ブリジット
「マスター……よく、生きてましたね」
そこまで聞いたリズが、しみじみと呟く。
私は今、ここにいる。
私に与えられた館で、柔らかく清潔なシーツと布団のある天蓋付きのベッドで、高級品のランプに照らされながら。
可愛らしい副官さんと一緒に、これをただの過去として語る事が出来ている。
「うん、我ながら運が良かったね」
いや、違う。それだけじゃない。
『運』だけじゃない。
「――見ていてくれた人が、いたんだ」
魔族の人達が絶対的な正義だとは、今でも思わない。
彼らもまた、戦争をしていた。
私達がどういう存在か気付いていたか、分からない。
けれど、何も区別せず、城壁の上に攻撃魔法を叩き込んだ。
私と同じ境遇の中で、私以外の生存者はいない。
それでも、生きている私を、見つけてくれて。
私がした事を、見ていてくれて。
「助けてくれた人が、いたんだ……」
「そんな人が……」
「ていうか、ブリジットだよ?」
しんみりした表情のリズが、怪訝そうに眉を寄せる。
「……今、なんて言いました?」
「だから、ブリングジット・フィニス。リズのお姉さんだけど」
「……姉様から聞いてませんよそれ」
「……陛下に口止めとかされてたのかな。それとも、単に私が嫌いなだけかな」
むしろ、知っていると思っていた。
「"病毒の王"の下で働く事になったって言ったら、姉様は、なんかすごく不機嫌になりましたよ?」
「それは知りたくなかったかも……」
リズが、じっと見つめてくる。
「……聞いていいのか分からないんですが、どうしてマスターとブリジット姉様は仲が悪いんですか?」
「仲が悪い……とは違うかな。命の恩人だし。でも、"病毒の王"が嫌われてるというか、怒らせたというか……とりあえず、助けられた時の事を話そうか」
魔王軍最高幹部。
"第二軍"たる暗黒騎士団の騎士団長。
"血騎士"、ブリングジット・フィニス。
リズの姉でもある。
私は"ガナルカン砦攻略戦"の戦功が認められて、陛下より"病毒の王"の名前と最高幹部の地位を頂いたという事になっている。
それは、間違いではない。
けれど、彼女の率いる暗黒騎士団と、悪魔達が砦を攻め落としたという事実に変わりはない。
「どうだ。目は覚めそうか」
柔らかい闇の中、凜とした声が聞こえた。
「ええ、とりあえず傷は塞がりましたし……衰弱こそしていますが、魔力量そのものは、かなり高めです。じきに――あ」
「目が覚めたか?」
耳に心地よい声の持ち主を一目見たくて、私は目を開けた。
目の前にいたのは、ダークエルフだった。一言で言うと、そういう感じだった。
褐色の肌に、長く伸びた耳の先端は尖っている。
ポニーテールにしている長い銀髪が、肌に映えて綺麗だった。
私を覗き込んでいる顔には、私の身を案じているらしい表情が浮かんでいた。
「代わって下さい」
「あ、すまない」
彼女が脇にどいて、代わりに私の視界に入って来たのは、やっぱりダークエルフのひとだった。
紺の軍服に白衣。ダークエルフらしい銀髪は短くされ、金縁の鎖付き眼鏡が似合う好青年。
「私の声が、聞こえますか? 聞こえたら、目をぱちぱちして下さい」
ぱちぱち。
「私の言葉を、意味のあるものとして理解出来ますか? 理解出来たら、もう一度目をぱちぱちして下さい」
ぱちぱち。
「……わた……し……」
喉が渇いていた。
舌と上顎が張り付くようで。
目が霞んで、重くて。
全身が熱っぽくて。
「話せるか?」
「少しなら……でも、まずこれを飲ませましょう。身体を起こしてあげて下さい」
優しい動作で背中に手を差し入れられ、上半身を起こされる。
そのまま支えてくれる腕に、力を抜いて身を委ねた。
そして差し出されたのは、カップに入った薄緑色で透明な――臭いはないが、色は、濃く淹れた緑茶にそっくりな液体だった。
「私は軍医のアレックス。これは主に水分補給のためのものです。害はありません。飲めそうですか?」
頷く。
差し出されたカップを受け取り、こくりと飲んだ。緑茶のような見た目に反して、とろりとして、ぬめっとして……不思議な感触だった。
なお、後に聞いたところによると、二十倍に希釈した天然ウーズだったらしい。整腸作用に加えて、そこそこ栄養もあるとか。
道理でぬめっとした訳だよ。
けれど、おかげで喉には潤いが戻り、ぐっと楽になった。
飲み終わった後は、再び優しい手つきでベッドに横たえられ、枕に頭を預ける。乱れた掛け布団が肩まで引っ張り上げられた。
「少し、彼女と話をしてもいいな?」
「はい」
