山頂に待つもの
信仰心がなかったら、死んでいる。
それが彼の、偽らざる心境だった。
ようやく手に入れた、聖都王城の門番という、誰もが羨むような安穏とした立場を捨てたのは、信仰心ゆえだ。
本当は、門番という立場も、信仰心に溢れた敬虔な信徒にしか許されない。
だが、彼の中にあったのは見せかけの信仰心だった。
裏で教義を破っているとか、そういう事ではなく、単に神を信じていなかった。
エトランタル神聖王国において、信仰心のない者が出世する事は不可能だ。
だから、その振りをする。
経典を読み、暗記し、祈り、機会を見て教会に寄進すれば完璧だ。
そこまでして手に入れた立場を捨てたのは、真実の信仰に目覚めたゆえ。
『聖女様』に出会い。
『天使様』に出会い。
神聖王と聖女の謁見の末席で、聖女に預けられた神の言葉と、聖女自身の言葉で語られた演説を聞いた。
だが、信仰心があってさえ、雪に閉ざされた冬山は、地獄だ。
「犠牲を厭わず進軍せよ! 神の国はすぐそこである!!」
激励の声が、凍てつく空気より、なお寒々しく響く。
確かに、神の国は――天国は、すぐそこかもしれない。
剣も交えず、雪山に倒れた皆は、果たして神の国に行けたのだろうか。
既に何人が――何千人が倒れただろう。
おそらく、防寒具の性能差だ。
もっと言うと、防寒具に掛けられた"冷気耐性付与"の効力が低下したか、術式自体が消失したかの、どちらかだ。
防寒具の数を用意するために魔法使いがかき集められたが、全員がプロ中のプロでもない。これだけの数だ。一部に粗悪品が混ざったとしても、おかしくない。
そもそも、術式を維持する魔力自体、この環境下では厳しい。
未だ一人の脱落者も出していない、"福音騎士団"の方がおかしいのだ。
神聖騎士は、全員が魔法使い。身体強化を中心に、実戦的な魔法を習得し、特に教義にある不浄なる者共を滅ぼさんと、悪魔と不死生物に対して特化した攻撃魔法も多数習得している。
折に触れて発生する不死生物による被害が、三大国の中で、神聖王国が最も少ないのは、彼ら神聖騎士団の働きが大きい。
人にして、人を超えた者達。
彼らが先頭に立ち、雪を踏み固めてくれているからこそ、自分達一般兵や、民兵がこんな雪山をかろうじて歩ける。
だが、体力の弱いもの、魔力の少ないもの、運悪く粗悪な術式の防寒具を掴まされた者から、ばたばたと倒れている。
信仰が、寒さから身を守ってくれるものなら良かった。
自分が受け取った防寒具は、幸いな事に今も機能し、命を繋いでくれている。
それでも呼吸の度に鼻の奥がつんと痛み、耳はびゅうびゅうと吹き荒れる粉雪混じりの風を聞きすぎて遠くなり、そして、白い息を吐く度に命が抜け出ていくようだった。
振り返ると、来た道を死体が点々と転がっている。
遠い所ではもう、降り続ける雪に屍が覆い隠されていた。
助け起こすな、と言われている。
その言いつけは完全に守られているわけではないが、倒れて、腕を引いても起き上がれなくなった者は、置いて行かれている。
これは、神の試練なのだと……彼ら"福音騎士団"の一人は、何の曇りもない目で、そう言った。
皆が、本当にそれを信じたのかは、分からない。
自分は……そうは思わない。
これを、神が与えた試練とは、思えない。
だが、そうする事でしか、『白き山』を越えられないのならば、そうする。
白き山――リタル山脈は、純白の鱗をしたドラゴンの王が住むと言われる、天然の要害だ。
リストレア魔王国と他の国々を隔てる、実質的な国境線でもある。
現実的に、大軍での突破の難しい地形だ。
だからこそ、敵は油断している。
情報では、小さな砦があるだけだ。
昨日の夜、山の中腹での野営では、多くの者が朝、目覚めなかった。
今日、砦を攻略しなければ死ぬ。
……もしかしたら、これを狙っていたのだろうか?
薄ら寒い疑惑が、胸に忍び込む。
人は、追い込まれた時、力を発揮する。
自分達のように兵士の訓練を受けた者はともかく、民兵は、素の実力以上の力を発揮しなければ、生き残る事さえ難しい。
信仰心だけでは、足りないと思ったのならば……?
頭を振って、その恐ろしい考えを振り払った。
考えすぎだ。
それが、どれほど理屈の通った考え方だったとして。
そう考えれば、今までの全てが綺麗に説明出来るとして。
考えすぎ、だ。
「――砦が見えたぞ!」
目の覚めるような、歓喜に満ち溢れた声が聞こえた。
既に夕闇が迫り、さらに分厚い雪雲に遮られていても、確かに、黒々とした城壁の影がはっきりと見える。
歓声が湧き上がる。
不注意だとも思ったが、確かに歓声を上げたくなる喜びだった。
ちっぽけな砦だ。
噂に聞くリタルサイド城塞とは、比べ物にならない。
脱落者が多数出たとはいえ十万近い大軍の前に、紙の壁に等しい山城だった。
「――ようこそ」
全身の血が、凍った。
地獄の底から響くような、重低音の声が、はっきりと聞こえる。
未だ遠い城壁の上に一斉に松明が灯った。
その灯火に照らされたのは、一本の旗。
黒地の周囲を金糸で飾り、先端が二又に分かれた旗の中央に銀糸で縫い込まれた『あの』紋章は。
聖典に刻まれた、毒を人の心に注ぎ込んだ、手も足もなく、血の冷たい、おぞましい生き物の姿。
――短剣をくわえた、蛇。
「病毒旗……!」
恐怖に喘ぐように、誰かが叫んだ。
そして、その旗の下に立つのは。
深緑のローブの陰で、オレンジ色の単眼が、燃えるようにきらめいているのが、最初に見えた。
そして、青い輝きが、ねじくれた杖に鎖で縫い止められた宝石だと分かる。
風に遊ばれている肩布に刻まれているのは、邪教の文字だろうか。
肌を少しも見せないそれの種族は、分からない。
だが、人とは――亜人とは思えぬおぞましさ。間違いなく高位の悪魔か不死生物だろう。
やはり誰かが、恐怖を込めて、それの名を呼んだ。
「"病毒の王"……」
誰も、姿を見た事がない。
だが、あの病毒旗……時に惨劇の場に突き捨てられ、死体の中にはためく、あの憎むべき旗の下に立つ者が、他にいるだろうか?
あれは、おぞましきもの。
あれこそが、人類の怨敵。
それはまさしく、人類が滅ぼすべき悪そのものだった。




