自由意志による契約
「"血の契約"について?」
私は、リストレア様の言葉を繰り返した。
「それをよくご存知なのは、リストレア様……いえ、"第五軍"の方々では?」
「古い呪法だ。今契約を交わしているのは、お前達二人しかいない。我ら悪魔は、確かに拠り所を求める。だが、私達が持っているのはこの身と……魂だけ」
リストレア様が、自分の胸に手を当てる。
「……その全てを他者に委ねれば、我らは何になるのだ? 『死か"血の契約"か』と言えば、許されざる罪を犯した悪魔に対する、事実上の死刑宣告だ」
「……あの? サマルカンド?」
そろそろと彼を見る。
重いとは、思っていたが。
やっぱりあれ、初対面で申し込む物じゃないよね?
「教えてくれ。――何があったのだ。先走った幹部に命令されての事と聞き及んでいる。それゆえに、助命と引き替えに……という事なら分かる。だが……噂では、あくまで噂では――サマルカンドの方から契約を求めたと聞いている。それは……狂気の沙汰だ」
「サマルカンド。凄い事言われてるけど」
「……狂気……ええ、私は狂っていたやもしれませぬ」
サマルカンドが自嘲気味に笑う。
「……後悔してる?」
「ええ、我が主」
虚偽は――ない。
私は思わずうつむいた。
"血の契約"は、契約した者が主に語った言葉が嘘か真実か、その身に流れる血を通じて分かるようになっている。
あの契約は、私から望んだ事ではない。
けれど"血の契約"とは呪いの一種だと……サマルカンド本人も言っていた。
もう彼は私に逆らえないし……私は、この黒山羊さんを手放す気はない。
けれど。
サマルカンドが、私に仕えた事を後悔しているというのなら――
「我が主の偉大さを一目見て理解しなかった事を、後悔しております」
……うん?
「……すまぬ、"病毒の王"。通訳を……してもらえるだろうか? "第六軍"の符丁は分からん」
「いえ、違いますよ、"旧きもの"様」
リズが真顔で首を横に振る。
「これは彼個人の言葉です。我が主になるべく分かりやすく喋れと言われておりますので、字句の通りと取るべきでしょう」
「待て。……一体、何があったのだ? よければ――真実を教えてくれ」
「我が主。よろしければ、"旧きもの"様に、あの時あった事を、私の視点より語らせて頂きたいと思います。間違っている所があれば、ご指摘下さい」
「許可する。頼む」
「私は真夜中に、我が主――"病毒の王"様のお命を狙うべく、窓より侵入しました」
「うん」
「我が主は泰然としておられました。私がお名前を確認すると、『はい、こんばんは』と、普段の調子でお応えになられました」
「そうだった……気もする」
「……え、そんな呑気な挨拶してたんですか」
「その悠然とした様たるや、我が主に心酔し、命懸けで盾となろうとした黒妖犬を、後の戦いを考え、無用な抵抗と諫めるほど」
「う……ん」
「死を覚悟し、それでも痛くない死に方をと冗談めかして笑うお姿を見て、私は、自分が――自分達こそが、間違っているのではないかと感じました」
「マスター。話したい事が」
「それはもう怒られたから掘り返さないで」
「何のために戦うのか、と私は問いました。そして"病毒の王"様は、『この国のために』と、一片の迷いもない、澄んだ瞳でお答えになられました」
「言った、ね……瞳はともかく」
「そして、今ここにいない部下を慮り、自らの死を覚悟してなお、自らが魔王軍最高幹部であると宣言し、陛下より頂いた立場に何の嘘偽りもないと断言されたお姿は神々しく、愚かな私めに道理という物を悟らせるのに十分でした」
「いや、それはどうだろう」
「そして……そう、自らの命が風前の灯火であるにも関わらず、暗殺を実行した私のその後を案じられたのです。私は永遠の忠誠を誓う事にいたしました」
「そこで話が飛びすぎてはいないかな……?」
「そして果断なる決断力により、私の事を信頼し、自分の命を狙ったデーモンよりの契約の申し出を受け入れられたのです。あれは私めの生涯において、最も幸福な瞬間の一つでありました」
「お前の幸福の基準が不安になってきたんだが」
「そして、契約の血液を用意するために自傷した私めの怪我を案じ、お戻りになられたリズ様より私を庇われました。……その際に言われた言葉は忘れられませぬ」
「……どれ?」
ここまで、私の言葉を全く気にせず、自分の言葉で過去を語り続けた彼は、横三日月の山羊の瞳を細めた。
「『私のためにその命を使おうというなら、相応の使い方をしろ』……と」
