人類全部よりも重い物
談話室。
というシンプル極まりない名前のここは、食堂や浴場と並ぶ、共有スペースになっている。
ローテーブルやソファー、椅子がいくつも置かれ、暖炉や庭に面した窓もある、くつろぎ空間だ。
最近家具が、子猫の爪跡で随分と査定価格が下がったと思うが、特に売る予定はないので問題ない。
一応これぐらいなら修理も出来るというが、まだ新しい傷には思い出もあるので、修理を頼むかどうか迷っているのが現状だ。
今、一台のワゴンが置かれている。
『交渉』が終わった後に備え、リズのクッキーや、牛乳を入れたポットなど、おやつを用意しておいたのだ。
冷たいものばかりなのは、今の季節が、涼しいリストレアの事とはいえ夏なのと、交渉を終えた後には疲れ果てて、お茶を淹れるのさえ面倒になるかもしれないと思ったからだ。
実際そこまでではないが、心労は溜まった。
話の通じない相手との、実のない会話は、疲れるものだ。
「……あれで、良かったのかな」
ぽつりと呟く。
「良かったのか、とは?」
リズがてきぱきと牛乳をそれぞれのカップに注ぎ、クッキーの載った小皿と一緒に目の前に置いてくれる。
サマルカンドは、私とハーケン、どちらに気を遣ったのかは分からないが遠慮したので、三人分だ。
その時、いつも所作の優雅な彼女にしては珍しく、皿がガチャンと音を立てた。
「……人間と講和する未来を……潰したんじゃないかって」
今日の『交渉』において提示された条件は、個人的な物を含めて、どれ一つとして、呑めたものではなかった。
それでも、相手から『交渉』という言葉が出るだけでも、大変な進歩なのだ。
粘り強く交渉を続ければ……もしかしたら。
「私は、別にあの場で殺してもよかったと思いますけどね」
物騒な事を言うリズ。
「……リズ?」
「あれが使者ですか? あんなものが交渉ですか? ……あんなものが!?」
イライラした様子のリズ。
実際の所、交渉とは名ばかりで、時間稼ぎか、あわよくば内情を探れれば……ぐらいだとは思っていたけど。
挑発して、あの場で使者を八つ裂きにされるのが望みだったのではないかとも、思う。
「あまつさえ、この戦争を、マスターが始めた? よくも……よくも、そんな事を……」
やはり常にない乱暴な動作で、スプリングを軋ませながらソファーに座り、クッキーを口に放り込み、バリボリと噛み砕いてごくんと飲み込む。
それでさえ全ての怒りは飲み込めなかったようで、彼女は手負いの虎のように、ふうふうと肩で息をした。
いつも見る機会のない怒り顔も可愛いし、私のために怒ってくれているのかと思うと、大変にきゅんと来る。
「まあまあリズ。牛乳でも飲んで」
「マスターは、なんでそんなに落ち着いてられるんですか。何も分かっていない輩に、ああまで言われて……」
「いや、私はさっき叫んだし。言われた時も、みんなが怒ってくれたからね? なんか私まで怒るとバランス悪いかなって」
「そういう問題ですか?」
「うん。それにあの程度、腹も立たないよ」
「……マスター、そんな人間が出来た性格してましたっけ?」
「私はもう、人間に何も期待してないもの」
リズが絶句する。
レベッカが息をついた。
「まあ……その方がいいだろうな。最初は、内容も把握していない使い走りが哀れだとは思ったが、頭がお花畑という点ではご同類だ。加えて妙な夢を見ているようだから、政争に負けたのも、さもありなんといった所だな」
「レベッカから見ても……やっぱりあの条件、アホだよね?」
「アホだな」
レベッカが軽く頷いた。
「……被害者面をしたくなるのも分かるがな。私達はお互いに被害者で、加害者だ。行く所まで行かねば、話し合う事さえ、もう出来ない」
くいっ、とカップに入ったミルクを一息で空けるレベッカ。
いい飲みっぷりだ。
「その時……話し合えるの?」
「無理だと思うぞ。……何も変わるものか。何も消えるものか。失われたもの。流された血。……奪われたもの」
ぎらりと、彼女の赤い瞳に強い光が宿る。
先のリズよりもなお強烈な怒りと……憎しみだ。
ぱきり、と陶器のマグカップの持ち手が砕けた。
重力に引かれ、本体も落ち、レベッカの足下で砕ける。
中身が空だったのが幸いだ。
「あ……すまない」
「レベッカ様。私めが」
控えていたサマルカンドが、すっと歩み寄り、破片を片づける。
細かい魔力制御が上手い彼は、リズと一緒に、屋敷の掃除も担当している。
……上位悪魔を掃除機として使うような扱い方は、いくら平時に強力な魔法使いたる悪魔の火力が過剰とはいえ、これでいいのだろうかと思う。
しかし本人が、隙あらば仕事を入れてくれと、ブラックを通り越して深淵を覗き込んだような事を言うので、休みを定期的に入れる事を絶対条件に、じわじわと彼の(能力に見合わない)仕事を増やしているのが現状だ。
「でもレベッカ、結構言う事が過激だね」
「私をなんだと思っている? ……エルフの国の第三皇女が、死に際に願った。国が滅びても、一人でも多くのエルフが生き延びる未来があるように――と。その願いは叶わず、全ては失われ、だから『私』が生まれた。復讐を選び、片端から自我のないアンデッドを使役し、敵対を選んだ都市国家を一つ滅ぼした。……それが私だ。"蘇りし皇女"にして"歩く軍隊"、『レベッカ・スタグネット』だ」