「――私は、ブリングジット。君が……城壁の上で、防御魔法の使い手を突き落とすのを見た。まずは、礼を言わせてくれ。おかげで、突破口が開けた」
ベッドサイドの椅子に座って自己紹介したのは、色々してくれた、凜とした雰囲気の女性ダークエルフ。
紺の軍服に銀髪ポニテが可愛いな、とか、熱に浮かされた状態で思ったのを覚えている。
礼を言われるのは、複雑な気持ちだった。
私は、この人達を助けたかった訳ではないのだ。
「……他の、ひとは?」
彼女は私を見つめると、少しして首を振った。
「君は、何故、あのような事を?」
「……ゆるせなかった」
許せなかった。
「私を……他の人も……あんな、物みたいに」
「君達は……魔力の肩代わりをさせられていたのか? 同じ、人間だろう?」
同じ、人間。
同じ人間が、人間に、あんな事をした。
「うん。……よく、分からないけど」
魔力。ファンタジーな語感のワードだが、その時の私はとりあえず頷いていた。
うん、熱がある時って、よく分からない事、深追いしないよね。
それに、私はあの人達が、本当に自分と同じ人間だったのか、分からない。
少なくとも、あの人達にとっては、違ったのだから。
「どういう基準で選ばれたのだ?」
「……違う世界から、集められたんだと、思う」
「違う、世界?」
「ここ……地球じゃない……でしょ?」
私のナルニアはハード仕様だ。
まあ、あそこも戦争してたけどさ。
「ブリングジット様、熱が高いようです。このぐらいで……」
「……ああ、うん。分かった」
熱のせいにされた。
「そうだ。名前を聞くのを忘れていた。――君の、名前は?」
私は、力なく微笑んだ。
「忘れちゃった……」
この世界に、奪われたのだ。
あるいは、私の世界と、この世界の間に、置き忘れてきた。
ブリングジットが困ったように微笑んだのを、覚えている。
あの時は、あの人は、優しかった。
「君は? 本当に、違う世界から来たのか?」
「うん、そうみたい」
頷いた。
私は、相変わらず個室の病室にいる。
ここは、ガナルカン砦の一室だ。
彼女達にとっては敵国の砦であり、既に廃棄する事が決定されていて、今はあくまで全てが仮住まいという事だった。
しかし、戦争が始まるまで押し込められていた所よりも、格段に居心地がいい。
屋根と敷き藁はあったけど、今思うと家畜小屋だよなあれ。
生活用魔法のおかげで、シーツも布団も、そして私も清潔。
食事も、士官用と同じ物だと聞いた。
今から思うと、物凄い好待遇だ。
私は、人間なのに。
この世界は、人間と魔族が戦争をしている世界だと聞いた。
人間の国は大国が三。小国家群が全部で十三。
そして、魔族の国が彼女の国、リストレア魔王国だ。
ダークエルフ、獣人、悪魔、不死生物、竜などの総称が、魔族だという。
……人間じゃないひとの方が優しくしてくれるなんて、おかしいな。
もちろん、それは、聞き取り調査を兼ねていたのだろう。
わざわざ私に許可を取ってからだが、精神魔法も使われた。
簡単には嘘を言えなくする程度の、軽いもの。専門の術者が、質問への反応を見て総合的に判断せねばならない程度の……『弱い精神魔法』だ。
『敵対種族』への尋問というには、あまりにも優しい。
私はスパイとして、あまりにも無知で……無害と判断された。
好奇心に任せた質問にも、結構答えてくれた。
肌の白いエルフは、おそらくもう滅んだ。
ドワーフという種族は、聞いたこともない。
ドッペルゲンガーという、変身能力を持つ種族もいる。
獣人の耳や尻尾に触れるのは、侮辱や求婚ではない。
デーモンは生まれついての魔法使いであり、肉体的にも強い。
アンデッドには、実はいろいろな種類がいる。
ドラゴンは数が少ないが、砂漠の方には羽を持つトカゲがいる。
誰もが知っているような常識を、私は少しずつ身につけていった。
そして、そんな風にしばらく過ごして。
「ブリングジットさん……。一つ、お願いがあるんだけど」
「なんだ? 言ってくれ。私に出来る範囲なら、何でも用意する」
優しい言葉。
けれど私は、首を横に振った。
「物じゃない」
……じっと、見つめる。
「名前……縮めて、ブリジットって……呼んでもいい?」
「……ああ。構わない」
ブリングジット改めブリジットが、微笑む。
彼女は騎士団長という事もあって忙しい身だったが、ちょくちょくと顔を見せてくれて、他愛もない話をした。
彼女がいなければ、きっと、私は死んでいた。
彼女がいなければ、きっと。
"病毒の王"は、生まれなかった。