愚かな言葉
交渉の終わりが、"病毒の王"より告げられる。
「…………」
しかしそれも、無理のない話だ。
自分だってそうする。
国境線の守りを放棄し、さらに賠償に金貨と食料を支払え……と、一方的に要求されたのだ。
「実は私は、今日の交渉を楽しみにしていたのだ。リストレア魔王国が築かれて以来、歴史上初めての交渉の席において――果たして、どのような条件が出されるのか……とな」
交渉がされてこなかった理由は、いくつかある。
けれどその一番強い理由としては……人間は、交渉をする意味を、持たなかったのだ。
魔族を滅ぼす事に、何の疑いも持っていなかったから。
魔族を滅ぼすために、人類はまとまったから。
魔族が敵の方が、都合が良かったから。
「今回のこれは、一度は交渉をしたという、ただの国民向けアピールをするための小道具だったようだ……」
だからもう、これは交渉などではなかった。
最後通告であり……万が一呑めば、後は弱体化した小国。どうとでもなる。
それならそれで、もう少しまともな条件を提示してほしかったものだが。
確かに……安い挑発だ。
「早々に帰国されるがよい」
「待って頂きたい!」
しかし彼は国を――人類の未来を憂える外交官であり、ただの使い走りで終わるつもりはなかった。
「……確かに、この親書はそのようなものだったかも知れませぬ。しかし、私もこの交渉を大切に思っております」
自分が帰らなければ、それを口実に士気を上げるぐらいの事を、『上』は考えているに違いないが。
そのための道具として使い潰されるのはまっぴらだった。
幸い、言葉は――驚くほどに――通じるのだ。
「どうか、この場で、この親書に記された物ではない、新たなる条件で講和を考えて頂きたい」
「失礼。貴官に、そのような権限があるとは思われないのだが?」
「……確かに、私にはない。だが、返答を伝える事が出来る。改めて正式な交渉の場を設けるための、下準備とする事が出来る!」
自信を持って言い放ち、次いで深々と頭を下げた。
「この戦争を終わらせるために、どうか」
理で迫り、情に訴える。交渉の基本だ。
……人間相手なら、という注釈は付くが。
「……ふむ……」
顎――があるとして――に手を当てて、考え込む様子を見せた。
しかしすぐに思考をまとめたらしく、軽く頷く。
そして椅子に腰掛け直した。
「そうまで言うからには、腹案があるとお見受けした。まずは聞こう。語られるがよい」
「はっ」
頷き、目らしきものをまっすぐに見つめて、腹の内を語っていく。
「――国境線は現状のまま。賠償はなし。――以後の非戦を確約する。お互いに、お互いの国に干渉しない。私の考える講和とは、そのようなものです」
「ほう……?」
確かに、興味を持った。
「貴官は、少しは話せるようだ」
「この条件を呑んで頂ければ、戦争を終わらせる事が出来る。私は国では政争に負けた貴族ですが、地位自体は高い。賛同する協力者も多い。何より、国民の多くは平和を望んでいる!」
彼は、平和を愛していた。
間違いなく真剣に。
「どうか、この条件での講和を、真剣に考えて頂きたい」
「貴官は、平和の大切さを理解しているようだ。その点は好感が持てる」
重低音なのは変わらないが、優しささえ感じられる、柔らかな声色。
「では……」
「――だが、愚劣さでは、先の親書の条件を決定した者達と、そう変わらぬ」
「な、何故!?」
好感触、との印象が急転直下で裏切られ、彼は思わず狼狽の声を上げていた。
「ほう?」
"病毒の王"の声に、嘲弄の色が混ざる。
「何故? 何故と?」
「はい」
「私は、自分の愚かさも分からぬ事を証明するような質問に、答える舌を持たねばならないか?」
「……これが交渉であると認識して頂けるのならば、なにとぞ説明は頂きたい。私は愚かかも知れませぬが、両国の事を考え、現実的に出した講和条件のつもりです」
「人間的には好感が持てるな」
魔族が言うには、全くもって皮肉な台詞だった。
「……一つ問おう。貴官は、この戦争を、いつから始まったものとする?」
「……三年ほど前、でしょうか。貴方が始めた戦争です」
ぎしり、と空気が軋んだ。
"病毒の王"を除いた、居並んだ者達全員が、視線だけで殺せそうなほどの感情の塊を乗せて、一斉にこちらを睨み付けていた。
"病毒の王"が、軽く手を振る。
「よせ。我らは使者に手を出すような蛮族ではないのだぞ。……だが、この話は終わりだ」
「……何故ですか?」
「この戦争は、歴史を紐解くに、四百年は前から続いている」
四百年前。それはもう――人の身には、遠い時間だった。
少なくとも人間にとって、生き証人は誰もいない。
「その頃の国境線と言うのならば、まだ交渉のテーブルに着く事は出来るが、な」
「……"病毒の王"殿。貴殿が望む、現実的な、講和条件とは……?」
「現実的な、か。……貴官に言っても仕方ない事と、思われるのだがな」
「お互いに条件を出し合う事が、交渉の開始地点であると考えます」
「では、ランク王国、エトランタル神聖王国、ペルテ帝国、全ての国土を頂こう」
「……は?」
何を言っているのか、分からなかった。
「賠償金も相応に。食料も限界まで供出して頂く。武装は全て、これを認めない。魔法使いと呼べる者は、全て処刑して頂く事になる」
言っている内容が脳に染み渡っていくにつれ、脳が理解を放棄する。
「勿論、王族や貴族、指導者層の命は保証しよう。歯向かわぬ民も、な。小国家群まで取ろうとは言わぬ。大陸の端とはいえ、温暖な地だ。そこで暮らされよ」
「――それは、それはっ……!」
思わず、悲鳴のような声を上げていた。
どうやったら、こんな発想が出てくるのだ?
