真夜中の訪問者
その夜『それ』はやってきた。
遠く聞こえる犬の声。
――いや、遠く、じゃない。
うちの子の声。庭……と、ベッドの中。
ベッドから半身を起こす。天蓋を開けた。
窓が、開いた。カーテンが冷たい夜風に遊ばれてはためく。
バーゲスト達の吠え声と唸り声の中、それは現れた。
満月に照らされてそびえ立つ、直立した筋骨隆々の黒山羊の姿。
――悪魔。
魔法的にも、肉体的にも優れた少数種族。
なおも唸り、吠え立てるバーゲスト達が、デーモンをじりじりと取り囲み――
「伏せ」
私の命令で、一斉に床に伏せた。
「待て。そのまま動くな。……大丈夫だからね」
ぽんぽん、と隣に寄り添う一匹の頭を叩く。
"病毒の王"が黒妖犬を使ったという事は知れ渡っている。
この館にもバーゲストが群れているという事は、街の噂になるほどだ。
それに勝てないような相手を送り込むはずもない。
「"病毒の王"様とお見受けする……」
「はい、こんばんは」
「その立ち居振る舞い……さすがは"病毒の王"様。魔王軍最高幹部の一人ですな……」
人間でいうなら五十を超えたベテラン男優のような、渋い声で褒められる。
しかし、続く言葉が予想出来るので、あんまり嬉しくない。
物腰は丁寧だが、こんな時間に、正規の手順を踏まずに訪れた時点で敵だ。
「だが、今日ここで、貴方には死んで頂く」
「ああはい。痛いのは嫌いだから、睡眠魔法か精神魔法を最初にお願いね」
頷いた。
「……聞いておられたのか? いや、抵抗は、なされないのか?」
「聞いてたってば。どう見ても手練れだし、トラップも見破るか壊すかしてここまで来たんだよね? タイミング的にも、リズ……うちの一番頼りになる暗殺者さんがいないのを狙って来たとしか思えないし」
今夜、リズがここにいない事を知っているのは、ごく少数のはずだ。
上位の権限を持たないとアクセス出来ない情報が、漏れている。
「陛下じゃないにしても、相当『上』が動いてる。抵抗する理由がない」
意図的に情報を漏らすなら、リズは私に相談してくれたはずだ。
それがなかったという事は、完全に切り捨てられたか、相手が一枚上手だったという事だ。
そして私は、後者だと信じている。
「自分の命が懸かっていてもか?」
「だから、私一人の努力でどうにか出来るレベルじゃないのが分かるぐらいの頭はあるんだよ」
抵抗するより、こうして話していた方が時間を稼げるレベル。
しかし殺される時は一秒で終わるので、時間を稼ぐ意味もない。
「どうせ、なんか人間に勝てそうな雰囲気になってきたし、そろそろこっちの人間も要らないかーってノリでしょ?」
「ノリ……いやまあ、そうなのであるが」
「でもまあ、痛くない死に方を希望するぐらいの貢献はしたと思うんだけど、そこのところはどう?」
「確かに……」
頷きかけ、首を振る悪魔さん。
「……いや、しかし……」
横三日月の山羊の瞳が、私を見つめた。
「――貴殿は、何のために戦うのだ?」
「この国のために」
私はきっぱりと答えた。
「何故、この国のために?」
「私を助けたのが、この国だから。ついでに、私をこの世界に召喚したのがこっちの人間だったからかな?」
「この世界……?」
あ、秘密だった。
曖昧に微笑んで黙っていると、デーモンが問いを重ねた。
「……同族を非道な手段で殺す事に抵抗は?」
「ない、と言えば嘘になるけど……」
言葉を切った。
「続きは?」
「いや、あの、殺さないの? 急いで死にたくはないけど、殺されるのを待つこの時間もちょっと複雑な気持ちなんだけど」
「……迷っている」
おや、意外な。
夜中に暗殺に来て、迷うとは。
暗殺者としては、うちの可愛い副官さんの足下にも及ばない。
「狂人には見えぬ。だが、まともな人間が出来るとは思えぬ所行だ。……そして、この国に必要なのではないかとも、感じる」
「自分で言うのもなんだけど、微妙なところだね。優秀なのはうちの部下だから」
その優秀な部下の一人であるリズが護衛に付いていれば、今のような事態にはならなかっただろう。
けれど、リズが本当にこのデーモンに勝てるか分からない以上、死ぬのは少ない方がいいのかも。
