悪魔の忠誠
「――サマルカンド」
「はっ……」
目の前に片膝を突いてひざまずく、黒山羊の頭をした悪魔――サマルカンド。
黒い体毛に覆われていても分かる、盛り上がった上半身の筋肉。
頭と下半身は山羊のもの。尻尾もだ。
人間とは違う、異形。
"病毒の王"の……私の暗殺に来たのは、つい一週間ほど前の事。
しかし、今は"血の契約"で結ばれた、私の忠実なる従僕だ。
とん、と騎士叙勲風に、杖で彼の肩を叩く。
片膝を折った状態でなお、少し腕を上げなくては届かないほどの長身だ。
「お前に、"病毒の王"陣営の序列第三位を与える。以後、護衛班に所属する事となる。いいな?」
正式な所属が決まるまで、一悶着あった。
反対意見を大雑把にまとめると、『未遂とはいえ、最高幹部暗殺の実行犯を野放しにするのか』というもの。
これらに対する私の反論は以下のようなもの。
未遂であり、最終的には自らの意志で反逆を拒否した。
現在は"血の契約"を結び、完全に従属している。
しかし最後は"ドラゴンナイト"壊滅という戦功と、その『ご褒美』を盾に強引に押し切った形となる。
"病毒の王"にどんな褒美が与えられるのか、と動向を窺っていた層を、安心させる狙いもある――とはリズ談。
「光栄の極み。我が主に頂いたこの序列と職務に恥じぬよう、万難を排する事を誓いましょう。私の全ては貴方のもの。どうか我が永遠の忠誠をお受け取り下さい」
「……サマルカンド。重い」
「マスター。こういうの一応儀式ですから」
リズが口を挟む。
「あ、ごめん」
軽く咳払いして仕切り直し。
「――お前の忠誠を受け取ろう、サマルカンド」
黒山羊さんが、恭しく頭を下げた。
「ええと、これで終わり?」
「まあ、形式的なものですからね。サマルカンドは"血の契約"も済ませてますし……」
サマルカンドが、顔を上げて、私の瞳をまっすぐに見つめる。
「我が主。私が恐れるのは、我が主の寵愛を得られぬ事のみ。我が主の望む全てを口にお出し下さい。全能力をもって、我が主の願望を叶えましょう」
「それ、魂を代価にしろとかいうやつ?」
実に悪魔らしい――と思ったのは一瞬だった。
「強いて言えば、代価は私の魂ですな。"血の契約"を交わした瞬間から、私は貴方に奉仕するための存在です」
「待ってサマルカンド。重い。重すぎる。儀式終わったって分かってる?」
「分かっておりますが?」
黒山羊さんの瞳――少し、見慣れた瞳。
ご丁寧に首をかしげているので、伝えたい事は分かる。
それは分かるんだ。
つまり、『何を問われているか分からない』という疑念の表明。
日本で生きていれば、一度も使わないだろうし、使われないだろう言葉を連ねた宣言を『重い』と言ったら『何言ってるか分からない』と言われた。
自分でも何を言ってるんだか分からない。
「今さら聞くのもなんだけど、なんでサマルカンドはそんなに重いの?」
「……重い、ですか?」
おや、一般常識が心配になってきたぞ。
「確かに人間の感覚では……私の言葉は、大袈裟に聞こえるかもしれませぬ」
「……うん」
大袈裟というか、大仰というか。
「ですが、私はそれしか持ちませぬ。私には私一人分の能力しかない。――ゆえに、私は、私の命と能力を全て貴方のために使うと決めた」
「ごめん。『ゆえに』のところで理屈が飛んでる。もう少し丁寧に説明してくれる?」
サマルカンドが、しゅんとしたようにうなだれた。
「我が主に理解されぬ言葉を使うとは愚の極み。ですがどうか、言葉を足す事をお許し下さい」
「……うん、許す。許すから続けて」
本当はこの言葉にも色々言いたい事はあるのだが、とりあえず本題を優先する。
「我が主は、悪魔の事をご存知ですか?」
「……よくは……知らない。一般的な事しか」
悪魔。
強大な力を持つ。
特に魔法的な力に優れ、例外なく最強クラスの魔法使い。
長い寿命。強靱な肉体。
全体的に人型をしつつも、サマルカンドのように一部が獣のもの、頭が獣の骨のようであるもの、蝙蝠のような羽を持つものなど、姿形は一定ではない。
私が知っているのは、そういう一般的で、表層的な姿でしかない。
「ご存じですか? 悪魔には、子供はいないのです」
「……どうやって増えるの?」
サマルカンドは、軽く頭を左右に振った。
「我らにも分かりませぬ。案外、不死生物のようなものかも知れませぬな。どこか、怨念やら魂やらが溶け込んだ魔力溜まりから、自然発生しているのかも……」
生まれ故郷を、知らない種族。
いや、生まれ方さえ、知らないのだ。
「ただ、ある時からの記憶がある。時間を経るごとに力は増し、戦いを経るごとに経験を得る。上位悪魔に厳密な定義はございませんが、力を蓄えた者の総称とお考え下さい。寿命のようなものもありますが……竜族と双璧を成す長命種族です」
「その辺は、聞けば聞くほど羨ましいねえ」
「それは、隣の芝は青い……というやつでしょう。親もなく、子も成せぬ。過去も未来もない種族です」
嗤った……のだろうか。
黒山羊の口元が薄く開けられ、ため息に似た吐息が漏れる。
「横の繋がりも、薄い。同じ虚無感を知る者同士の連帯感といった程度のものしか、我らは同族に感じていない。『同族』かどうかすらも分からぬのですからな」
私は、この国で唯一の人間だ。
種族が絶対とは、思っていない。
けれど、種族で共感する感覚は、よく分かる。
血を分けた妹へ対する気持ちも、知っている。
――それが、彼らには、ないのだ。
「だから我らは、目的を欲します。主人を欲します。友人を欲します。従者を欲します。どのようなものでも、この世界に存在した証を残したいと願い、生きている間の繋がりを望みます」
山羊の、横三日月の瞳が、私をまっすぐに射抜く。
「私は……主を見つけた。仕えるに足る方を。全てのお言葉に頷いてなお、疑いなき方を」
「……私、そんなにいい主じゃ、ないかもよ」
彼の言葉に、嘘がない事は分かる。
"血の契約"は、契約者の主への虚偽を許容しない。
嘘をつけばそれが伝わる。
真実を語れば――それが、伝わる。
「私は運命を感じた。それで十分です。とうに預けた命。お好きなようにお使い下さいませ」
「だから自分を大事にしなさいってば……」
本心で言ってるのが分かるのが問題かも。
「――しております」
なのに、この黒山羊さんは満足そうに口元を緩めるのだ。
「自らの心に従わぬほど、愚かな事はありませぬゆえに……」
「……そう」
この胸に満ちる、熱いものが。
恐ろしく重い、絶対的な忠誠が。
人間の一生よりも長い、デーモンの一生を、捧げられる事が。
怖い。
「頑張るよ、サマルカンド。お前の主に相応しいように」
私は、きっと彼の信じるような主ではない。
私は、ただの人間だ。
当たり前に生きてきて、その当たり前を全てひっくり返して、非道に振る舞う事を決めただけの。
でも、このひとが、これほどまでに私を信じてくれると言うのならば。
私も、彼が信じた私を、信じてみたい。
これでも、伊達に"病毒の王"を名乗っているわけでは、ないのだから。