焼け落ちた未来
夏が終わる頃、実りの秋への見通しが本格的に立ち始める。
"病毒の王"によって滅ぼされた村や、殺される事を恐れた住民によって放棄された村の減産分は大きい。
それでも、城壁内や大都市近辺などを中心に無傷の農地も多く、新たに切り開かれた畑も、備蓄もある。
配分が難しいが、今年は豊作だ。平等に行き渡れば、飢える者はいないだろう。
何より、最近は被害報告が減っていた。
人類の叡智と結束が、かの非道の悪鬼を上回ったのだと、楽観ムードが流れる。
城壁の中にいる限り、"病毒の王"は手出し出来ない。
都市の城壁は、一度も破られた事がないのだから。
――ただ一つ、どのようにして陥落したのかさえ分からない、そもそも"病毒の王"の手によるものだったかも分からない、大火事によって焼失した砂漠のオアシス都市、ウェスフィアを除いて。
月のない夜の闇の中を、黒い四つ足の影が、飛ぶように、滑るように、身を隠す物のない草原を駆ける。
「おい、あれ――なんだ?」
「獣? ……犬?」
見張りが即座に報告すべきか迷い、最低限それが何かを見極めようと目を凝らしたその僅かな時間で、黒い四つ足の影は城壁の下に達し、助走の勢いを駆って城壁に取り付いた。
そして見張りは、致命的な過ちを悟る。
ただの獣ではない。
自身を引きずり落とそうとする重力に抗い、爪を立てながら数秒で城壁を登り、城壁の上に掲げられた松明に照らされたそれは、黒い犬の姿をしていた。
黒い犬の瞳に熾った石炭のような深紅の眼光が灯るに至って、見張りの一人が、敵襲を叫ぶ事も忘れ、呆然とそれの名を呼ぶ。
「黒妖犬……?」
それは、死神に等しい忌名だった。
バーゲスト達が瞬時に喉元に食らい付き、一撃で頸椎を噛み砕き、見張りが無力化されていく。
たった十匹ほどのバーゲストに、城壁の見張りと、城壁の下に開墾された畑の夜番、数十人が警告を発する事も出来ず、瞬時に食い殺される。
ただ、さすがに完全に口を塞ぐ事は出来ず、一人が恐怖に駆られて叫んだ声が、異常を知らせる。
しかし、夜中の事。緊急事態を知らせる鐘の音も、詳細を知らせる伝令もない、ただの悲鳴一つ。
様子を見るべく、室内で待機していた兵が外に出るが、変わった音は何も聞こえなかった。
それでも巡回に出たが、それでは遅すぎた。
万全の態勢でも、間に合うか分からないほどに、攻め手は迅速だった。
稼がれた時間を利用して、紫色のローブをまとった死霊達が城壁に取り付き、軽やかに登り始めた。
城壁をすり抜ける事こそ出来ないが、体重は生前と比べれば、それこそ羽根のように軽い。
城壁の上に見張りの兵が残っていれば、無防備な登攀中はいい的だが、その見張りはもういない。
降りる時はロープを垂らし、しかしそれを使わずに飛び降りる。
素早く持っていた油袋から油をぶちまけると、一人が呪文を唱えた。
「"点火"」
後を追うように同じ呪文が詠唱され、炎が瞬く間に燃え広がる。
死霊達はロープを使って登ると、素早く回収し、さらに元来た方へ飛び降りた。
バーゲスト達も後に続く。
混乱に乗じれば、もっと被害を与えられただろうが、そういう命令だ。
最低限だけを殺せ、と。
それが、慈悲をもって下された命令ではない事は、命令された彼らこそがよく知っている。
その命令は、なんでもないような表情で下された。
躊躇いながらも理由を問えば、主は、特別な事を語るのとは違う何気ない口調で、ただ疑問に回答した。
食料を欲する人間は、多い方がいいのだと。
現地活動班には、機を見たこの一撃の後、潜伏し、攻撃作戦を一時休止する事が言い渡されている。
一度『正確な数字』を人間達に自ら出させるために。
これが最後の攻撃だったのかもしれないと、気を緩ませるために。
こちらは次の活動に備えて、戦力を温存し、態勢を整えるために。
そして彼らの主は、実に優しく微笑んで、「この国のために戦うお前達全員を誇りに思う」と言って、ねぎらってくれたのだ。
恐ろしくてたまらない。
自分達の主は、"病毒の王"を名乗っている彼女は、部下にそんな優しい言葉をかけられるのだ。
理不尽な命令を下されたと思った事はない。
給料や休暇にも気を遣われていると感じる。
そんな『まともな』ひとが、自分と同じ種族を絶滅させると宣言したのだ。
同族嫌悪などという生ぬるい言葉で片づけられる所業ではない。
果てしない憎しみと、途方もない怒りなしに、こんな事が出来るというのならば、そのひとは狂っている。
それを持っていて、見せないでいられるというのなら――その胸の内を、想像する事さえ、恐ろしい。
だから思う事はたった一つ、"病毒の王"が、自分達の敵ではなく上官で良かったと、それだけだ。
火が燃え広がり始め、炎上に気が付いた者達が必死に消そうとするが、油で勢いを増した火によって炙られ、水分の抜けた葉が次の燃え種となる。
まるで、一足早く夜明けが訪れたかのような明るさだ。
時間にして、十分間に満たない、鮮やかな襲撃。
時を同じくして、他の城壁の内側の畑も、既に収穫された作物が収められた倉庫も、その多くが同時に襲撃された。
どこも、警戒はしていたが、それはあくまで通常の物。
これまで、この人数で大丈夫だったのだから、これからも大丈夫だろうという、過去の実績に基づいた城壁への楽観的な信頼。
高く堅牢な城壁に守られた、人間の叡智と結束の象徴は、全て等しく、あっけなく焼け落ちた。




