城壁の上のウサギ
爆発音が響いた。
目の前の透明な壁が火球を受け止め、爆発に耐えていた。
音も緩和されているが、爆発のエネルギーほど完全に遮断はされていない。
電撃と吹雪も、同様に透明な壁に阻まれる。
"火球" 。
"稲妻"。
"吹雪"。
世界に攻撃魔法は数あれど、この三つを覚えていれば知識として事足りる。
上級術者ですら、ほとんどの場合より多くの魔力を注ぎ込んで威力を上げるか、もう一発同じ術式を叩き込む事を選ぶからだ。
状況によって使い分けられれば一人前。
使い分けられなくとも、どれか一つでも使えれば地球でいう大砲だ。
絶滅戦争真っ只中の世界では、喉から手が出るほど欲しい貴重な人材として一生食うには困らない。正に、手に職というやつだ。
その一生が短いものになる事も多いが。
中でも "火球"と"稲妻"が安定しているため優遇されるという。
特に "火球"は爆発により攻撃範囲が広く、攻撃魔法の花形として名高い。
それを防ぐのは、防御魔法だ。
防御側は、透明な障壁を展開する。
"障壁"。
世界に防御魔法は数あれど、この一つを覚えていれば知識として事足りる。
属性対抗や鏡のように反射するものなど亜種は数多くある。
しかし結局のところ、誰が最初に開発したかも分からないこの単純にして明快な術式こそが、防御魔法に必要な信頼性の頂点に立つ。
やはりこれを使える魔法使いは貴重極まりない。
絶滅戦争真っ只中の世界では(以下略)
その一生が短いものになる事も(以下略)
この世界の大規模戦争とは、いかに魔法使いの数を揃えるか、で決まる。
攻撃魔法で相手の戦力を削ぎ、同時に、防御魔法で相手の攻撃魔法を受け止めるのが基本だ。
そして身体強化の魔法を使える戦士達で白兵戦。
もちろん槍兵や弓兵など、ある程度数合わせでも役に立つ兵種も重要だ。
しかし防御魔法がないなら、固まって槍や弓を構えた密集隊形など攻撃魔法の的でしかない。
だから、散らばって、突撃し、乱戦に持ち込む。
後は個々の技量で決まる。
英雄クラスの戦士達ともなれば、身体強化魔法を多少使える程度の雑兵が束になっても敵わない。
ゆえに、それを近付く前に殺せる攻撃魔法は貴重だし、それを防げる防御魔法も貴重なのだ。
そして、英雄ですら疲労はする。肌も鋼ではない。突出したところを雑兵に囲まれれば、あっさりと討ち取られることもある。
異世界だろうと基本は同じ。
敵より多くの数を用意する。それが戦争だ。
人材の育成には費用が掛かる。
それはどこの業界でも同じだが、戦争ほど人材を使い捨てにする活動も珍しい。
もちろん長く大切に使いたいのが本音なのだろうが、現場の厳しさがそれを許さない。
だから、人間は、正しい事をしたのだ。
私のような、この世界の人類に何も寄与しない――他の世界から持ってきた人間達を、貴重な魔法使いの魔力消費を肩代わりさせるための燃料タンクとして使う。
今では"病毒の王"と呼ばれている私ですら、ぞっとする発想だ。
だから、私は、あの城壁の上で死ぬはずだったのだ。
誰も助けてくれない。
何のチートもない。
戦場で使えるスキルもない。
自由意志すら、なかった。
「新入り、しゃきっとしな!」
「は、はい、隊長殿!」
目の前で、青年の『新入り』が壮年の『隊長殿』に励まされていた。
灰色のフード付きローブをかぶっているので、声しか判断材料がないが、その時の私にはどうでもいい事だった。
「今回ばかりは、魔力量は気にするな。まだ、替えはあるんだ」
目の前で、また一人が使い潰される。限界まで魔力を吸い尽くされ、血を吐き、効率重視の『処理』をされる。
城壁の向こうの空堀に、突き落とされるのだ。
「いいか、何度も言ったがな。精神を研ぎ澄ませろ。魔力ってのは誰もが持ってるもんだ。最後は、気合いよ」
時代遅れの精神論、と笑えないのが戦場だ。
気合いのない兵士は死ぬだけだ。
気合いがあって実力がない方が始末が悪いが、ここでフード付きローブの着用を許されているのは魔法使いのみ。
それは、生き残りさえすれば高給を約束されたエリートだ。
今にも使い捨てられそうな、私とは違う。
「ほら、来たぞ!」
「はいっ!」
二人は防御魔法の担当のようだった。
魔法が飛ぶ速度は、物理法則の影響を受ける。遠い所からの攻撃魔法は、なんとか目で追える速さだ。
攻撃魔法が飛んできて、"障壁"が攻撃魔法を受け止める。薄っすらと光る壁が、攻撃魔法が着弾した時は虹色に輝いて、ギシギシと嫌な音を立てる。
時々、障壁が貫かれたか、途切れたかして飛び込んだ火球や電撃が人を灼き、あるいは吹雪が人を粉々に凍り砕いていく。
