優しさと毒舌のバランス
目の前に広がる海は、寒々しくも美しかった。
水温は低そうだが、エメラルドグリーンの海の色はゆらゆらと微妙に移り変わり、見ていて飽きる事がない。
しかし、それほどに美しいものでさえ、見ているだけでは飽き足らなくなるのが、人間だ。
「――サマルカンド。周辺に危険な生物は?」
「おりませぬ、我が主」
「よし」
それだけを聞くと、私は靴と靴下を脱ぎ捨てて遠浅の海に入った。
冬の海なので冷たいが、装備は万全なので問題ない。魔法道具万歳。
浅いとは言え、膝下まではあるので、ローブが濡れないように二枚重ねてつまんでたくし上げる。
しかし水飛沫が掛かるのはこの際気にしない事にして、何年ぶりかも分からない海の感触を満喫する。
濡れた砂が、ゆっくりと寄せては返す波に合わせて動き、足下でうごめく感覚がたまらない。
「お前達も出るか?」
わふっ、という声が応える。
「いい返事だ」
つまんだローブの裾をばさばさと振って、『中身』を振り落とした。
ぞるり、ぞるり、とバーゲスト達が姿を現す。
足を海水に浸すバーゲスト達に取り囲まれた。
今日群れに加わったばかりの新しい子達が『混ざって』いるはずだが、いつもと、何も変わらない。
私はみんなの方を振り返った。
「みんなも一緒に遊ぶ?」
「悪いけどそこまでは海好きじゃないです」
「恐れ多き事にございます。また、周辺の警戒を怠る訳にはいきませぬので」
リズとサマルカンドは、首を横に振った。
「……アイティースは?」
「この二人に断られた時点で諦めろよ。……後、私は黒妖犬まだちょっと怖い」
言葉通り、アイティースの猫耳が、ちょっと伏せられる。
「え? この子達が?」
「マスター。私達"第六軍"の者は慣れましたが、アイティースの反応が普通です」
「カトラルさんは?」
「あの方の場合は……ちょっと特殊です」
言葉をぼかすリズ。
なお、あんまりにもいい笑顔だったので、カトラルさんに一匹預けて来た。
一匹でもかなり貴重なのだが、私以外にも、もし狩りを介さずに魔力供給を行って増やし、命令する事が出来る存在が生まれれば、その恩恵は計り知れない。
それは私の唯一性が失われるという事だが、それよりも、この国の未来の方がきっと大事だ。
私は元から、絶対的な存在でも、唯一無二の存在でもない。
それでも私は、この国に六人しかいない魔王軍最高幹部として認められているのだから。
「まあぼちぼち慣れ――」
バーゲストに、前から飛びつかれた。
両肩に足をのせ、抱きつくような恰好になる。
なお、結構勢いがついていて。
私はお話中で。
受け止めるだけの力はなくて。
当然のように私は、後ろに倒れ込んだ。
「マスター!」
リズが血相を変える。
私は幸い尻餅をついて倒れ込む事に成功した。
ぐしょぬれだが溺れてもいない。
「大丈夫……。もう、お前達。人は洗面器一杯の水で溺れられるんだからね? じゃれつくのは、相手とタイミングを見計らいなさい」
しゅん……とした風に、一斉に耳を伏せ、尻尾を股の内にしまい込むバーゲスト達。
「分かればいいんだよ。悪戯してくれるのも嬉しいけど、ほどほどにね」
ぽんぽん、と手近な子の首筋を叩く。
嬉しそうに尻尾が振られるのを見ると許せてしまうのは、どうしたものか。
自分が群れの最上位に向いていないのではないだろーかと思うのはこういう時。
「――っくしゅんっ!」
不意にくしゃみが出る。
ある程度防寒機能があるとは言え、本格的な魔法、具体的に言うなら"冷気耐性付与"を使っていない状態で、冬の海に浸かって下着までぐしょぬれになっていれば、くしゃみの一つも出るだろう。
「我が主。お手を」
サマルカンドがじゃぶじゃぶと歩み寄ってきて、手を差し出す。
「んー、悪いねえ」
「いえ。我が主のお役に立てることが我が喜び。どうぞ遠慮なくお頼り下さいませ」
私が伸ばした手が優しく取られ、絶妙な力加減で引き起こされながら立ち上がると、その途中でふわりと抱き上げられた。
「おお、一部で憧れのお姫様抱っこ」
「我が主が姫の国があれば、その国の民は幸せでしょうな」
「それはどうだろう」
名君になるか暴君になるか、実に紙一重。
「マスターも……そういうの憧れるんですか?」
「うん。リズをお姫様抱っこしてみたいねえ」
「な、何言ってるんですか!」
「ただの願望を口に出してるだけだよ。でもちょっと腕力足りないかな? 身体強化魔法入れればいける?」
