城壁の上の絶望
ランク王国の王都、ミューレイユは、大陸中央……から、ちょっと南にある。
ほぼ大陸中央にあるのは、対魔族同盟の会議場所にも使われている街だ。
名前がちょっと可愛い王都は、この世界の重要都市らしく城壁にぐるりと囲まれた城塞都市となっている。
城壁は、地球では大砲の登場によってどんどん使われなくなっていったが、この世界では現役だ。
最も使用頻度の高い攻撃魔法"火球"に鉄の砲弾ほどの物理攻撃力はなく、その分厚さをもって爆発の衝撃を受け止め、延焼もしない城壁に対して有効打とはなり得ない。
なので、城壁はまだしばらく信頼の置ける防衛設備であり続けるだろう。
ただ、地球でもこちらでも、城壁がその堅牢さを十全に発揮するためには、相応の兵が必要なのだ。
特に身体強化魔法がある以上、ただ高い壁があればいいというものではない。
私は城壁に囲まれた王都を見つめながら、呟いた。
「王都まで、こうもすんなり……やつら、採算度外視で、真面目に戦争をするつもりらしい」
仮面を外して、頭を振った。
遠視能力では、城壁の兵がいかにも少なく見えた。今は『戦時』で、ここは大陸最大の強国の『首都』だというのにだ。
「私達が楽をしてるって事は……本国は、今頃……」
リズが沈痛な面持ちになる。
……そう、敵軍の戦力抽出はかなり徹底的だ。
リタルサイド城塞がどれだけ持ちこたえられるか。
……私達が戻るまで、果たして持ちこたえられるか。
間に合ったとして――私達は勝てるのか。
何もかも、分からない。
「それは、今考えても仕方ない。出来る事を一つずつやる。――手始めに王都だ。リズ、偵察を頼む。問題がなければ、いつも通り夕暮れより攻めるぞ」
この世界でも人間同士の戦争には、ルールがある。
夜戦はタブーとされている。もちろん戦闘が激化して守られなかった事もあるようだが、私達リストレア魔王国が敵として存在している事もあり、基本的には日没を前に兵を引くのが常だった。
両軍のアンデッド化だけは、避けねばならないからだ。
私達にそんなタブーはない。
私達はリストレア魔王国の魔王軍。
不死生物を戦力として有し、人間達のルールの外に置かれているのだから。
――それは、悪夢だった。
王都に残っていたランク王国の騎士・兵士達は、目の前に広がる、現実とは思えない光景に絶望した。
人類の希望を抱いて、邪悪な魔族らをこの地上から消し去るため、ありったけの兵がかき集められた。
そして、今敵国へ向かっている。
向こうは、それを迎え撃つために、戦力を整えているはずだ。
その、はずだったのだ。
なのに、王都たるミューレイユの前に広がる平原には、骸骨を中心にした、おぞましき混成軍が存在していた。
敵軍の先鋒を務めるのは――
「畜生! バーゲストだと!? 畜生……!」
兵士の一人が呻いて、城壁の胸壁にすがりついた。
彼のように呻き声さえ上げられず、ただ呆然と目の前の敵を見ている者達も、心は同じだった。
黒妖犬。
農村では、それこそドラゴンよりも恐れられる黒い魔犬。
一頭ですら、村を一つ傾かせる。
悪魔のように冷酷で、狡猾で、俊敏。
騎士団など相手にしない。他の人間も相手にしない。夜な夜な家畜を喰らっては、適当なところで切り上げて去って行く。
頭のいい連中だ。せめて人死にが出ない事を喜びたいところだが、そうもいかない。それさえもやつらの狡猾さの証明に思えた。
死者も出ていないのだから、と、どこか役人達は軽く見ている風だった。
それでも、知らせる。魔獣が出て、自分達の財産が脅かされているのだから。
騎士や兵士は、来てくれる。
だが、知らせが届き、そこから兵が派遣されるまでの数日で、何頭もの家畜が喰われ、しかもあの犬畜生共は姿を消している。
何度か、村人も農具を手に立ち向かった事がある。
結果は、無残な物だった。
悲鳴だけが村に届き、夜が明ければ、残っているのは、爪痕と噛み傷が刻まれた死体の山だけ。
たった一頭でさえ、脅威。
特にランク王国では、ドラゴンのための牧場を中心に、この黒い犬がかつてない規模で暴れ回り、対応に走った兵達に消えぬ傷跡を残した。
現地の住民と共に多くが噛み殺され、まざまざと魔族の残虐性と、魔獣の凶暴性を見せつけられた事は、記憶に新しい。
「何頭いやがるんだ……」
彼らは、老兵と、傷病兵だった。
動ける程度には、傷が浅く、病が軽い者達。
王城と王都に残して最低限治安を保つのに貢献出来るとは思われていた。
それはそうだ。
それぐらいは出来る。
だが、バーゲストの――どう少なく見積もっても、軽く百を超えるバーゲストの群れに、どう立ち向かえと言うのだ?
