門番と聖女
彼は、正直な所、信仰心というものを持ち合わせていなかった。
エトランタル神聖王国の、同名の首都――白い都と謳われる、聖都エトランタルの王城の門番を務めていながら、だ。
戒律は守っている。
戒律は、いい事を言っている。何も盗むな。奪うな。その他、沢山の戒律全てを守っていれば、法律を守って生きているのと同じ事だ。
彼は祈りの時間も、嫌いではなかった。
本音を言うと、仕事中でも朝夕の祈りの際、ひざまずいて手を組んで目を閉じられるというのは、恰好の休憩の機会だった。
宗教画も、宗教建築も、祈りの言葉も、教会に漂う荘厳な空気も何もかも、嫌いではない。
それでも、信仰心と呼べるものは、なかった。
絶対神も、その神の御使いたる天使も、本当の聖人も、奇跡も、何もかも見た事がないのだから。
多分、過去聖人と呼ばれた人達は、名だたる魔法使いだったのだろうと思っている。
だから――目の前の、ただの村娘の言葉を信じる理由など、何一つなかった。
「神の御名において。門を開けなさい。道を空けなさい。私は、この国を救いに来たのです」
その、はずだったのだ。
それ以上一言も発しない金髪の娘は、美しい顔立ちをしていたが、それだけだった。
なのに、彼女が引き連れている、老若男女も多種多様な群衆は全て、彼女を崇拝の目で見ていた。
隣の同僚に目くばせして、揃いのハルバードを彼に預けて、一歩前に進み出た。
自分の方が門番歴が長い。万が一同僚――後輩――のミスで、この群衆に取り囲まれて殺されるのは御免だ。
「……それは、出来ない。許可のない者の通行は、許されていないんだ」
事務的な返答をするしか出来ない。けれど、武器を手放しての、精一杯丁寧な返答を心がけた。
「分かりました。ではお伝えなさい。私は、王と枢密院の大司教様方に神の言葉をお伝えせねばなりません」
神聖王と、枢密院の九人の大司教。
それは、間違いなくこの国のトップであり……ただの村娘が会いたいと言って会えるほど、軽い立場ではない。
「……あなたは、城内の者に伝手があるだろうか? そうでないなら、王も、大司教様方も、お忙しい方々だから、会う事は出来ないだろう。月に一度の謁見の際に申請し、抽選に当たるしか……」
「聖女様のお言葉に従わないというのか!」
「抽選など待っている暇はない!」
「引きずり倒せ!」
思わず顔が引きつったかもしれない。
ああ、せっかく努力して、この平和な聖都で、責任は重いが安全な、王城の門番という仕事にありつけたのに。
聖女とか名乗る頭のおかしい女が率いる群衆に取り囲まれ、あまつさえ暴力的な空気が流れ始めた。
「おやめなさい」
しかし、目の前の村娘にしか見えない『聖女様』は凜とした口調で制した。
「彼は、彼らは、勤勉に職務を果たしているだけです」
「ですが……」
「どうか、お伝え下さい。神の言葉を預かった者が来たと。――神の御使いが来たと」
「あなたが……神の、御使いだと?」
「いいえ。神の御使いたるものは、天使様だけです。……どうか、尊きお姿を、お見せ下さいますよう……」
彼女は、手を組んだ。
どんな宗教画よりも、美しい。
なんだ、この気持ちは。
そして――彼女の背後の光は、なんだ?
光の中から歩み出るように現れたのは、白いフードを目深に被り、同じく白の長衣をまとった、美しい女性。
汚れやすい白の服なのに、一点の染みも、くすみさえもない。
そしてその白さえもまだくすんでいると思えるほど美しい、この色だけを純白と呼べるほどのまばゆさを湛えた、白い翼が、その背には生えていた。
「……お伝えします」
「せ、先輩」
「お前はここにいろ。武器は下に置け。絶対に刺激するな」
同僚の肩を掴み、耳元に早口でささやいて、二本のハルバードを下に置いたのだけを確認すると、するりと通用門から城内に入る。
待機所の同僚達にも、門へ行くように声をかけてから、上役の所へ向かう。
胸が高鳴り、知らず知らずのうちに、走り出していた。
彼は、信仰心を持たなかった。
そして、それが愚かな事だと、悟った。
神はいる。天使様がいる。
この世界には、信仰に応えるものが、ある。
神の御使いを目にして、神様を信じないほど、愚かな事があるだろうか?




