"戦場の鬼火"
穴の奥にいたのは、リベリットグリズリー。
それも、レベッカの言う『最大個体』だ。
筋肉質な全身が、闇の中では黒にも見える焦げ茶の剛毛で覆われている。
気配を感じていたのか、伏せたままこちらを睨んでいた熊が、立ち上がった。
熊が立つのは、攻撃態勢を取ると同時に、こちらの様子を窺っているのだと、聞いた事がある。
(お姉ちゃん! キリンさんだよ!)
覚えているとも意識していなかったような記憶が、微笑ましく愛らしい声と共に、私の脳裏に鮮明に蘇った。
年の離れた妹と、二人して動物園に行った記憶。
キリンを見上げて、いつもは少し、甘えるのを遠慮する所もあるような妹が、年相応の明るい笑顔で甘えてくれたのが嬉しかった。
そのキリンさんを思い出すほどの、巨体。
走馬灯かなあ、と思うほどの絶望感。
しかし皆は、遠い目をする私をよそに、臨戦態勢に入る。
「リズ。サマルカンドとハーケンを貰うぞ。お前は、マスターの護衛に専念していい」
「了解です」
リズがサマルカンドから松明を受け取り、サマルカンドの手には、黒く揺らめく大鎌が握り込まれた。
彼は魔力による武装生成を好む。詠唱さえ行わないのは、これが悪魔固有のスキルであり、魔法とは少し違うのだとか。
ハーケンも、長剣を抜く。切っ先まで、不死生物特有の青緑のオーラが炎のように燃える。
「サマルカンド、ハーケン。盾役、任せる。左右から挟撃して注意を引け」
レベッカが、右手にワンド、左手に短剣を握り込む。
「御意」
「了解した」
「たまには我らがマスターに、力を見せつけてやらねばな」
レベッカが軽く言い、サマルカンドとハーケンがまとう空気が緩む。
それを挑発と見たのか、リベリットグリズリーが吠えた。
防御魔法がなければ鼓膜が破れて昏倒していたのではないかと思うほどの声量であり、威圧感。
思わずびくりと肩が跳ね、一歩後ずさってしまう。
全身が、震える。
恐怖よりも、その音量そのものが質量を持っているゆえだ。
しかしサマルカンドとハーケンは、自分の十倍はありそうな熊の威嚇に全く臆せず、前に出た。
サマルカンドが上段から叩き付けられる丸太のような右腕を避け、上から抑え込むように大鎌を振り下ろし、引いた。
地面に突き立った大鎌の刃が剛毛に阻まれながらも毛皮に食い込み、赤い血が噴き出す。
もう片腕をサマルカンドに叩き付けようとしたが、ハーケンが反対側から突進し、突進の勢いに全体重を乗せて、長剣を鍔まで突き通した。
金属鎧でさえ貫通するだろう破壊力の一撃に、不死生物の生命吸収が乗る。
だが再び上げられた吠え声は、苦痛と言うよりは怒りの咆哮だった。
ハーケンが、振るわれた左腕を、長剣を突き立てたままにして、身を投げ出すように後ろに跳んで、かろうじてかわす。
転がって起き上がると、短剣を抜いて構えたが、いかにも頼りない。
「よくやった、二人共」
それまで動かずに見ていたレベッカが跳んだ。
サマルカンドが全身の筋肉を膨張させ、大鎌を鉤のように使って一瞬抑え込んだ右腕の上を、小さな身体が黒い蝶のように軽やかに駆ける。
振り落とそうと暴れる勢いに、サマルカンドが大鎌ごと跳ね飛ばされ、ハーケンも近付けない。
しかしレベッカは危なげなく不安定な『足場』を駆け抜けて、もう一度跳んだ。
空中で身体を捻って一回転して、頭の後ろにするりと取り付く。
首筋に左手の短剣を突き立てて身体を固定し、右のワンドを眼球に突き込んだ。
今度こそ、苦痛の咆哮が上がる。
レベッカの静かな詠唱が、洞窟内に響き渡る咆哮の中、不思議とはっきりと聞こえた。
「"火球"」
生々しい、くぐもった破裂音が響き、両の眼球が弾けて飛んだ。
ぴちゃっ、と、眼窩から衝撃で弾き出された脳の残骸が足下に飛んでくる。
ぐらり、とリベリットグリズリーの巨体が倒れ、洞窟内が振動する。
倒れる寸前に、短剣を離し、ワンドを引き抜いていたレベッカが、その背にふわりと降り立った。
「『食い甲斐』があるな」
レベッカのワンドが、指揮棒のように振るわれた。
倒れた熊の全身から染み出すように、青緑のオーラが彼女のワンドに向かって伸び上がり、それが先端で結実し、燃料もなしに青緑の燐光を放ちながら静かに燃える鬼火になる。
私は、思わず呟いていた。
「"戦場の鬼火"……」
「……二つ名で呼ばれるのは、恥ずかしいんだがな」
言葉通り、レベッカがちょっと照れ気味に微笑んだ。
「さすがレベッカですね。一発の"火球"でリベリットグリズリーを倒すなど、まず出来ませんよ」
いつでも飛び出せるようにしていたリズが、構えを解いて、手放しで彼女を賞賛する。
「私は不死生物だからな。魔力が尽きれば消える身としては、数を連打するわけにはいかない」
不死生物に魔法使いが少ない理由だ。
アンデッドは基本的に、接触相手から魔力吸収するという種族特性を持つため、接近戦が向いている。
骸骨もそうだが、特に死霊になれば『身のこなし』という概念が人とは異なるし、生物的な気配もない。
筋肉がないため非力な所もあるが、苦痛や疲労がないため、まず問題にはならない。
しかしアンデッドは、強くなればなるほど、燃費が悪い。
『生きて』いるだけで、魔力を消費する。
そして魔力が空になれば『死ぬ』。
魔力を破壊的な事象に変換して叩き付ける攻撃魔法との相性は、よくないのだ。
「ゆえに眼球を貫き、脳に直接攻撃魔法を叩き込む。そんな風に急所を狙えば、それで片が付く」
静かに語っていたレベッカが、苦笑した。
「……暗殺者に言う事では、ないか」
「いえ。身のこなしも含めて、勉強になります」
和やかな空気が流れる。
皆の口振りから勝てる相手だという事は分かっていたが、それでも、危険な魔獣相手だ。
この世界にも、絶対はない。
今日、この場で、誰かが欠ける可能性もあった。
仮面を外し、皆をねぎらう。
「三人とも、お疲れさま。無事で何よりだが、力を見せてもらった」
そこで、私の護衛として戦闘に参加はしなかったリズに笑いかける。
「リズもね」
改めて、宣言した。
「四人の力を合わせた勝利だと、思っている」
そこで、すり寄ってくるバーゲスト達の頭を順番に撫でた。
「お前達もだよ。ご苦労さま」
そこでリズが、少し不機嫌そうに口を開いた。
「……五人、ですよ」
「え?」
「五人の力を合わせた勝利だと、この場の全員が思っております」
皆が一斉に頷く。
「我が主がご覧になられているという事が、私にとって何よりの誉れであり、力の源でございます」
「うむ。勝利を捧げる主がいなくては、甲斐がない」
「まあ、気合いは入ったな」
私は、ちょっと微笑んだ。
「ありがとう、みんな」
それが上官に対する気遣いの一環だとしても、嬉しい。