「そのような、それこそ愚にもつかぬものを、貴殿は『現実的』と!?」
「そうだ」
軽く頷いて……そしておそらくは、首を傾げて見せた。
分かりやすいジェスチャーが、かえって理解を拒ませる。
「これでも、最大限の譲歩だが?」
彼の心中に、怒りが湧いた。
非人間的な存在であるという事は知っていた。しかし、知っていただけだったのだと、分かる。
こんなものを最大限の譲歩と言うのか。こいつは、この悪鬼は!
「……これは、我らが先程突きつけられた要求に等しく……そしてこの四百年に渡り行われてきた事だ」
怒りを叩き付けようとした瞬間、気勢が削がれる。
「我らは大陸の北方に押しやられた。かつて住み慣れた土地を追われ、この地で生きる事を余儀なくされた。これ以上、何も奪わせない」
仮面に刻まれた『眼』が、強く輝く。
「――リタルサイドを放棄? 言ってくれるではないか。お前達は、リストレアの全ての民に死ねと言った。そのような者達の言葉が、届くものか」
彼は気圧されつつ、懸命に食い下がった。
「……あの条件が愚劣だった事は……あくまで個人的にではあるが、認めてもよい。しかし! 私が言ったのは、あくまで現状維持だ。リタルサイドの放棄など求めてはいない!」
「……これは『交渉』だ、と認識していたが?」
心底不思議そうな――声。
人間の物とは思われないような重低音なのに、そこに人の感情が込められている事が、分かるようになってきた。
同時に背筋が寒くなる。
それは彼にとって、人でないものが人であるかのように振る舞っている証拠としか、思えなかったからだ。
"病毒の王"が素っ気なく言い放つ。
「貴官の提案は、所詮何の裏付けも、重みもなく、それでさえそちらに都合が良い妄想に過ぎぬ。私は、しかるべき責任と権限を持った使者との交渉を期待していた。このようなお遊戯会ではない」
あまりに辛辣な、嘲りさえ込められず言われた内容のあまりの酷さに、羞恥と屈辱に彼の顔が赤く染まった。
本来言うつもりではなかった、人間全てが抱えている鬱憤を叩き付けるように叫んだ。
「……"病毒の王"殿。貴殿は、我らが国の国民を殺している。戦士ではない、力を持たぬ者を、無辜の民をです! どうお考えなのか!」
「私には、何を責められているのか、分からない」
"病毒の王"は、本当に言葉通り、彼が言っている内容が分からないかのように、首をゆるゆると横に振って見せた。
「――人間が始めた戦争だ。戦争で人が死ぬなど、当たり前ではないか」
「戦争で死ぬのは戦士だけであるべきです!」
「誰が、そのように決めたのだ?」
「……誰、が?」
彼は、呆けたようにオウム返しにするしか出来なかった。
「それは、貴官の、勝手な思い込みに過ぎない。少なくとも、人間の共通認識ではないな」
一瞬"病毒の王"の視線が落とされ、光り輝く紋様と単眼が、フードの陰に隠れ、光を失った事で薄暗い部屋がさらに暗く感じられる。
視線が上げられると、『目が合う』。
単眼が一際強く輝き、揺らめいた。
その眼光だけで、気圧される。
「戦士ではない、力を持たぬ者。非戦闘員が殺されぬ戦争など、そのようなお行儀のよい戦争など、私の知る限り、人間が行った戦争の中に、一度もなかった」
その『お行儀の悪い戦争』を主導している張本人の言いぐさとは思えない言い方は、神の言葉を預かった神官が言葉の如く、厳粛に響き渡る。
「主に、我が国の、貴官の言うところの『無辜の民』が殺された。戦士ではない、力を持たぬ者が、戦士であり、力を持つ者に殺されていった。ゆえに我らは……種族の垣根を超えて、国としてまとまった……」
「……謝罪はしませぬ。それが、現実であったでしょう。ですが、それをよしとしてはいけませぬ!」
彼の言葉に、病と毒の王は、小さく笑った……ようだった。
「……私も、かつては、その中の一人だった」
「っ……」
「その論理は、弱者に黙って死ねと言うのと同じだ。そしてお前達人間にとっては、いつも自分達人間が強者であるのだろうな。そうでなければ、気が済まないのだろうな」
人間でないものが、人間を語る滑稽さに、歯噛みした。
けれど何故だか、反論出来ない。
心の底の何かが、その言葉が真実だとささやく。
「貴官の言葉は、私の人間らしい心を潤すようだ。人間全てが貴官のようであるならば、この戦争はもう少しマシなものになっていたかもしれないな。……私達は、戦わなくても良かったかもしれないな」
人間と魔族は、戦争をしている。
けれど……『魔族』とは、人間でない種族の総称なのだ。
ダークエルフ、獣人、不死生物、悪魔、そして竜。
リストレア魔王国では、違う種族同士が、手を取り合っている。
もしかしたら、その中に人間がいたかもしれな――
「だが、現実は違うのだ」
思考が、"病毒の王"の言葉に強制的に打ち切られる。
そうだ。
現実は変わらない。
人間と魔族は、敵同士なのだ。
「では、この戦争を、どこで終わりにするのです……?」
彼は、思わず、ささやくように問うていた。




