"旧きもの"
魔王陛下が、後ろに、"旧きもの"を引き連れて、入室した。
"旧きもの"――"第五軍"の軍団長だ。細長く黒い巨体に、四本角の山羊らしい頭骨。眼窩の奥の暗い闇に橙色の鬼火が灯る姿は、デーモン達の長に相応しい。
リズは既に陛下の到来が告げられた時から、ソファーの後ろに控えている。
「陛下。"旧きもの"様」
私は立ち上がり、頭を下げる。
「面を上げよ、"病毒の王"」
対面のソファーに腰掛けた陛下の言葉に従って、顔を上げる。
「……すまなかったな。事の顛末は聞いておる。私もまた、信頼を言葉にする事を怠っていたようだ」
そして、入れ替わりのように陛下は頭を下げた。
「この通りだ」
「あ、頭をお上げ下さい陛下!」
慌てて、口を開いた。
なんか"旧きもの"様から怖い視線を向けられてるし。
頭を上げた陛下に、しどろもどろになりながら釈明する。
「――今回の事は、私の不徳の致す所と申しましょうか……その……」
実際どこまで伝えられているのかが分からず、言葉に詰まった。
「"第六軍"の長の地位も、"病毒の王"の名も、確かに、目立ち、囮になるためにとの言葉を受け入れて、与えた物……それは事実だ。当初は、死んだらそれまでという気持ちがあった事も……否定はせぬ」
わあ正直。
「だが、そなたは自らの価値を示して見せた。余人の及ばぬ功績を積んで見せた。与えられた立場の中で、自らの命を懸けて、だ」
とくん、と胸が高鳴る。
「今や、この国になくてはならない存在と思っておるし、信頼しておる。これからも危険はあるだろうが……それは、処刑などではない。リストレア魔王国の国王として誓おう」
胸の熱さに、喉が詰まって、涙が滲みそうで。
私は目を伏せた。
「はっ……光栄で……あります」
情勢が変われば、どうなるか分からない。
この人は――王だ。もしかしたら自分よりも前にリストレアを置く、為政者だ。
そんな冷静な思考が、吹き飛ぶほどの熱量。
……このような方だから、私のようなひねくれものを重用して下さるのだろう。
少なくとも今の所、契約を違えられた事もない。
……地球では、『理想の上司』などという比較対象が思い浮かべられないぐらいには、上司運が良いとは言えなかったような……そんな気がするのだけど。
――こういう人が、理想の上司なのだろうか。
陛下が微笑まれた。
「言葉に詰まるそなたを見たのは、初めてだな。初対面でさえ、実にすらすらと『三年で人類を絶滅させてみせる』と宣言した者とは思えぬ可愛い姿だ」
男の上司に言われたらセクハラっぽい言葉だが、不思議と嫌な気分はしない。
いや、私が言えた義理ではないのだけど。
ところでなんか、ぴりぴりする。
うなじのあたりというか。
肌というか。
全身というか。
第六感というか。
もっとダイレクトに、視線というか。
視線の方向に目を向けると、"旧きもの"様が私を見ていた。
橙色の鬼火が、山羊の頭骨の暗い眼窩の奥で細められ、私に向けられている。
――どこかで、感じた事がある。
懐かしささえ、感じさせる感覚。
私はこの感覚を感じた事がある。
戦争をしていない世界で……私の生きてきた世界で。
地球の現代日本でも、この感覚を、感じた事がある?
