2 探していた感情
今後の方針も決まりやることが明確になった楓はまず自分の知識のアップデートをすることから始めた。
いくら楓が前世で規格外のクリエイターだったとしても13年が経過している。13年も経てば当時の知識など化石に等しい。
特に楓がいた世界はデジタル技術がほとんどのためその進化のスピードは年々上がっていただろう。
となると現在の技術力と自分の持っている知識の乖離をまずは穴埋めする必要があるだろう。
……というわけで朝のホームルームまでの時間で、楓は色々な技術書を読むようになっていた。
面白いのは技術は進歩している中で逆に昔の文化や作品が再評価されているところだった。
楓が前世でまだ子供だった頃に流行った曲のジャンルが何故か海外で再燃しブームとなっていたり、漫画も本もデジタルに移行してはいるがまだまだ実体のある媒体も残っており、棲み分けされている。
あえてカセットテープで新曲を発表するアーティストもいた。
実際に楓が今読んでいる技術書もあえて紙媒体で買ったものだ。
もしもデジタルで買っていたらパソコンで作業しながら1つのモニターで技術書と作業アプリを移動しなければならず非常に効率が悪いからだ。その点本で買えば本を片手にパソコンを操作できる。
デジタルなのか、アナログなのか、はたまたそれ以外の形で世に出すのか―
制作物を表現する媒体はどのアーティストや企業も模索中といった感じであり、楓にとっては今後の動きが楽しみなところである。
「おはよう楓」
本を読むのに夢中になっていると史織が登校してきた。
「おはよう」
「なんかいつもと違う感じの本を読んでるね、何の本?」
楓はいつも早めに登校しており朝のHRが始まるまでの間は本を読んでいることも珍しくないのだが、今日はいつもの文庫本サイズの本ではなく少し大き目な本を読んでいるのが史織の目に留まった。
読んでいる本について尋ねると読み進めている段階にもよるが楓はその本のあらすじを楓なりにまとめて史織に話してくれる。そのあらすじのまとめ方が非常に上手く、楓のあらすじを聞いてついつい史織もその本を買ってしまうことも少なくない。
「んー、これはいつもの物語というよりは学校の教科書みたいな感じかな」
「へー。何の教科書なの?」
「一言でいえばプログラムかなぁ」
「プログラム?」
楓の口から出てきた言葉が予想の範囲から大幅に外れており思わず目をパチクリさせる史織。
「まぁ私も完全にわかってるわけじゃないんだけど……例えばパソコンで文字を打つでしょ?」
「うん」
「その時には『このキーを押したらこの文字を表示するようにする』っていうプログラムが動いてるから文字が打てるんだよね。つまり『こうしたらこういう処理をしてね』っていう指示みたいなものかな。身近なとこで言ったらエレベーターとか、自動販売機とかもプログラムで動いてるらしいよ」
「へぇ~……」
なぜいきなりプログラムの本を読み始めたのか、という疑問を史織が口に出すことは無かった。楓がある日突然全く新しいことに興味を示すのは出会った小学生の頃からよくあることだからだ。
(また何か夢中になることを見つけたんだろうなぁ)
史織が初めて楓に出会った時、楓は毎日のように学校から配布された自由帳に絵を描いていた。配布された自由帳はあっという間に埋まり楓は小学生の間だけで700冊も自由帳を使った。
本にハマれば授業中もお構いなしに本をこっそり読んでは先生に怒られていた。
そして今も何か新しいことに夢中になり始めているのだろう。現に数学の授業が始まり次の回答に指名されるのは楓だというのに完全に自分の世界に入っているのが後ろの席からでもわかるほどだ。
(なんだか最近ちょっと変わったなぁって思ったけど、根っこはずっと一緒だなぁ)
案の定、数学担当の藤沢先生から授業に集中しなさい、と怒られる楓を見ながら史織はふふっ、と笑うのであった。
◇
「なぜ呼び出されたのか、わかるよね?」
人生2周目、精神的には立派な大人である楓だが、がっつり説教(しかも多分前世の自分より年下の先生である)を職員室にて受けていた。
藤沢雪穂先生は柔和な雰囲気で実際優しい先生だ。年齢は楓にはわからないが前世の自分よりは恐らく若く、その優しい笑みに男子はもちろん女子からも人望がある。
藤沢先生が全く怒っていないようなにっこりとした笑みで楓に問いかけてくるが、しかしそれが逆に楓にとってプレッシャーを煽る形になる。
「授業を聞いていなかったからだと……」
「そうね。先生の授業ってそんなにつまらないかしら……」
「えっ」
てっきり怒られると思って身構えていたのだが藤沢先生の意外な言葉に逆に肩透かしを食らう楓。
「数学って、確かに中学生ぐらいの頃の子からしたら勉強する必要なんてない、って思うわよねぇ」
「そんなこと、ないですよ」
投げやりにそう言う藤沢先生に、楓は強く言い切った。
「私たちの身の回りにある生活品も、車も、家も、何もかも数学の知識が必要不可欠です。『数学なんて勉強しなくても生きていける』なんて言えるのは他の誰かが数学を一生懸命勉強してくれて、その知識を色々なことに役立ててくれてることに気づいていない阿呆の言うことです。私は数学は、今の社会に無くてはならないものだと思いますよ」
言い切ってから楓はハッとする。藤沢先生があまりにも悲しそうだったのでついついムキになって数学がいかに大事か偉そうに言ってしまったが、数学のプロに向かって、しかもまだ中1の子供から今更そんなわかりきったことを聞かされても耳にタコだろう。
「ふふっ、ありがとう。川原さんって優しいのね。でも、そういう割には授業を聞いてなかったみたいだけど―」
