家畜小屋の狂気
「…………」
「どうしたの、ブリジット」
私の怪我自体は、もう治癒魔法で痕もなく治っていた。
その後、体力も回復して体調も良くなってきたのだが、今度は彼女の表情が暗かった。
「……ん、その、な?」
困った顔。
私が自分の名前を『忘れちゃった』と言った際に見た時以来かもしれない。
ややあって、物憂げな表情で話し出した。
「……お前の事を、悪く言う者がいる。ただ、人間であるというだけで、だ」
「そう」
軽く頷いた。
「怒らないのか?」
「……いや。今までが、大切にされてたんだなって、改めて、ね」
そうだ。
私は人間。
ブリジットは魔族でダークエルフ。
つまり、敵同士だ。
私とブリジットが、お互いをそう思っていなくても。
人間というだけで敵と思う者もいるのだろう。
私は好待遇を受けているが、よそから来たヤツが個室を与えられ、騎士団長様が足繁くお見舞いに通っているとなると、これは不満が出ても仕方ない。
うんうんと頷くと、そういう事を彼女に話した。
彼女の機嫌が、目に見えて悪くなる。
「なんだ、それは」
聞き終わった彼女が、吐き捨てるように呟いた。
「そういうものなんだよ」
悲しい事だが。
だが、私の考えが間違っていないなら。
そして、私がブリジットやアレックス医師と話してきた印象が正しいなら。
魔族――少なくともダークエルフの精神構造は人間とそう変わらない。文化的な違い以上の物はないはずだ。
「ブリジットは、どうする?」
「どうもしない。……いや、説明をする」
「ダメだよ」
首を振った。
「ブリジットが大事にすべきは、私じゃない。仲間の……部下の人達だよ」
「では……どうしろと」
彼女は、ダークエルフで、騎士団長。
私は、人間で……何の立場もない。
「私は、ブリジットの事を友人と思ってるし……それは、きっと変わらない」
「……そうか。私も、だ」
少し戸惑って、それでもはにかみながらそう言ってくれるのは、嬉しいけれど。
これは、前置きなのだ。
「でも、関係をはっきりさせよう。少なくとも、部下の人達にそう見えるように」
「……何を、言っている?」
「――私は『人間の捕虜』。それ以上でも、それ以下でもない。ただの貴重なサンプルで、衰弱死させないために個室を与えた。ブリジットが顔を見せていたのは、尋問のため」
「私に、そのようなつもりなどない!」
ブリジットが椅子を蹴立てて立ち上がった。
倒れた木製の椅子が立てた音が静まるのを待つ。
「……分かってるよ。ありがとう」
微笑んで見せた。
「でも、そういう事にした方が、きっといい。部屋をもっと粗末なのに変えて……うん、食事とかも、グレード落とした方がいいかな」
出来れば快適な部屋と食事が欲しいけど、それよりは、ブリジットの立場の方が大事だ。
「私の事を……捕虜を扱うようにして」
「……今まで、お互いに捕虜など、まともに取った事がない。殺し合っていたから……」
淡々と、呟くように話すブリジット。
なんて嫌な世界だ。捕虜すらなしか。
予想できた範囲ではあったけれど……はっきり言葉にされると中々きついものがある。
「お前の言う事は……正しいのだと思う。だが、私は……友人を、そんな風に扱いたくない」
「……ありがとう」
嬉しくて、喉が詰まった。
うつむいた。
一瞬、彼女の優しさに甘えてしまいたくなる。
「でも……私も、だよ。私も、自分のせいで友人がそんな風に見られるのは……嫌だ」
私は、何も持っていない。
だから、彼女のために私が出来る事は――これしかないのだ。
ただの人間の私に、優しくしてくれた彼女が得るべきは、味方からの悪評などではない。
そうであっていいはずがない。
「私は、大丈夫だから」
顔を上げて、精一杯微笑んで見せた。
ちゃんと笑えたかは、分からないけれど。
「……そうしよう。お前の、言う通りにしよう。私は、暗黒騎士団の、団長なのだから」
