薄暗がりの刃
私に手を伸ばしたサマルカンドの腕に、ナイフが突き立った。
さらに全身に、ほとんど全方位からの投げナイフが飛ぶ。
サマルカンドが身を引きながら、湾曲した刃を持つ黒い大鎌を手元に召喚しつつ、それでナイフを弾き飛ばす。
それでも防ぎきる事など出来るはずもなく、全身に十数本のナイフが突き立ち、赤い血が流れていた。
その血が止まった。
黒い体毛の端が、ほどけていくように白く淡く揺らぐ。
短い山羊の角が、長く、禍々しく、ねじくれたものへ変わる。
横三日月の山羊の瞳が赤く輝き、ナイフがばらばらと床に落ちた。
物質魔法だったのか、床に落ちたナイフが光の粒子となって消えていく。
「ドブネズミめ……」
音もなく、私の前にリズが現れた。
露出度の高い、というか防御力ゼロの暗殺者装束。
焦げ茶のレザーと薄茶のベルトで、自らを拘束しているような装備だ。
いつもの赤いマフラーを、後ろに流すのではなく、両腕に巻き付けている。
それぞれの手に左右でデザイン違いの格闘用ナイフを握り込む。
"薄暗がりの刃"の二つ名に相応しい、惚れ惚れするようなアサシン姿だった。
「我が主への敵対を、死をもってあがなえ」
抑制された憎悪が込められた言葉を淡々と吐き捨てると、彼女は右腕を伸ばし、ナイフの切っ先をサマルカンドの心臓に向けた。
「魂すら、残さない」
「――待って! リズ!」
「マスター。……怪我の深さは?」
ナイフを微動だにさせないまま、ちらりと私に視線を向けるリズ。
光のない瞳。完全に感情を抑制した、暗殺者の目だ。
「不手際を。四秒下さい。片づけます」
四秒?
上位悪魔を?
「その後で、すぐに止血します」
すっと視線を戻すリズに、慌てて叫んだ。
「待って待って! 大丈夫、怪我してない!! これ、そこの悪魔さんの血だから」
「血の呪い? ……操ろうとでも? マスター、腕の良い解呪師を手配します。今しばらくご辛抱を」
「そうじゃなくて」
「既に操られて……? マスター。なるべく抵抗を」
「いや、抵抗するまでもないというか」
「口以外動かないのですね。――術者を仕留めます」
リズが一つ頷くと、その姿が僅かにゆらめいた――
「サマルカンド。おすわり!」
「はっ」
サマルカンドが即座に命令に従う。
瞳の輝きも、体の揺らぎも消し、片膝を突いてひざまずいた。
「……はい?」
リズが、間の抜けた声を上げる。
「リズ、聞いてくれる?」
「ええ。状況説明を」
「あのね、暗殺に来たんだけど、やめたんだって」
「我が主の高潔さと、器の深さに惚れ込んだゆえです。"血の契約"を結びました。今の私は、生死さえ、この方のもの」
サマルカンドが補足する。
「……え?」
何を言ってるんですかこのマスターは? とでも言いたげな視線。
「あの、待って下さい。この、どう見ても上位のデーモンを?」
「四秒で倒すとか言ってなかった?」
「それは出来ますけど、そうじゃなくて」
やっぱり出来るのか。
うちの副官さんが有能な暗殺者すぎる。
「あ、立っていいよ」
「はい」
立ち上がったサマルカンドが、恭しく頭を垂れた。
臣下の礼だ。
「……あの、マスター、あまり人間離れした事しないでくれます……?」
「いや、今日のは不可抗力だと思うんだ。お話してたらいつの間にかね?」
「暗殺に来た暗殺者とのんびりお話なんてしてる方がおかしいって事に気が付いて下さい」
「いや、別にのんびりとは……」
「泰然としておられました」
「ほら」
「サマルカンド。それ多分逆効果」
「申し訳ありません。処罰を」
「それはいい。私の部下になったっていうなら、身体は大事にしてね。お休みとか給料とかの相談はまた今度」
「休息も給料も要りませぬ。存分に使い潰して下さい」
ブラックすぎる。
「あのね……いや、命令だ、サマルカンド」
語調を強めて、刻み込むように言う。
「私のためにその命を使おうというなら、相応の使い方をしろ」
「――はっ」
「……まあ本当みたいですね。ええと、サマルカンド?」
「はい、"薄暗がりの刃"、リーズリット・フィニス様」
「とりあえず尋問です。目的から背後関係まで、洗いざらい吐いてもらいますよ」
「拷問はやめてね」
「そのような事は必要ありませぬ。知っている限りをお話しします」
「一応命令して下さい」
「サマルカンド、正直に話してね」
「御意」
「その前に、リズ、お風呂入っていいかな?」
まだ頬に血は付いたままだし、寝間着は冷や汗でじっとりと濡れて気持ち悪い。
「あ、はい。風呂場と、風呂場までのトラップ解除してきますね」
リズが、サマルカンドへ厳しい視線を向ける。
「――サマルカンド。とりあえず私からお前への評価は保留です。これからの働きを見て決めますよ。妙な真似をすれば殺します」
「勿論です」
「ではマスター、準備してきますのでお待ちを。普通のお湯でいいですね?」
「うん」
「では。部屋の片付けは入浴の間に済ませますから、そのままにしといていいですよ」
私の命令に従って、隣で伏せたままのバーゲストの頭を撫でる。
「バーゲストお風呂に入れていい?」
「一匹までですよ」
リズが立ち去る。
なんだかんだ言って、サマルカンドと二人きりにする辺り、一応は安全と判断したのだろう。
「我が主。入浴されるとの事ですが、ひとまず頬の血をお取りしましょう」
「あ、うん」
おおきくて短い毛の生えたてのひらが頬を撫でると、乾きつつあった血の感触が綺麗に消えた。
「ええと、サマルカンド」
身を引いたサマルカンドに、声をかける。
「これから、よろしくね?」
「はい。我が主」
山羊の口元が、ゆっくりと引き結ばれた。
きっと、今、この黒山羊さんは笑ったのだ。
とりあえず、夜寝る時の心配事はちょっと減るかもしれない。