「……大丈夫だとは思いますけど」
サマルカンドに砂浜の上に下ろして貰い、さらに『魔法』を掛けて貰う。
「"保護"、"保護"、"保護"、"保護"」
"保護"は、私が"浄化"と並んで最強と認識している日常生活用魔法の一つだ。
平たく言えば、素材が損なわれない個別冷凍スキル。
変化を防ぐ、という意味では防御魔法の一種とも言えるが、衝撃などの物理的ダメージで一気に魔力を消費する一面があり、食料や美術品に使用されるのが主な使い方だ。
これのおかげで、冷蔵庫や冷凍庫の発明が遅れているのではないか、と思っているぐらいには便利な魔法だ。
しかし、「うっかり更新忘れて"保護"切らした……」「落としたら"保護"消えてぐちゃっと……」とかいう事例はなくならないので、技術の進歩では台所から悲劇を根絶する事は出来ないのかもしれない。
所詮技術とは、人が使うものなのだから。
ちなみに、人間国家においてもそこそこ普及しているが、一般家庭普及率が限りなく100%に近いリストレアほどではない。
さらに、"第六軍"の攻撃目標の一つが、『"保護"持ち』なので、リアルタイムでじわじわと、人間国家での普及率は下がっている。
"病毒の王"は都市部では活動していないと思われているが、都市部での被害者は最低限に抑え、かつ、なるべく事故死や、通常の犯罪に見せかけているだけだったりする。
『重要人物』ではないので、特別視されないだけだ。
元々一般庶民が暮らしやすい世界でもない。ことに、力のない人間が幸せに苦労なく生きて行くには、人間国家は随分と辛い環境だ。
半分は、"病毒の王"のせいだが。
今四回唱えられたのは、ローブ二枚と、下着二枚の分だ。
"保護"という保険を掛けた上で、サマルカンドの手が触れないギリギリにかざされ、どの魔法を使っているのかよく分からないが、水分が蒸発させられていく。
敵に使う場合は多分、"火球"辺りを叩き込んだ方がいいのだろうが、やろうと思えば相手をカラカラのミイラに出来そうな気がする。
少し先の濡れた、髪を乾かす時はダイレクトに乾燥させるのではなく、温風を当てるきめ細やな心遣い。
サマルカンドはデーモンという種族特性もあるが、魔力制御が上手いので、攻撃魔法以外もかなり得意なのだ。
……とても贅沢なドライヤーとしての使い方は、上位悪魔への冒涜のような気もするが、本人が嬉しそうなのだからまあいいか。
「"浄化"」
仕上げに唱えられた、清潔を保つだけの魔法。
その『清潔を保つだけ』の魔法の普及率が、種族としてダークエルフや獣人が頑健であるという事を差し引いても、庶民の死亡者数を大きく分けていると思う。
……もしもこの世界が、人と魔族に分かれていなかったら、戦争で死ぬ以外にも、死ななくてよかった人が沢山いるだろう。
種族が入り乱れた国家同士で争う世界と比べて、最終的にどちらの死者が多く、どちらの世界が幸せだったかなんて……私には分からないけれど。
今の世界を認める気には、なれない。
バーゲスト達は自力で、少し離れた所でぷるぷるし、多分魔力で残りを乾かしたさっぱり姿で私の元に寄ってきた。
「……でもマスター、もうちょっと落ち着いて下さいね」
私が一通り綺麗にされた所で、リズがため息をつく。
私は首を傾げた。
「私から勢い抜いたら、何か残る?」
「どんだけ勢い重視なんです」
「どんだけ勢い重視なんだよ」
リズとアイティースが、ほとんどハモった。
二人が顔を見合わせて、苦笑する。
「我が主にとって勢いなど、ただの一要素に過ぎませぬ。作戦は大胆にして細心。部下を慈しみ、階級の垣根など感じさせぬ親しさで接し、慕われております」
「物は言い様だね」
「物は言い様だな」
今度は私とアイティースが、ほとんどハモった。
お互いに顔を見合わせると、アイティースは呆れ顔だった。
「本人が言うなよ」
もっともだ。
そこでリズが、視線をそらした。
そして呟くように言う。
「……あんまり、部下を心配させないで下さいよ」
「――嬉しい事言ってくれるね!」
バーゲストにならって、飛びつくようにリズに抱きつく。
しかしさすがリズ。私を軽く抱き止めて見せた。
「……うん。サマルカンドに言われたみたいな主になれるよう、頑張るよ」
「それはちょっと無理じゃないですかね」
つくづくリズは、優しさと毒舌のバランスが絶妙だと、思うのだ。