信仰の残骸
生き残ったのは、三十名に満たなかった。
雪崩に流され、冷え切った身体に鞭打って、生き残りを探す作業は、早々に中断された。
その内の一人が、倒れたからだ。
助かった自分達もまた、犠牲者になる。
助かったのは奇跡であって――神の加護などでは、ない。
ここに留まれば、神の御許に召される。
そして、山を下りられたのは、二十名に満たなかった。
「……では……神聖騎士団は……"福音騎士団"は……?」
神聖王エトガルド十四世は、十も老け込んだようだった。
遠征軍唯一の、兵士階級の生き残り――信頼の厚い門番だった――の男の報告を聞く度に顔が青ざめていき、皺の数が増えていくような錯覚さえ、その場にいる者達が覚えるほどだった。
王の震え声とは、対照的な冷静な声が応える。
余りにも冷静すぎて、平坦な声だった。
「分かりません。申し上げた通りの、大雪崩です。その上、完全に待ち伏せされておりました。生き残りはいたとして、捕虜以外にはいないでしょう。……そんなものがいるとは、思えませんが」
人間の方でも、捕虜など取っていないのだから。
あの非道の悪鬼に率いられた軍勢が、捕虜など取るはずもない。
「天使様と、聖女様は? ――神は? 何をなされて……」
「詳しい事は分かりません。おそらく、あれは"病毒の王"の駒です。私達は皆、騙されたのでしょう」
言葉を失った神聖王に代わり、居並んだ貴族の一人が、一歩前に出て叫ぶ。
「何を、他人事のように言っておるか! お主があの者を聖女であると、強く主張したのであろう!? ――まさか、通じておったのではあるまいな……!」
「そうであれば……よかったですね」
彼は、微笑んだ。
「貴様っ……!」
「私は……"病毒の王"を見ました」
「な……に?」
「声も、聞きました。嘲りの声……人を人と思ってもいない、いえ、虫の脚をもいで遊ぶような残酷さ……? 悪魔などではない。そんなものではない。魔族であるとさえ、信じたくない。――あれが! あんなものが、私達の敵だと……!?」
冷静さが仮面のように剥がれ落ち、頭をガリガリと掻きむしる。爪が食い込み、血が流れ、引っ掛かって引きちぎれた髪がばらばらと舞う。
「お、王の御前で……」
儀仗兵が声を上げかけるが、あまりの有様に、尻すぼみになった。
誰もが一言も発せない、重苦しい沈黙が謁見の間に落ちる。
「神などいない! あれに殺された!! 天使などいない! 全ては偽物だった!! 聖女などいない! 全て……まやかしだ……」
ぼたぼたと赤絨毯に大粒の涙をこぼしながら、全身を折る。
床に額をこすりつけるように、彼は悲痛な懺悔を止めなかった。
「殺して……下さい。私は信じた……。あんなものを……差し出されたものを、ただ、それが美しく、綺麗な言葉を話してるというだけで……天啓でも受けたように……」
沈黙が、さらに重苦しいものになる。
お互いに目を合わせず、ばつの悪い顔でうつむいた。
この場にいる皆が、その天啓という名の幻想を共有したのだ。
疑り深い者も、天使の存在があらゆる魔法で暴けず、精神魔法もクリアしたと聞かされて、かえって熱烈な信者へと変わった。
神が御使いを遣わし、天啓を授けられたのだと。
国中が熱狂し、驚くべき速度で進軍し、この速度ならば敵軍の展開は間に合わぬだろうと、皆が勝利を確信した。
理性ある者は、いずれ敵地で孤立して包囲殲滅されるだけだと苦い顔をしたが、その中でも一部の者は、その前に魔王の喉首に手が届くとさえ分析したものだ。
それほど最高のタイミングで、最高の戦力を叩き付けたはずだった。
だが、帰ってきたのは、彼一人も同然。
道中で多くが別れたという民兵が数人残っていたが、生き残り全てを合わせても、二十人もいなかったという。
つまり、神聖王国の最高戦力を含む十万以上の軍勢が、全滅させられたのだ。
"病毒の王"の手によって。
「……休むがよい。そなたの責任ではない。まだ聞きたい事も多い。下がって、ゆっくり休むのだ……」
「王よ……はい、はい……」
ずるずると身体を引きずるように起こし、近衛騎士に支えられるようにして退室する。
「どうか……我らの……無念を――どうか……」
退室する寸前にこぼれたような言葉が、皆の胸の内を、より一層重い物にした。
「……宮廷魔法使い殿。"病毒の王"が唱えた、"雪崩"という魔法に、聞き覚えは?」
「ございませぬ……」
国王に名指しされた宮廷魔法使いが、ゆっくりと首を横に振る。
"病毒の王"が詠唱した呪文によって引き起こされた大雪崩で、十万の軍勢が瓦解したというくだりでは、宮廷魔法使いも、将軍も、顔が青くなった。
悪魔も、ダークエルフも、人間よりは魔力量が多いだけで、使える魔法に違いはないと思われていた。
もし、そうではないのだとしたら。
一発の魔法で大軍が瓦解する悪夢が、今後も繰り返されるとしたら――戦争など狂気の沙汰だ。
「ただ……そもそも、あれほどの大軍が、厳冬期に山越えをしようとした事例自体がありませぬゆえ……」
「あれは、どれほどの魔力を持っているのだ? 何故、民ばかりを狙う……?」
「力のないゆえ、だと思っておりました……が、違うのかもしれませぬな」
神聖王国の上流階級の間では、"病毒の王"とは害虫のような存在であると、思われていた。
農村への攻撃に徹しているのが、その証拠ではないか、と。
「お主は、雪崩を起こして、十万の大軍を滅ぼせるか?」
「……不可能、でしょうな。魔力の尽きるまで"火球"を連発すれば、爆音と衝撃であるいは……」
「我が国最高の魔法使いである貴殿でも、一度の詠唱では、それほどの破壊を引き起こせぬ……と」
「無力を恥じるばかりです……」
「よい。――諦める事は、せぬ。未だ神聖騎士団は健在。エトランタルの大地も、そこに生きる民もまた、健在。あの聖女が偽物であったにせよ、あの言葉は真実であると、信じる。神は手助けして下さらぬかもしれぬ」
神聖王エトガルド十四世は、謁見の間に集う皆を見渡した。
「だが、我々は自らの手で、自らを救うべきである」
重々しい言葉は、皆の胸に届き、心に染み渡り、希望を取り戻させた。
その短い演説は崇高で、まるで聖典の一節を耳にし、一枚の宗教絵画を見ているようだった。
だが同時に、皆の心に毒が忍び込む。
この前も、そう思ったではないか……と。
どうして、信じたのだろう。
見たのは、翼の生えた人間だけ。
ただ、美しいものを見た。
それだけで。
どうして、神の使いを目にして神様を信じるほど、愚かな事をしたのだろう?
彼は、遠征前に門番を務めていた時と同じように、城内の共用宿舎で休むように命じられていた。
上役も、同僚も、後輩も、ぼろぼろになって辿り着き、報告をした自分に優しくしてくれたが、それは慰めにしか、ならなかった。
簡素だが清潔で、綺麗に整えられたベッドに、身体を横たえる。
……白いシーツで、眠る事が出来るとは。
共に『聖女様』を、そして神を信じた者達は、あの白い雪の下に眠っているというのに。
自分は、伝えねばならないと、思ったのだ。
遺体を掘り出す機会はないとしても。
死者を悼むその祈りに何の価値もないとしても。
信仰のために、戦った人達がいた事を。
何もしてくれない神様を、信じた人達がいた事を――




