天使の微笑み
「マスター、起きて下さい。朝ですよ」
頭痛が、ひどい。
けれど、優しいリズの声が、聞こえる。
幻聴かな。
「リズがキスしてくれたら起きる……」
予想される未来は「何ふざけた事言ってるんですかマスター。さっさと起きて下さい。毒耐性低いから二日酔いとかなるんですよ」と言われながら、渋々起きるというもの。
けれど、ほぼ未来予知に近い精度まで至った私のリズ専用未来予測システムが、エラーを吐いた。
「仕方ないマスターですね……」
そっとリズが、ベッドに腰掛けるのを感じて。
頬に、彼女の唇が軽くちゅっ、と当てられる。
思わず目を見開いた。
酔いが、綺麗に消えていた。
正確には僅かに頭痛がするが、倦怠感はどこかへ消えた。
そんな場合ではないと、全身が警報を叫んでいるようだった。
そろそろと、彼女の方を見る。
そこには、天使のような微笑みを浮かべるリズ。
昇天したか!? と一瞬ぞっとしたが、部屋の様子は記憶と変わらない。
レベッカの代わりにリズがいるというだけだ。
これも、一応予定通り。
起き上がると、躊躇いながら、探るように挨拶する。
「おはよう……リズ」
「おはようございます。マスター。よく眠れましたか?」
「……うん」
「マスター。ここ部屋にお風呂とかないですからね。魔法で綺麗にしましょうか」
「あ……うん、お願い」
「はい。"浄化"」
何度か唱えられ、服と身体の汗臭さや酒臭さが、ほぼなくなる。
式典前以外は、訓練も兼ねて自分でやって下さい、と言われるのに。
――いや。仮にも各軍の精鋭が集結した場だ。
彼女は副官であり、暗殺者であり、監視であり、けれど仮にもメイドだ。身だしなみに気を遣ってくれただけの事だ。
そうに違いない。
そこでふと、思い至った。
「ねえリズ」
「はい、なんですか?」
「昨日のハーブ、幻覚作用とかある?」
「昨日のハーブ……ですか? あの"悪魔の誘惑"の事ですよね」
「うん」
「ありませんよ。酔いやすくする……酩酊感を助長する所があるので、浸けられた酒を飲めば、視界が多少歪んだりはしますが……何か、変な夢でも、見ました?」
今見ているのは、変な夢ではないらしい。
「ううん、ならいいんだ。ところで、私……昨日の宴の記憶が、あんまりないんだ。挨拶まではちゃんと覚えてるんだけど……」
ごくり、と唾を飲む。
「……私、何かした?」
彼女は、優しく微笑んだ。
「大丈夫です。変な事なんて、してませんよ。マスターが不安に思うような事は、何もありません」
こわい。
リズの笑顔は可愛い。優しい声も、好きだ。
けれど、これは怖い。
「その……ごめん……ね?」
おずおずと謝る。
リズに「最高幹部ともなれば、何を謝ってるかも分からないで謝れるんですね。随分と器用な事です。ある意味尊敬します」ぐらい言われるのは覚悟して、ぐっと歯を食い縛る。
「だから、謝るような事は何もありませんよ。変なマスターですね」
なのに、ちょっときつめの未来を想定して、精神汚染を最低限に抑える心の防衛システムもまた、あっさりとエラーを吐いた。
想定を超えた過負荷を受けたのではなく、全く負荷が来ないという、逆にぞっとする形で、だ。
「さ、朝食行きましょう」
「……うん」
手が伸ばされたので、その手を取る。
こんな時、手を伸ばして、くれなかった。
今までは。
「朝食頂いてきますね。ここでお待ち下さい、マスター」
「……ありがとう、お願い」
食堂で、私を席に残し、リズが軽やかに対面式の厨房へと向かう。
「マスター、おはよう」
少し離れた席にいたレベッカが手を振って、食べかけだったらしいトレイを持って近付いてくる。
「あ、レベッカ、おはよう。あのね、リズが」
「昨日は、よく眠れたか?」
「あ……うん」
「体調は、どうだ?」
「少し……頭痛い」
後、幻覚が見えたり幻聴が聞こえるかもしれない、とは言えなかった。
「そうか。回復魔法は得手ではないが、二日酔いぐらいなら対応出来るかもしれない。後で、試してみるか? それとも、専門の魔法使いを――」
「ううん! 怪我人とか、出てるでしょ。そっちを優先して。私のは、ただの二日酔いだろうし……」
慌てて手を振って、それを止める。
それにもうあらかた吹っ飛んだ、とは言いにくかった。
「そうか。だが、無理はするな。大事な身体だからな」
そして微笑むレベッカ。
こわい。
私、妊娠とかしてないよね?
思わずそんな馬鹿げた事を考えるほど、リズとレベッカが、優しかった。
――昨日私達は、大規模作戦を成功させた。
"病毒の王"は活躍した……と言っても、いいと思う。
魔力も、相当消耗した。
二人が優しいのは、だから、なのだろうか?
しかし……それならそうと、言ってくれるのではないか?
自分の知らない所で何かが動いている……それも、足下が薄い氷になって、その下に何か巨大なものがうごめいているような感覚に襲われる。
「マスター。お食事をお持ちしました」
柔らかく微笑んで、両手のトレイの片方を私の前に置くリズ。
「しっかり食べろ。朝食後には、下山だしな」
微笑んで、やはりいつもより優しい言葉をかけてくれるレベッカ。
嬉しい。
でも怖い。