「うん、言ったね」
「それは、私も覚えてます」
「道具としてお側に置いて頂ければ、それで良かったものを。道具ではなく部下であると……。私めは罪を犯した。その償いを忠誠にて支払うと、誓いを新たにするには十分でした」
「……微妙に、主との認識にずれがあるようだが?」
ここまで黙って聞いていたリストレア様が、首を傾げる。
「主観の問題ゆえに。また、我が尊きお方は、それゆえに自らの魅力に気付かれていない節がございます」
「いや、そんな節はない」
「――その後レベッカ様をお迎えし、ハーケン殿に忠誠を誓われ……"第四軍"の死霊騎士達が、あの死霊軍からの転属希望を出した事をお忘れですか? ああ、黒妖犬達も入れておきましょうか」
サマルカンドが、指折り数える。一本ずつ数え、バーゲストで四本になり……そして五本目を折った。
彼は、全ての指が握り込まれた拳をたくましい胸に当てると、片膝を突いてひざまずいた。
「そして何より、私めも。死の淵でさえ、あの決断を後悔した事はありませんでしたし、この身がどのような終わりを迎えようと、後悔する事はないでしょう」
それは、重いの一言で切り捨てるには……重すぎた。
ぷに、とリズに頬をつつかれた。
「リズ?」
リズが一本立てた人差し指で、私の頬を撫でて、微笑んだ。
「一本、足しておいて下さい。……近衛師団の暗殺者を一人、籠絡した事をお忘れですか?」
「籠絡って。むしろ私はリズの魅力に惑わされた方だよ」
私も人差し指を一本立てて、リズの頬をぷに、とつつき、そのまま撫でながらすっと下ろす。
「……リーズリット・フィニス。お前はもし自分が悪魔だったら、"病毒の王"と……"血の契約"を結んだか?」
リストレア様に問われて、リズが微笑んだ。
「いや、しませんよ」
「え、今の『もちろんです』とか言って頷くとこじゃ?」
「私は自由意志を大切にするタイプです」
リズが一言で切り捨てた。
「大体マスターにそんな権限を与えたら、一体何をされる事やら」
「いや。そんな……事、は……」
『リズにお願いしてみたいリスト』にリストアップされた内容が、頭をよぎる。
平和になったらとか、そういう情勢以前に、そもそも口にも出せない妄想の塊で、時間を掛けてタイミングを見計らっても一割も消化出来ないと思うし、多分その方がいいだろう内容だ。
恋愛とは熱病のようなものという格言もあるが、この妄想はレベル4のウイルスに等しい。
「ほら」
黙り込んだ私に、ジト目を向けるリズ。
夏だというのに、冷や汗が流れる。
そこで忠実なるしもべたるサマルカンドが、援護射撃を試みた。
「つまりリズ様は、自由意志によって、我が主のお気持ちに応え、恋人同士でいらっしゃるという事ですね?」
「…………」
「…………」
リズが、期待の視線を向ける私をジト目で見返す。
そして一つため息をつくと、マフラーをくい、と上げて口元を隠した。
頬に朱が差す。
「……もちろんです、よ」
この瞬間に『リズにお願いしてみたいリスト』のトップが更新され、彼女にお願いする前に、理性が内容を精査する前に、私はそれを実行に移して、彼女に飛びつくようにして抱きしめた。
「ま、マスター!?」
リストレア様とサマルカンドの前なので、抱きしめるだけだが。
そして、彼女の温もりが全身に染み渡り、衝動がとりあえず落ち着いたところで、そっと身を離すと、彼女の瞳を見つめる。
「私……自分が悪魔で、リズ相手なら、"血の契約"してもいいよ」
リズがマフラーの向こうで微笑むのが分かった。
「重いです」
「え」
「……冗談です」
一瞬、あまりにばっさりした返しに固まった私に、リズがマフラーをちょいと下ろして、安心させるように……けれど悪戯っぽく笑って見せる。
「少しでも能力が底上げされるなら……自分がどちらの側でも、するかもしれませんね。あんまりにもアレな命令は、やったら嫌いになる方向で」
「なんて強制力」
「サマルカンド。お前は……"血の契約"を後悔していないのだな?」
"旧きもの"、リストレア様が、サマルカンドに問う。
「はい、"旧きもの"様。……我が主は、契約を盾に、私が望まぬ命令を下した事はございませぬ。出来る事と、そうする事は違う。私はこの契約より恩恵を受けておりますし……制約の鎖さえ、幸福の証でございます」
その言葉に、何の虚偽もない。
嘘も躊躇いも、何一つなく、彼は断言した。
自分の事を信じ、慕う相手だ。悪い気はしない。
しかし。
「なあサマルカンド。やっぱりお前の幸福の基準が不安なんだが」