城壁に着弾し、不気味な振動が足下から響く時もあった。
けれど、おおむね人間側が優勢だった。何しろ、砦に引きこもっての籠城戦な上に、『魔力袋』があるのだ。
障壁は硬く、破られても再び展開する余裕がある。攻撃魔法の手も、疲労で緩まない。
私の前の一人が使い潰され、捨てられようとしていた。
「ちょっと手を貸せ」
「……はい」
私と同じぐらいの、若い男の人だった。
先に突き落とされた一人とは違い、倒れてしまったために『処理』するのに手間が掛かっているらしかった。
フード付きローブの二人が腰を落とし、腕と足を持って、軽く反動を付けると、物のように城壁の向こうに放り捨てた。
それを見た時、怒りが湧いた。
そんな風にするのか。
そんな風にするな。
お前達は、人間を、そういう風に扱うのか。
――いや。
私達を、人間として見ないのか。
なら、私もそうする。
魔力というのは、誰もが持っているもの。
精神を研ぎ澄ませろ。
最後は、気合いだ。
私に向けてではない、『新入り』に向けての……『人間』に向けての優しい言葉を、胸の内で繰り返す。
視界が、クリアになった。
鈍っていた感覚も戻り、寒さで体が冷え切っているのが分かる。
空腹で。怠くて。
その全てを、煮えた泥のような怒りが塗り潰していく。
私は、人を放り捨てた二人を、後ろから突き飛ばして、さっき放り捨てられた人の後を追わせた。
攻撃魔法の着弾音が響き渡る中、二人の悲鳴は、何故か嫌にはっきりと私の耳に届いた。
落ちて潰れる音も、断末魔さえも。
ああ、これで私は『人殺し』だ。
私は、この人達とは違うから。
私は、さっき突き落とした人達を、人間だと思っているから。
私がした行動は、人間を殺すという事だと分かっていて。
それでも私は、許せなかったから。
私は、生きたいと思ったから。
死ぬとしても、人間として死にたいと、思ったから。
笑い出したいような気持ちになった。
荒れ野に築かれた城壁の上で、血と焦げ臭い煙の匂いを一杯に吸い込んで、足下に押し寄せる黒い鎧の騎士達から視線を外して、曇天の空を見上げた。
私は、ここにいる。
ああ、私は自由だ。
私を知る人が誰もいない世界。
名前も分からない自分しかいない。
『自分』なんてものが、分からない。
けれど、今、精神魔法に抵抗したのは。
人を殺してでも、理不尽へ抵抗したいと決意したのは。
それは『私』だと思えるから。
私はそのまま隣の区画の防御魔法使い二人を、やはり同じように『人間』を荷物のように放り捨てる隙を狙って、突き落とした。
そこで拘束される。いや、殴り倒され、引きずり倒された。
誰かが叫ぶ。
「こいつ! なんでこんな真似を!」
なんで?
お前達がそれを言うのか。
お前達が、それを言うのか!
怒りと同時に、決して消えない氷の塊が胸の内に生まれたようだった。
そう。あの人達は『人間』だった。
そしてあの人達にとって、私は『人間』ではなかった。
理屈が、違う。
私の言葉は、届かない。
それは、絶対的な断絶だったのだ。
「ふっ……はっ……ふふ……」
だから私は、喉の奥を震わせるようにして、笑った。
こんなにも、言葉が力を持たない世界が、おかしくて。
こんなにも、私が今まで大切だと教えられてきた全てが役に立たない世界が、悲しくて。
ただ、私の行動には、ほんの少しだけ意味があった。
二組、防御魔法の担当が欠けた。
そして、私を取り押さえるのに、もう一組。
弱まった防御網の穴へ飛んできた攻撃魔法を防ぐ障壁は、脆かった。
ガラスが割れるような音がした。
ゆらめいて、炎も稲妻も吹雪も受け止めていた壁が叩き割られて、その破片が落ちていく間に光る粉へと分解されていく。
ああ、昔、家族で見た花火みたいだ。
早くに出たから、いい場所を取れて――それは、ちょっと近すぎて。
花火は綺麗だったけれど、音が大きくて。火薬の匂いもきつくて。まだ幼かった妹は泣いてしまったのだった。
年の離れた妹を抱き上げて、あやすように背中を叩いて、自分と同じ黒髪を撫でたのを……その感触を、私の手は覚えている。
きらきらと舞い散る光の粉を払うようにして、炎の球が飛んできた。
「きれい……」
それは着弾点にあるもの全てを爆風で薙ぎ払い、消し炭にしていく。
その穴から連鎖的に障壁が砕けていき、城壁の上全てが灼熱地獄に変わった。
他人事のようにその光景を眺め、走馬灯のような過去の記憶に逃避していた私もまた、例外ではない。
私もその爆風に巻き込まれて、意識を失った。
ただ私は、引きずり倒されて、組み敷かれていて。
だから私は今、生きているのだ。