傷病兵の多くは、バーゲストの対応に駆り出され……心と身体に一生の傷を負った者達が多かった。
ようやくリストレア魔王国への侵攻が決定し、悪夢が終わると思ったのに、悪夢が向こうからやってきた。
それだけでも、手に余るのに。
それだけでは、なかった。
達人でない彼らにもありありと見て取れる、化け物揃いの死霊騎士達。
直立した黒山羊の姿をした悪魔の姿さえ混じっている。
空を飛ぶ巨大な翼を持つ影は――グリフォンだろうか? 黒妖犬以外の魔獣種さえ、使役しているというのか。
そして彼は、不幸にも見てしまった。
視力がいい事を呪ってしまうほどに、おぞましいものを見てしまった。
あの化け物犬共が、すり寄って、頭を垂れて、撫でられる姿を。
あまつさえ、ただの犬のように尻尾さえも振っている姿を。
そして、何より。
黒い仮面をかぶった、緑色のローブ姿の、邪悪極まる魔法使いを。
見てしまった。
「ああ、神様……!」
手を組んで、天を仰ぐ。
何故か、奇妙な確信があった。
『あれ』が、"病毒の王"だ。
フードの陰で、爛々と輝くオレンジ色の単眼が、目に焼き付いて離れない。
ねじ曲がった杖に鎖で繋ぎ止められた、青い宝石の怪しい輝きも。
きっとあの衣装の下は、見るに耐えないおぞましい姿なのだろう。肌をほんの少しも露出させていなかった。
緑色のローブと、邪悪な文字が描かれた肩布が風にはためく様は、絶望しか感じない。
青緑の鬼火を輝かせた悪鬼の群れを引き連れて歩むそれは、まさしく形を成した悪夢そのものだった。
非道の悪鬼。
人類の怨敵。
『短剣をくわえた蛇』を旗印にした、この地上で最もおぞましいもの。
ここであれを討ち果たせれば、人間は勝てる。
そう思うのに、体が動かない。
動かせるはずもない。
自分達は、バーゲストの一頭にだって敵わないのだ。
どうして、それがただの犬のように甘えるバケモノを倒せるというのだ?
彼は、天を仰いでいた頭を、額を、石床にこすりつける。
組んだ手は崩さないまま、それでも、もう……何を祈ればいいのかが、分からなかった。
何に祈ればいいのかも、もう。
嗚咽が漏れた。
歯を食いしばり、それでも止められぬ涙が石床を濡らし、すすり泣きが城壁の上に染み渡っていく。
――俺達は、何をしたのだ?
どうしてあんなバケモノが、この世界にいるのだ?
どうして人間だけが、こんな目に遭わなければならないのだ?
どうして魔族だけに、あんなバケモノが力を貸すというのだ――?
大気が軋む音と共に仲間の悲鳴が響き、彼は顔を上げた。
城壁の上に"吹雪"の呪文が飛んできていた。
同僚達が、順番に凍えて、動きを止めて、城壁の上に横たわる氷塊になっていくのを、眺めるしか出来なかった。
そして、彼も。
もう、逃げる気も起きなかった。
剣を抜く気も、それで自分の喉を裂く気力すら。
もう、彼には、何もなかったのだ。




