ
私は、覚悟を決めた。
けれど、家畜小屋で、敷き藁ベッドに腰掛けてぼんやりと木組みの天井を眺めていると、寒々しさに似た無力感が身に染みて仕方ない。
何が出来るというのだろう。
この世界は本当の戦争をしている。
私が一生関わる事はないのだと思っていた、戦争を。
けれど、私はもう当事者だ。
じっと、手を見る。
私はもう、人を殺した。
その時の事を、ありありと思い出せる。
突き飛ばした時、手に残った、軽い衝撃。
聞こえた二人分の断末魔。
口元を歪めるようにして笑った。
――ああ、人間の命とは、なんて軽いのだろう?
ほんの少しの、後味の悪さ。
ほんの少しの、気持ち悪さ。
私にはそれしかなかった。
選択肢は二つしかなかった。
黙って殺されるか。
黙って殺すか。
私は後者を選び、だから今、生きている。
そして……間違った事をしたとも、思っていない。
記憶を探った。
深い海へ潜るように、ゆるゆると記憶をさかのぼっていく。
思い出せる事は多いのに、思い出せない事も多い。
自分が、なんと呼ばれていたのかも。
家族を、なんと呼んでいたのかさえ。
思い出せなかった。
「ブリジット……」
だから私は、名前を呼んだ。
今の私が知っている名前は、たった一つだけ。
こちらに来てから出来た……今の私の、たった一人の友人。
平和な時代に生きている、というのは、平和でない時代を知らないという意味ではない。
本が、教科書が、新聞が、テレビが、教えてくれる。
それは実体験ではないにせよ、伝えようとした意思だ。
平和のために。
平和が尊いと、誰もが教えてくれた。
戦争がどんなに悲惨か、誰もが教えてくれた。
戦争なんてしてはいけないと、誰もが教えてくれた。
それでも人は戦争を繰り返したのだと、教えてくれた。
戦争の悲惨さを知っている。
――どんな風にすれば悲惨な戦争になるのかを、知っている。
私は今でも、戦争なんて関わりたくない。
それでも、他の選択肢はないのだろう。
少なくとも、私が納得出来るような、心から満足出来るような、そんな甘く優しい選択肢は。
ブリジットの優しさに甘え、彼女の庇護下で、彼女が私を見捨てるまで、彼女の友人としてひっそりと生きる事も、出来るかもしれない。
私が望めば、ブリジットはそうしてくれるような気もする。
でも、私は彼女の優しさに甘えるだけでは、いたくないのだ。
それに、私はもちろん、私の世界ですら、もう他人事ではない。
日本にいる家族や友人でさえ、もう安全な所にはいない。
ふっと妹の顔が頭をよぎり――その瞬間、腹の内にぞわりとしたものがこみ上げて、口元を押さえた。
名前すら思い出せなくとも、可愛い妹である事に変わりはない。
あの子が、あの寒空の下で、あの冷たい石の城壁の上で、ただの燃料タンクのように扱われ、用済みになったら『捨てられる』事など、許せるはずもなかった。
……もしかしたら、もう、そうなっているかもしれないのだ。
一応、ブリジットに聞いた。私と同じ人種らしい人間はいたのかと。
答えは、「分かる範囲ではいない」だった。
ほとんどの人間が、攻撃魔法を受けて、顔すら分からない消し炭になった、と。
私も、あの中の一人だった。
ほんの少しの偶然がなければ。
ブリジットがいなければ。
私が生き残った事に、意味があると信じたい。
自分が生き残った事に、自分で意味を見出したい。
ノックの音が聞こえた。
「入るぞ。いいか」
口元から手を離すと、深く息をした。
身の内にうごめく黒い物を、ゆっくりと抑え込んでいく。
「いいよ、ブリジット」
ドアが開き、ブリジットが遠慮がちに顔を覗かせた。
「ようやく少し時間を取れたものでな。様子を見に来た」
「ありがとう。――会いたかった」
彼女の顔を見ると、ほっとした。
頼りない覚悟が揺らぐのではないかと、思っていたから。
「そうか」
ブリジットがはにかんだ。
そこで、ふと何かに気付いたように、真面目な顔になる。
「……いつもと、雰囲気が、違うか?」
「そう? ああ、でも、『お願い』したい事ができたんだ」
私は笑った。
「この国で、一番偉い人に会わせて」
それから、しばらくして。
私はブリジットと、彼女の部屋の暖炉前で向き合っていた。
暖炉脇には薪が積まれ、中にはゆらゆらと火が燃えている。
仮住まいとは言え暗黒騎士団長の部屋なのに、私が最初にいた個室とあまり変わらない。
この砦の偉い人の部屋は、攻略戦の際に全て吹っ飛んだそうだ。
「王城へ着いたら、この手紙を見せろ。中は見るなよ」
「分かってる。他の人への手紙を見ないのはマナーだよ」
「何かあったら、私の名前を出せ。いいな」
「ありがとう」
「……これも、渡しておく」
「何この紙。中見ていいの?」
渡されたのは、三つに畳まれた紙片だ。
「ああ」
許可が出たので広げる。
読み上げた。
「『暗黒騎士団長ブリングジット・フィニスの名において、この人間の安全を保証せよ』……? ダメだよブリジット。こんな危ないもの」
「え」
「万が一、人間側のスパイとかに渡ったらどうするの」
無言で押し黙るブリジット。
彼女がそれを考えなかったはずはない。
が、私の価値を、高く見積もりすぎ……だ。
「処分しといてね。出来れば、今すぐ燃やして」
「分かった……」
ブリジットが、暖炉に紙片を投じる。
彼女の心遣いは、ほんの数秒で炎に舐められて灰になった。
「――だが、何かあったら、私の名前を出せ。『暗黒騎士団長ブリングジット・フィニス』の名前をだ」
「迷惑はかけたくないよ」
「構うな。私は、その……友人を、つまらない事で失いたくない」
微笑んだ。
一歩、距離を詰める。
「ありがとう、ブリジット」
「私こそ」
軽く抱きしめ合う。
「行ってくるよ」
「ああ。体に気をつけろ」
「うん」
ブリジットが扉へ向かい、私も後に続いた。
二人して廊下へ出る。
「……ついて来い」
「分かりました」
この瞬間から、私とブリジットは友人でなくなる。
少なくとも、公的には。
私は『人間の捕虜』の名無し。
彼女は『暗黒騎士団長』のブリングジット・フィニス。
それが、これからの私達だ。
私は、王城へ行く。
「くれぐれも丁重に扱え。捕虜ではあるが、客人とも思え」
「よろしくお願いします」
男性の暗黒騎士に引き渡された。
「ああ。こっちだ。……念のために言っておくが、妙な気は起こすな」
「はい」
最後に、ブリジットへと向き直る。
「この身に余る厚遇を頂きました。団長殿に、改めて感謝を……」
深々と頭を下げた。
「……必要だったからそうしたまでだ」
「ついて来てくれ」
「はい……」
最後に一度振り返り、ひらひらと手を振った。
ブリジットは――『ブリングジット・フィニス』は、表情を崩さなかった。
ただ、ほんの少しだけ、もし誰かが見ていても気付かれない程度に。
彼女は、手を、振ってくれた。