「念のために言っておくけど、この子達も含めて、うちの部下に手出ししないでね」
バーゲストの滑らかな首の毛を撫でながら、精一杯の力を眼に込めて、目の前の悪魔を睨み付けた。
「そうしたら、死ぬよ」
「……死んだ貴殿に、何が出来ると?」
「勘違いするなよ、悪魔」
冷たく吐き捨てて、目を細める。
「私は"病毒の王"。魔王軍最高幹部。種族が人間であろうが、この立場は陛下より公式に頂いたもの。何の嘘偽りもないぞ」
基本的な権限も、お給料も、何もかも私は最高幹部として規定された物を頂いている。
それを私は受け入れた。だから、こうしているのも――きっと、給料分なのだ。
「……でも、私が殺されたとして、陛下は犯人を追及しないだろう。国を割るから。――けどね。私の部下達は、別」
私が死んだ後、陛下が私の死を、内乱の火種にするような事は、ないだろう。
私は人間だったと公表し……どうにか収めにいくだろう。
それも込みでの「すまぬ」という言葉だ。
「私もあの方も、魔族が魔族を殺す事だけは、許さない」
けれど、魔族が魔族を殺したなら――それは、この国の存続に関わる。
この国は、全ての魔族を守るために建国された、寄り合い所帯なのだ。
「……後、心配なんだけど、鉄砲玉とかにされてない?」
「てっぽうだま?」
「あ、鉄砲ないな……ええと、そう、使い捨てにされる予定とかない?」
「……私は仮にも上位悪魔だ。その私を?」
「いや、多分犯人を追及しないって言ったけど、やっぱり私最高幹部だから、見せしめに犯人ぐらいは処刑されるかもって思って……」
どのレベルの『上』が動いているのか分からないが、最高幹部が、陛下の意志に反して殺されたなら……うん、やっぱりこのひと死ぬ気がしてきた。
それが現実的な『落とし所』だ。
「……もしや貴殿は、私の心配を?」
信じられないものを見て、聞いたような、そんな口振りだ。
「人間が、悪魔の心配をしているのか?」
「まあねえ。私個人に恨みがあるとかじゃあないんでしょ?」
「それはそうだ。命令であり、それが必要だからこうしているにすぎぬ」
「なら、私の仲間だよ。魔王軍のね」
私は魔王軍最高幹部だ。
けれど、私を失っても、"病毒の王"は死なない。
「まあやるならそろそろ。うちの怖いメイドさんが帰ってくるよ」
笑った。
死を覚悟すると、人間、結構静かな気持ちになるものだ。
人に魂があるとして。
天国や地獄のような、死後の世界があるとして。
異世界で死んだら、魂はどこへ行くのかな。
「……いや」
目の前の悪魔が、ゆるゆると首を横に振った。
「よそう」
「もしかして、暗殺やめてくれるの?」
「そうだ」
「ここで私がほっとした瞬間に、その顔が見たかったのだとか言ってやっぱり殺すとか言い出さない?」
「……その猟奇的な発想はどこから来たのだ?」
「割と常識なんだけどな……」
「じょっ……常識?」
面食らった――らしい――顔を見せる。
悪魔……それも上位悪魔自体あまり見かけない上に、初めて見る表情とはとてもレアだ。
「……貴殿の常識は、おかしいと思われる……」
「そっか……」
やっぱり私がおかしいのかな。
この世界は、異種族と絶滅戦争をしているけれど。
私の世界は、同種族と殺し合いを続けてきたのだ。
私は、自分の世界のやり方を、持ち込んだだけ。
「それで、本当に殺すのやめてくれるの?」
「信じていただきたい」
「暗殺に来た人を信じるのも中々難しくて」
「……それは……申し訳ない」
すまなさそうに頭を下げる上位悪魔。
どんどんレアな表情が増える。
「いや、暗殺やめてくれるならありがたい事だから」
このタイミングでやっぱり殺すと言い出されたら、さすがに絶望しそうだけど、まあその時はその時だ。
「ええと、私はどうすればいいのかな。黙ってればいいの? 報告しても?」
「私から陛下へと話し、裁可を仰ごう。――だが、その前に」
目の前の上位悪魔が、膝を折った。
「我が名はサマルカンド。我が真名をもって、汝を我が主とさせていただきたい」
美しい所作で、覚悟の決まった声で。
主君に忠誠を誓う騎士のように、片膝を突いて、ひざまずいた。
「絶対の忠誠を誓いましょう」
「ごめん、話の展開が急すぎて付いていけない」