暗殺者と信頼
彼は、茂みの一つに潜んで機を待っていた。
何度か"病毒の王"の姿は見ているが、日中はメンバーを入れ替えて三人、日が落ちてよりは四人の護衛に固められ、手が出せなかった。
「本当に情報通りだ……」
それが、今は護衛……かどうかすら定かではない少女を一人連れているのみ。
肌の白いエルフ。生き残りがいたのだろうか。
それともまさか……『あの』レベッカ・スタグネットだというのだろうか。
"蘇りし皇女"。
"歩く軍隊"。
"戦場の鬼火"。
複数の二つ名持ちの、上層部にも、兵にも信頼の厚いベテランだ。
彼女が"第四軍"を離れ、"第六軍"に属しているという事実そのものが、多くの者に"病毒の王"の暗殺という手段を躊躇わせている。
しかも"第四軍"から流れてきた噂だが、関係は良好だとも聞く。
顔は良く似ている。
最近も護衛として"病毒の王"の周囲を固めているのを見ているから、本人である可能性は高い。
しかし、戦場で見た事もある、外見に似合わぬ大人びた歴戦の魔法使いと、どうしても一致しない。
服が白いせいもあるだろう。彼女のトレードマークは――最近は新調したようだが――長い時を存在してきたのだと主張するようなボロボロの黒い服だった。
何をするつもりかと思えば……どうも……ピクニックのようだった。
"病毒の王"の正体は人間だと、噂には聞いていた。
複数のルートから漏れ聞こえてきた事から、確度の高い情報ではあった。
しかし、あくまで噂は噂……だった。
どう見ても、人間にしか見えない。
実に和気あいあいと、楽しそうにしている。
不自然な所は……特にない。
強いて言えば、こんなにも都合のいい状況が、少しばかり不自然とも言える。
けれど、黒髪の女性は実に楽しそうに笑っていて……心の底から安らいでいるように見えた。
暗殺者に狙われている可能性がある者は……もっと張り詰めた顔をしているものだ。何事もない風は装えても、中々、心の底から楽しそうには出来ない。
なのに、見るからに緊張感の欠片もない。
仮にもしそうだとして、護衛がベテランとはいえ、たった一人の今なら。
積層構造の防御術式は芸術だが……全体を覆うがゆえに、一点突破には完璧たり得ない。
そして、鎧を着込んでいるならまだしも、いかに魔力布製とはいえ、この距離で、強化されきった矢を止められるものではない。
それでも、"病毒の王"としての正装ならばあるいはその可能性もあったろうが、今は肩布も、杖も、そして仮面もない。
決意する。
「"病毒の王"をこの国から排除するチャンスは、今をおいて他にない……」
見つかる危険を考え、伏せ撃ちを選択。
視界を確保するために少しだけ刈っていた藪の隙間が、そのまま矢を通すための穴になる。
弓の弦に矢をつがえ。
大型のナイフの刃が、撫でるような動きで弓の弦を切断した。
さらにそのままフードと首の薄皮一枚までを、音もなく滑らかに切断して、喉元で止まる。
「動けば殺す」
何の感情も感じさせない声。女の声だが、その情報にほとんど意味はなかった。
ずし……と、背中に体重を感じた。――のしかかられ、首に刃を突きつけられている。
一瞬遅れて、脳が事態を理解する。
"病毒の王"暗殺に、失敗した。
そしてその瞬間に、精神調整魔法で、風のない海のように凪いでいた心が、そのまま凍った。
状況を分析し始める。
情報が漏れていたのか? それとも単に、護衛に気取られたのか?
どちらにせよ、暗殺に失敗した暗殺者の末路など、決まっている。
そして、状況分析は一瞬で終了した。
背後を取られ、一動作で殺される寸前。
つまり、詰んだ。
しかし、自分の生存を諦めた彼の心の内に湧き上がったのは純粋な賞賛だった。
「お見事……殺せ」
彼は弓兵であり、暗殺者であり……主と定めた者の政敵の排除のために、また政敵から差し向けられる刺客の排除のために、腕を鍛えてきた。
"病毒の王"の事を責める正当な権利など……自分は勿論、自分の主君にも、きっとなかった。
もしかしたら、この国の住人の、誰にも。
リタルサイド防衛戦にも参戦こそしているが、経歴を振り返れば、表に出せない物の方が多いし、敵と同じぐらい、味方も殺している。
"病毒の王"の非道に嫌悪感を感じつつ……胸のすくような思いを、味わっていたのではなかったか。
自分達より遙かに多い人間達の包囲網の一角を切り崩していく様に。
人類がリストレア魔王国を落とすために築き上げた橋頭堡を陥落せしめた、ガナルカン砦攻略戦を皮切りに。
"ドラゴンナイト"を。
"福音騎士団"を。
"帝国近衛兵"を。
人類の最高戦力を、討ち滅ぼしてきた。
"病毒の王"の名を嫌悪し、非難する者さえ、その戦果を認めないわけにはいかないだろう。
リタルサイド攻略戦で、それらと相対した経験のある古参兵達は、信じられないという顔をした。
力ある者ほど、この戦争の結果が見えていたのだ。
きっと、負ける……と。
それでも、失われてはならぬ物があるとすれば、名誉であり、誇りであると語る者達は、敗北を、自分達の死を前提にして、それでも目が据わっていた。
一人でも多くを、道連れにする覚悟でいた。
実際、人間達が全面攻撃に踏み切れなかったのは、今までのリタルサイド攻略が――その全てが、その戦力差からすれば有り得ないほどの被害を出してきたからに他ならない。