淡々と語られる、彼女の過去。
断片的には聞いていたし、察していたけれど、きちんと聞くのは初めてだ。
「そんな事をしても、もう誰も喜ばないし、何も戻ったりしないと分かっていて、それでもそうした。……血に飢えた復讐者だよ、私は」
暗い目をして、自嘲気味に呟くレベッカ。
「それの、何が悪いの?」
「え?」
「……誰かを殺すのは、今でも、悪い事だって思うよ。ただもう、悪いとか、そうじゃないとか。……正しいとか、正しくないとか、そういう理屈を使える段階じゃない」
必要なのは。
「どんな未来が欲しいのか。どんな人達に生きていてほしいのか。……それだけ、だよね?」
「それだけ、か」
「うん」
私は頷いた。
「それだけだよ」
出来るなら、誰も死なない世界がいい。
誰も死ぬ理由のない世界がいい。
この世界は、そうではなかった。
多分、どこの世界も。
『どこまで』を許容するかは、人による。
多分、人が持つべき理性や、人としての尊厳の方が大事だと言う人もいる。
誰かを殺すより、殺された方がいいって言う人がいる。
私は、そうではなかった。
「……マスター。今さらですけど……本当に今さらですけど」
リズが私を、じっと見る。
「辛く、ないですか?」
私は口元に手を当てて考えてみた。
「理屈と感情は別物だからねえ。自分で決めて割り切った事だから、辛いと言えば辛いし、辛くないと言えば辛くないし……」
「なんですその曖昧な答え」
「分かった。それじゃあ、曖昧じゃなくするね。リズ。こっち来て」
「はい? 行けば分かるんですか?」
「うん」
近寄ってきたリズを、軽く手で示して一回転させる。
そして立ち上がって彼女を背後から抱き寄せつつ、座り直した。
「……あの?」
リズを自分の膝の上に乗せた体勢になり、振り返った彼女の、ほんの少し高い位置から見下ろす視線と目が合う。
彼女の重みを感じつつ、私は微笑んだ。
「私は、みんなの方を重いって決めたの。――人類全部より」
それは多分、傲慢な物の見方だ。
世界に線を引かなくていい、優しい人がいる。
でも、この世界にはとうに引かれた線があるのだ。
人間と魔族に、この世界は分けられた。
その線を消す事は……きっともう、出来ない。
出来たとして、長い時間が掛かるし、それがどれほど途方もない道のりになるか、私には想像もつかない。
だから、その線を意味のないものにする。
向こう側を、全部滅ぼす。
私の大切な物は、全部こちら側なのだから。
この世界で出会った、私にとって大事なひと達に、人間は一人もいないのだ。
「……それは光栄なのですが、どうして私を膝に乗せるんです?」
「リズ。私を見くびらないでもらおうか」
キリッとした口調になる私。
「私は、恋人とスキンシップする機会をむざむざ見逃すような無能ではないぞ」
「無能ではないにせよ、馬鹿だとは思うんですけど」
ばっさりいくリズ。
「光栄です」
「褒めてませんよ?」
とりあえず、彼女の腰を抱く腕に軽く力を込めた。
そして、彼女の背に頬を寄せる。
「……こんな風に出来るひとがいてね、まだ辛いって言ったら、バチが当たるよ」
リズが身をよじって離れ、立ち上がるのかと思ったら、ソファーに膝立ちになって、私の両手を取り、しっかり顔を合わせる。
「辛い時は辛いって言っていいんですよ。それはまた、別の話です」
「……そう? まあ、大丈夫だよ、多分」
「溜め込んで自爆するタイプのマスターの言う事ですから、信用出来ませんよ」
「最近は溜め込んでないよ」
「本当ですか?」
「リズが相談しろって言ってくれたからね。それで相談なんだけど、恋人が可愛すぎて胸が痛いのは、どうすればいいですか」
「業務範囲外です」
まあ、想定の範囲内だ。
しかし、そんな風に言われるのも楽しいので問題は――
「……応急処置、ですよ」
リズが、私の頬に軽く唇を寄せて、ちゅっと軽い音を立ててキスをした。
「……リズ?」
そろそろと、口付けられた部分に手を伸ばし、けれど触れると感触が失われそうで、その手が止まる。
多分顔は赤いし、脳は思考停止中。
もっと凄い事をしているはずなのだが、心の準備をしていなかったところへの不意打ちは、破壊力が高すぎて、思考能力が死んだ。
「その症状は、私にはどうしようもありません。でも、そんな馬鹿な事を言ってくれるのは……本当に喜んでいいのかという気もしますが、嬉しいですよ」
さらに続けられた言葉に、言語能力も死んで、私は自分でも分かるぐらいに顔を赤くして黙り込んだ。
レベッカが、ひょいとクッキーをつまみあげて、ポリポリとかじる。
そしてこともなげに頷く。
「仲良くなっているようで何よりだ」
「我が主とリズ様は実にお似合いでございます」
「うむ。幸せそうなお二方を見られるのが、何よりの褒美であるなあ」
レベッカ、サマルカンド、ハーケンが、三者三様にまとめる。
三人揃って、いつかの甘やかし期間の、仏様か聖女かといったレベルで目が優しかった。




