信仰の毒
ランク王国にとって、エトランタル神聖王国の動きは、寝耳に水だった。
「待て。何と言った? ――"福音騎士団"を始めとする神聖騎士団が? 民兵を連れて、リタル山脈を山越えしてリストレア魔王国に侵攻する?」
王国を代表して神聖王国に駐留している大使役の貴族が、部下の報告を聞いて、額を押さえた。
「……馬鹿、なのか?」
深いため息をつき、激情のままに本棚から一冊本を抜き出して、勢いよく絨毯に叩き付ける。
「奴ら、とうとう信仰の毒が頭に回ったか!!」
叩き付けたのは、聖典だ。
ふう、ふう、と荒い息で激情を抑え込もうとする彼に、部下がおずおずと声をかけた。
「その……我ら王国の手法を、真似たようです」
「何?」
「以前、ドラゴンナイトの隊長を含む五人の精鋭で、リタル山脈の山越えをするという手法を使って、"病毒の王"を狙ったでしょう。情報によれば、喉元まで手が掛かったのは事実のようです。それで……その……」
彼は吠えた。
「まだ夏の終わりだった当時と、厳冬期に入りつつある今を一緒にするな! 大体、結果は失敗だ。何の成果も上がっておらん!!」
「……そう言われましても」
「……あ、すまん。お前に言ったのではないのだ。許せ」
ばつが悪そうに、軽く頭を下げる。
「いえ。無理もありません」
冷静さを保っている主に少しほっとして、部下は大使に言葉を続けた。
「……いかがされますか?」
「どうしようもないだろう」
聖典を拾い上げて机に放ると、どっかと椅子に腰掛けた。
「それともなんだ? あの狂信者共に、正論を説いて『先走ってドラゴンナイトを失われたランク王国の方達に言われたくはありませんね』とでも嫌味を言われてくればいいのか?」
「……言われそうですね」
部下は、ため息をついた。
"病毒の王"さえいなければ。
先行きは不透明だ。リストレア魔王国は、住人の数こそ少ないが、一騎当千の古強者が集う、『相手にしたくない国』だ。
人間は勝てる。
だが、間違いなく出血する。おそらくは、一国が傾く程度には。
では、その一国は、どこになるのだ?
平等であればいい。しかし、運悪くどこか一国がその被害を被った場合は……?
ランク王国にとって、そのための最強の駒が、"ドラゴンナイト"だった。
しかし、今ではランク王国がその最強の駒を失い、影響力が弱まりつつある。
神聖王国に領土的野心はない――という事になっているが、本当に領土的野心がなければ、そもそも建国さえ行われているはずがない。
信仰は民衆をまとめ上げる手段だというのが王国にとっての見方だが、いつの世も本末転倒というやつは大手を振ってまかり通るもので、聖典を絶対とする派閥もいるのだ。
帝国に関しても言わずもがな。
合理的な国だから、無理に他国へ侵攻もするまいが、周辺部族を統合してのし上がった砂漠地方の軍事国家なのだ。
豊かな穀倉地帯を欲しているのは、間違いない。
――いつでも、人間は敵となりうる。
かと言って、今回神聖王国が被害を受けたとしても、それを手放しで喜べるはずもない。まだ勝ってもいないのだ。
だが、比類なき軍功を上げてしまったら……神聖王国の主導で今後の情勢が決まるかもしれない。
「もう少し詳しい情報はあるか? そもそもなんだって奴ら、そんな無茶な計画を言い出した? ――神の言葉を記した預言書でも見つかったか?」
最後は場を和ませるジョークのつもりだった。
けれど、部下はなんとも言えない表情になる。
「……冗談だぞ?」
「いえ、それが、そのー」
「はっきり言え。今さら躊躇う仲でもなかろう」
部下は観念したように頷いた。
確かに長い付き合いだ。
彼は激情しやすいが、その分情も深い。たまに理不尽に怒鳴られる事もあるが、後からきまり悪そうに謝罪してくるのだ。
今では立場を超えた、友人のように思っている。
口に出したりは、しないが。
「はい。……『天使』を連れた『聖女』が『神のお言葉』を神聖王エトガルド十四世に伝えた……と」
「天使ィ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げていた。
「……そんなものを信じるとは……世も末だな」
「全くです。ですが……その……天使とやらは、幻影魔法や変身魔法ではないようなのです」
「なんだと?」
「精神魔法による鑑定もまた、同様に……間違いなく聖女……だと。少なくとも本人は信じ込んでいるとしか」
「天使の目撃証言は、あったか?」
「神話の類ですね。聖典の権威を借りるためのプロパガンダと思うのが妥当なものばかりです」
「だよなあ。まあ、悪魔や竜、魔族共がいるんだから……天使ぐらいいるのかもな……」
「けれど、大軍でリタル山脈越えは無茶ですよね」
「無茶だな」
彼は椅子に一際深く腰掛けて、ため息をついた。
「神様を信じて戦争やれるやつらの気持ちは分からんよ……」
「私もです」
二人して、深く頷き合う。
「それで……『例の物』を使うつもりのようですね。一応協定上、連絡が」
「……ああ、アレか」
また、彼の表情が不機嫌そうに歪められる。
そして、不機嫌を部下には向けず、床に吐き捨てた。
「狂信者共には、似合いの薬だろうさ」