それでも、攻め込めるだけの戦力がない以上、一人の死が重くのしかかる魔族が……リストレア魔王国が敗北し、滅びるのは、ほとんど確定した未来であり、歴史の必然であるとさえ、思っていた。
それでも、それでも信じられる物があるとすれば、名誉であり、誇りであり……それを軍全てが共有し、団結する事であると、そう思っていた。
けれど……"病毒の王"は、そう思わなかったのだろう。
実際どんな作戦を行っているのかは不明な部分が多いが、暗殺者を多数抱えているのは分かっている。
一部の強大な戦力を潰している以外は、ほとんど住民を狙っているらしい事も……正式にはただの噂ではあっても、ほとんど公然の秘密だ。
"病毒の王"。
六人目の最高幹部。
リストレア魔王国の英雄。
……魔族の名誉を、『私達はお前達とは違う』という誇りを、泥の中に投げ捨て、踏みにじった者。
ああ、それでも。
国が滅ぶよりは、きっといい。
遠い昔、誇りを胸に抱き、軍に入った日の事が、ありありと思い出された。
この国を、守ると誓った。
名誉や誇りよりも、守るべき物を、知っていた。
そういった思考や光景が、一瞬で頭の中を流れ去っていく。
ひとは死の間際に一生の光景を振り返るというが、本当だったとは。
女暗殺者が動いた。
腰の短剣が抜かれ、投げ捨てられるのが分かった。
さらに矢も矢筒から抜かれ、放り捨てられる。
動けば殺すという言葉に従って、まだ持っていた矢がナイフに撫でられて、半ばで切断される。
「弓と矢から、手を離せ」
それは、武装解除の要求だった。
そうだ。――そもそも、弓の弦を切断し、万が一にも"病毒の王"に矢が飛ばないようにしたのなら、その次に頸動脈を切れば良かった。
「魔王陛下のお言葉を伝える。『死の恐怖を知って、道理を悟ったならば、もう一度忠誠を誓い直す事を認める』。覚えたか」
「……『死の恐怖を知って、道理を悟ったならば、もう一度忠誠を誓い直す事を認める』……? ――っ……」
反射的に記憶し、オウム返しにした言葉の意味が頭に染みこんだ瞬間、自分は精神調整魔法がこんなにも下手だったろうかと思うほどに、激しい感情が荒れ狂い、喉を詰まらせた。
「魔王陛下が……そのようなお言葉を……」
「……お前は、雇い主に魔王陛下のお言葉を伝える役目を担え」
「貴方の主を暗殺に来た暗殺者を、信じると? ――国家に弓を引いた者を?」
心の内が誰の目にも分かるなら、信じてもいいだろう。
けれど、そうではないのだ。
そして、今の自分が最早"病毒の王"を殺す気がなく、リストレア魔王国という国に揺るがぬ忠誠を誓っていたとして。
さっきまでの自分の決意も、揺るがぬと思っていた。
人は変わるもの。そして良い方に変わるとも限らない。
ゆえに結果で判断され……一度信用を失った者の『二度目』など、望み得ない。
「魔王陛下はそのように仰せになられた。……そして我らが主は、自分の首に刃を押し当てた暗殺者を副官に望み、自分を暗殺に来た者に忠誠を誓われるような馬鹿者だ」
「……は?」
今、なんと言った?
彼は適切な言葉を探し……見つけられなかった。
「いや、それはジョーク……だよな?」
「すまないが、精神調整魔法を使いながらジョークを言えるほど、私は柔軟ではない」
そういえば……サマルカンドという護衛の上位悪魔は、差し向けられた暗殺者だったという。
"病毒の王"がドラゴンナイトを滅ぼした『褒美』として望み、くだんのデーモンは助命と引き替えに、"血の契約"により縛られた……と聞いていたが。
まさか、自ら望んで?
「ははっ……道理で、自分を囮にしてあの笑顔か……」
「……何の話だ? 暗号とこちらが判断すれば殺す」
「殺されてもいいから、言わせてくれ。……良い主を持ったな。自らの手の暗殺者を、心の底から信じていなければ、あのように振る舞えるはずがない」
「そうか」
視界の端を、何か赤い物がぴこりと動いたような気がする。
「主に陛下のお言葉を伝えよ……そしてお前の言葉を……」
それが何だったのか分からないままに、体重が消え、首に当てられていた刃も消える。
何も言われなかったが、たっぷり十秒待って振り返ると、何の気配もなかった。
白昼夢を見ていたような気すらする出来事だったが……弓の弦は切断され、放り捨てられたはずの短剣と矢もない。
半ばで切断された矢まで回収していく徹底っぷりだ。
見ると、"病毒の王"ともう一人の少女は、何事もなかったかのように、呑気にピクニックを続けている。
いや、実際――何事もなかった。
今はまだ、そういう事になっているのだろう。
「『何事もなかった』……今起きるかもしれなかった事も、もしかしたらこれから起こるかもしれない事も……全部そうするために……?」
もう一人の少女はやはり、今でもそうは見えないが、レベッカ・スタグネットなのだろう。
自分を容易く制圧した女暗殺者が精鋭であり切り札だったと思いたいが、もし彼女に邪魔されずとも、暗殺に失敗したのではないかと思ってしまう。
「ああ。少し……羨ましいな」
彼は、自分の主が悪い主だとは……今でも、思っていなかった。
ただ、何故"病毒の王"が、あれほどの非道を行えるのか、少し分かった気がした。
あれほど部下に慕われて……おそらくは部下を愛していて。
それらよりも名誉や誇りを重んじる気は、起きないに違いない。