ブリジットが、自分を納得させるように言う。
「待遇は、そう悪いものにはしないつもりだが……すまない」
「謝らないで、ブリジット。……いいんだよ」
私はもう一度、微笑んで見せた。
私は、家畜小屋に帰ってきていた。
けれど、敷き藁オンリーだった召喚直後とは違う。
個室の物よりもかなりボロくなったが、それでも清潔なシーツと枕と毛布があるのだから、これ以上の贅沢は言えない。
食事も多少グレードは落ちたが、捕虜の体力を維持するという名目があったのが幸いだ。
ここで人間達に与えられていた、味をほとんど考慮していない、野菜を塩で煮溶かしたようなスープより遙かにマシ。
それに実は、一番辛いのは……ブリジットと会う頻度が減った事だったりする。
空き時間を見つけて部屋に来てくれたり、手ずから食事を持ってきてくれたり、その際、一緒に食事したりしていたのが、ほとんどなくなった。
びっくりするぐらい寂しいな。
ふっと胸に湧き上がった痛みと、目尻に滲んだ涙とを、目を閉じてこらえる。
ああ、思ったより、私にとって、あの時間は大切だったのだ。
それでも。
それでも、私が彼女に言った事は、全て正しい。
だから、私が今、こうして一人でいる事も。
きっと、正しいのだ。
正しくなくては、いけないのだ。
もふっ、と体重を掛けると沈む敷き藁ベッドに寝転がる。
うつぶせのまま、枕に顔を埋めた。
頭の中で、思考を巡らせる。
ブリジットとの会話を通じて、今の状況をある程度理解する事が出来た。
きっと、このままでは魔族が負けるという事も。
だってそうではないか?
人間は、とっくに倫理というリミッターを外した。
守るべき一線を越えた。
そして、倫理という枷のない人間がどれほど残酷に……いや『効率的』になれるかは、人間である私が、現代日本の教育を通じて教えられた事だ。
淡々と紙の上で語られる人類史とは、戦争の歴史。
寸土を争って、ほんの僅かな違いを理由にして、人間と人間が殺し合った殺戮の歴史。
私は……人間であるはずの私は、どうして人間が同じ人間にそんな事が出来るのか、分からない。
けれど、それを出来てしまうのが、人間だ。
そして、それを分かり始めた自分が、今ここにいる。
私を助けてくれたブリジットが守りたいと願う国が滅び、私を使い潰そうとした種族が栄える。
――それが、私と同じ『人類』だったとして、そんな事は許せそうになかった。
寒気を感じて、起き上がって毛布を頭からかぶった。
余った部分が、フードのように垂れ下がる。
毛布を巻き付けて、ぎゅっと身を縮めた。
これは、ブリジットに貰ったもの。
彼女から受けた、優しさと呼ぶに足るもの。
私は、この優しさに見合うだけのものを、人間として返さなければいけない。
きっと"病毒の王"は、あの薄暗い家畜小屋で生まれた。
私は、この世界に来て、沢山の事を知った。
私の中の暗い気持ち。
自分の中にこんなものがあったのかと、ぞっとするほどに真っ黒い気持ち。
――そんな物を使わせるほどに、温かいもの。
覚悟を決めた瞬間、私の目から涙がぽたぽたと溢れる。
私の中の倫理観が、私を責めているようだった。
私は、毛布の陰で泣きながら笑った。
私はもう、知ってしまったのだ。
城壁の上の非道も絶望も地獄も、これに比べれば怖くなかった。
人間とは所詮そんなものだと悟って、全部失った解放感に任せて笑って絶望して死ねば、それで良かった。
けれど私は、こんな優しいものを、こんな温かいものを、知ってしまった。
人間以外の、ひとの手で。
私は、人間なのに。
……倫理が、この世界にないのなら。
捕虜に関する条約さえ存在しないような戦争をしているというのなら。
『やりよう』はある。
合理的に、正しい事をすればいい。
それが、倫理的に許されないとしても。
それを咎めるものは、この世界にないのだ。