レイリットンの海
私は、リストレア魔王国の最南端にいた。
「海だ――!」
とりあえず、海に向かって両手を広げて叫ぶ。
夏の海でこそないが、この世界に来てから初めて見た、海なのだ。
叫ぶ言葉は、「海のバカヤロー!」と迷ったが、別に海に恨みはないのでその言いようはどうかと思い、そちらは叫ばない事にする。
北の方はこの季節だとまだ、波打ち際以外は雪が積もり、凍った海の欠片が打ち上げられるほどだと言うが、ここは砂浜が見えているし、見える限りに雪が積もっているのは、リタル山脈だけだ。
ここはリストレア魔王国最南端の都市レイリットンにほど近い砂浜。
――私達以外には、誰もいない。
既にレイリットンの街に立ち寄り、番犬として飼育されていた黒妖犬を五匹、受け取っている。
持てあましていたらしく、歓迎された。
「マスター、テンション高いですね……」
振り返ると、リズが私を少し呆れた目で見ていた。
私の視線の先にいるのはリズとサマルカンド、それにアイティースだけだ。
レベッカとハーケンは屋敷に戻っているので、現在屋敷の不死生物率が100%。
私達をここまで乗せて飛んでくれたグリフォンのリーフは、軍の厩舎で馬と並んで休息している。
「私の故郷……島国だったから。海……が、身近に……」
頭を押さえる。
過去の事を思い出そうとすると、時々、どこまでが自分の記憶で、どこまでが単に写真や映像を見ただけなのか、分からなくなる。
「……あったのかなあ?」
「いや、聞かれても分かりませんよ」
「……島国?」
アイティースが呟く。
そういえば、この世界に『島国』はない。
海に生息する魔獣の危険度が高すぎて、無人島しか存在しないのだ。
「ねえリズ。機密?」
「まあ……そうですね」
私は笑顔をアイティースに向けた。
「アイティースが私と仲良くなりたいなら、機密教えるよ!」
「いや、遠慮する。お前のプライベートとか心底どうでもいい。後、機密をなんだと思ってるんだ馬鹿野郎」
「リズ……アイティースが冷たい……」
「いや、正論だったと思いますよ?」
リズもまた、正論を吐く。
「正論だけの世界って寂しいじゃない」
「……まあ、それはそうですが」
リズが、渋々といった風に頷く。
まあ、正論と、正論をガン無視した妄言を使い分ける主を持てば、その反応も仕方ない。
海に目を戻すと、冬という事を差し引いても、寒々しい光景が広がっている。
長い砂浜には人がいないし、海にも船の影がない。ただ、人工物のゴミは打ち上げられていない、綺麗な砂浜だ。
海の汚れていない、世界。
「今が夏だったらな……それで、この海がもっと大海蛇なんかの危ない生物がいない、安全な海だったら……」
「今より漁が盛んだったかもしれませんね。ここらは遠浅で、いきなり深くなるので、大海蛇に襲われる可能性がある現状、漁場としては適しておりませんが……」
ほどほどの深さの海が、この世界の漁にとってベストだ。
次点で、岩礁が多く大型の海棲生物が侵入出来ないような海岸沿い。
確かに見る限り、ここは遠浅の海だ。
遠い所はもう少し深そうだが、近場は、膝まで海に浸けるのが精一杯の水深しかない。
しかしその条件は、海を楽しむビーチとしては決して悪くない。いや、むしろそこがいい。
まず危険なレベルの海棲生物はここまで来ないだろう。幼い子供のいる家族連れでも安心だ。
海を楽しむような余裕は、まだこの国にないけれど。
平和になったら。
遠い目で、彼方の水平線を見る。
「人類絶滅させれば、ビーチできゃっきゃっして戯れる、水着の妖精達が見られるかな……」
ちなみにこの世界に、種族としての妖精は確認されていない。
「なあ、どういう意味だ?」
「アイティース。実を言うと、うちのマスターの言ってる事は、たまに私にも分かりません」
「副官なんだよな?」
「仕事の補佐と護衛、お目付役と、日常生活の世話以上の事を副官に求めないで下さい」
「なんか多くないか? 特に日常生活の世話とか」
「多いですよ。でもまあ、副官の仕事は各軍それぞれですしね」
「だよねえ。でもアイティース。自分のとこと違う部署での仕事を経験するのも、大事なんだよ」
「それは分かるんだけどさ」
アイティースが真顔になる。
「お前のとこはおかしい気がするんだが気のせいか?」
「否定はしない」
「否定して下さいよ」
「リズは否定してくれるの?」
「……ノーコメントで」
それはつまり、否定出来ないという事だ。
「アイティース殿も、いずれ分かるのではないか。我が主は『おかしい』かもしれぬ。だが、そのおかしさこそが、我らが"第六軍"にとって……いや、リストレアにとって、かけがえのないものだと」
「そりゃこいつは、"病毒の王"で、非道の悪鬼で、戦功を積んでるんだろうけどよ……」
アイティースの言葉に、サマルカンドは首を横にゆるゆると振った。
「そのような些事ではない。我らがこの方に付き従い、敬い、慕うのは、この方が戦功を積まれたからでは、ないのだ」
私はうちの黒山羊さんの言葉に苦笑した。
「……お前は優しいねサマルカンド」
「我が言葉に主の言う優しさがあるとすれば、全て、我が主より頂いた物でございます。……この身を呪った事がある。生まれ落ちた意味さえ分からぬ、悪魔という存在である事を……」
「……サマルカンド?」
彼の言葉に、常にない暗さが混じり、私は不安になった。
「昔の話です、我が主」
彼は、私の不安を感じ取ったのか、安心させるように微笑む。
「我が尊きお方のお言葉が、我が眼の曇りをぬぐい、我が心の迷いを払って下さった。道具ではなく、部下としてお仕えする事を許して頂けたゆえに」
重い。
けれど、その一言で切り捨てる事は、出来ない。
彼はそれだけの闇を見てきたのだろう。
辛い時に受けた優しさの重みを、私はよく知っている。
だから私は、人類という種族を滅ぼす事に決めたのだ。
……リズに言われた『サマルカンドより重い』という言葉が実感を伴いつつある、今日この頃だ。