思考は一瞬。
最善かは分からないが、覚悟を決めた。
「陛下。"旧きもの"様と二人きりで話をさせていただけないでしょうか?」
「私は構わぬが……そなたはどうだ?」
「構いませぬ……」
重々しく、鷹揚に頷く"旧きもの"様。
「そうか、では、隣室にいよう」
「リズ、陛下に必要な報告を」
「はい、マスター。分かりました。では陛下、あちらで……」
「うむ」
リズに促されて、陛下が隣室へと移る。
パタン、と扉が閉じた。
これで、二人きりだ。
「して、何用か?」
ソファーに座る事もせず、大上段に構える"旧きもの"様。
「"旧きもの"様って、女性だったりします?」
「……………………」
長い沈黙。
あ、死んだかな、と不安になった辺りで、"旧きもの"が口を開く。
「何故、分かった……?」
「同性だから……でしょうか?」
「今まで同性でも、そうと気付いた者はおらぬ。重ねて問おう。――何故、分かった……?」
「その質問に答える前にもう一つお聞きしたいんですが、"旧きもの"様って、陛下と恋人同士ですよね?」
「……………………」
また長い沈黙。
やっぱり詰んだかな、と不安になった辺りで、"旧きもの"が口を開く。
「呆れた洞察力だな……そうだよ。それも何故、と問わせてもらおう」
「いえ、以前似たようなシチュエーションで感じた視線とそっくりだったもので」
私は、地球の現代日本基準で、結構可愛い方だ。
性格を含めると男の子に好かれるとは言いがたいが、全く恋愛対象と見ていなかったゆえの距離感を誤解され、彼女さんに勘違いされたりとか、そういう事もあった。
その時に感じた視線と敵意と、そっくりだったのだ。
「あなたが女性で、陛下と恋人同士って考えると、陛下の雰囲気も納得だなって」
「陛下の?」
「部下や戦友の信頼感……って言うには、気安さみたいなものを感じて。古い仲間だからかとも思ったんですけど」
「……正解だよ。全て正解だ。私はあの方の部下であり、戦友であり、仲間であり……将来を誓った恋人というやつだ」
"旧きもの"が深いため息をついた。
「本来は、他人に話すような事ではない。だが、聞いてくれるか。同じ最高幹部……いや、ただ、同じ女として」
「私でよければ」
「お前がよいのだ。四百年、誰にも話した事がなかったが……お前になら、話してもよいと思った」
"旧きもの"の姿が、変わる。
ドッペルゲンガーのような、瞬きをすれば見損なうほどに素早い変身ではなく、今もこの瞬間に身体を作り替えているような――圧縮しているような、生々しい変身だ。
それでも、ほんの数秒で、二メートルを超え、三メートルに迫ろうかという伸び上がる影のような姿が、身長こそ百八十センチ程度と高いが、むしろ細身の女性へと変わる。
元の姿を意識しているのか、黒く細長い毛の毛皮をまとった、褐色肌でスタイルのいい美人さんがそこにいた。
同じ肌の色でも健康的なリズとは違い、ダークで妖艶な雰囲気。
肌の色だけ見ればダークエルフのようだったが、耳はサマルカンドで見慣れた黒山羊のもので、四本の山羊角が、長い黒髪を割るように生え出でている。
ソファーに腰掛けると、ギシリとスプリングが軋む音がした。
灰色のミニスカートから伸びる、すらりと長い足を組む。
橙色の鬼火が今も灯るような、オレンジがかった金色の瞳。
「こちらの方が、話しやすかろう」
変わらず尊大な口調に、ハスキーな声が似合う。
「――改めて、自己紹介しようか。私は、"第五軍"最高幹部、"旧きもの"――真名は『リストレア』」
親も、兄弟も、何もかも持たぬ悪魔が、唯一生まれながらに持つもの。それが、名前だ。
しかし言い換えれば、それは名前さえ他人からは与えられぬという事。
悪魔の真名は、合意による契約時にしか意味を持たない。
契約者を主人と従者に分け、従者に絶対服従を強いる"血の契約"は極端な例だが、悪魔は信頼すべき基盤を持たぬゆえに、魔法的な契約という形での絆を好むとは、サマルカンドの言だ。
名前を知れば、デーモンと契約出来るわけではない。
戦いにおいて、何か有利になるわけでもない。
けれど、真名を名乗らない悪魔も多く、その場合信頼出来る相手にだけ名乗るというのが一般的だ。
彼女は今、名乗ってもよい程度には私を信頼して、真名を明かしてくれたのだと思う。
しかし、今私の目を見開かせたのは。
「……リストレア?」
それは、この国の名前だった。