「そ、その点に関しては本当に申し訳ないです。以後無いようにします……」
「はい、気を付けるよーにっ!でも、本当に嬉しかったわ。正直、数学がどれだけ大事かわかって勉強してる子なんて中学生じゃほとんどいないもの。私も何が面白いのかわかってもらうのをどこか諦めていたのかもしれないわね」
そう言いながら窓から部活動をしている生徒を見つめる藤沢先生はどこか悲しげだった。
「……ところで、今パソコンの画面に映ってるのって明日の授業で使うプリントですか?」
「そうよ。と言っても2年生のだけど」
「ちょっと見てみてもいいですか?」
「いいわよ~。と言っても1年後に習う内容だから、見てもつまらないと思うけど……」
藤沢先生に許可をもらったので楓はマウスをスクロールさせ資料に目を通す。
一通り目を通した楓の感想は
(Oh……)
一言でいえば、まぁアレな感じだった。
まず、文字の色。
カラフルにしたいのは別に構わないが、色を使いすぎて完全に色彩の暴力と化している。
そして次に使用している画像の解像度。
どの画像も解像度がバラバラでありきれいに見える物から荒い画像まであり、まるで解像度のデパ地下状態である。
というかこの「数学大好きスーガくん」って藤沢先生ぇ……。
最後に、全体の構成。
藤沢先生のまじめなとこが詰まった良い構成である。だが、いささか真面目過ぎる。
びっちり埋まった文字とクソ真面目な解説。冗談を挟むスペースなど一切ないという感じである。その文章とところどころに出てくるスーガくんの対比が謎のシュールさを生み出している。
前世ではクリエイターの世界に身を置いていた楓にとって、お手本のような添削事例がそこにはあった。
「―先生、わたし、ちょっとこのデータいじってもいいですか?」
「えっ、でも川原さんこれ2年生の内容だし、パソコン触れるの―」
「少しだけですから。10分あれば終わります」
「う、うん。いいわよ」
有無を言わせぬ楓の謎の目力に押され了承する藤沢先生であった。
◇
「まず使ってるソフトですが、藤沢先生が使っているソフトは印刷物を編集するのには不向きですのでこちらのソフトを使ってみてください。こんな感じでテキストの編集や配置、画像の切り抜きから図形の配置、さらにはこのようにマウスで線をコントロールして線を引けますので簡単な絵も描けます」
「でもこれって、どのパソコンにも入ってるの?」
「この学校のパソコンでしたら間違いなく入ってますよ」
そう言いながらも爆速でデータを編集していく楓。締め切りに追われ数々の修羅場をくぐってきた楓からすればこれぐらい朝飯前である。
「次に画像ですが、ネットには親切なことに無料で使用できる高解像度の画像サイトが沢山ありますからそれを利用してください。たいていこの様に切り抜きされた素材ですので非常に使いやすいですし」
「こんなサイトがあるのね……知らなかったわ」
「今や学校に行かなくてもネットで義務教育を終えられるレベルで色んな勉強サイトがあるみたいですけどね……」
「それは先生どうかと思うわ……」
「同感です……」
ネットの出現で大抵のことは独学で何とかなるようになったが、それでも聞けば答えてくれる人がいるというのは非常に大きいアドバンテージだ。まぁそれに気づくのは皮肉にも社会に出てからだったりするのだが……。
「次に構成と文章。私だったらこんな感じでまとめます」
「すごくさっぱりしてるわね……。あとこの範囲に関する雑学が多め?」
「その通りです。詳しいことは教科書にすべて載っているでしょうし、わざわざこの資料で再度解説する必要はありません。むしろ教科書に載っていないようなことを沢山書いてあげるほうが生徒の数学に対する見方を変えるきっかけになると私は思います」
数学を学ぶ必要がないと錯覚させる理由の一つに「何に役立つかわかりにくい」というのがあると楓は考えている。
よくわからない移動する点Pを求めろとか、じゃあそもそもなんでそれを求めなきゃいけないんですか?と生徒が思うのも当然だと思う。
だからこの式はこういうところで役立っている、こういうことに使われていると教えてあげることが大事だ。まぁそれを伝えたから全員が全員数学を勉強してくれるようになるわけではないが。
(……人は結局、本当に必要になったときに本気で学ぼうとするからなぁ)
楓も正直、前世では社会に出てからむしろ勉強するようになったタイプだ。
それは社会に出て「こういう知識が必要だ」と身に沁みて感じたからであり、働いていない学生のうちから勉強をさせるのは非常に難しいだろう。
大事なのは勉強することではなく、何をしたいのかだ。真の勉強はそれを見つけた先にあると楓は思っている。
「最後に、私の作ったプリントを見て藤沢先生はどう思われましたか」
「そうね……数学に興味を持ってもらいたいという気持ちがすごく伝わってきたわ」
「それなんです。何かを作るときに一番大事なのが『それを受け取った人に何を感じてほしいか』なんです。今回で言ったらこのプリントの目的は『数学に興味を持ってもらうこと』だとしましょう。使用する画像、文章、構成、色使いまで全てその目的に沿ったものを自分なりに考えて作らないといけないんです。もっといったらその目的を果たすためにそもそもプリントを作る必要があるのか?プリントという媒体でいいのか?というところまで考える必要があります」
「そうなのね……」
そこまで言ってから楓はポカーンとしている藤沢先生に気づいた。
「す、すいません偉そうに」
「いえいえ、でも川原さんの言うとおりだと思うわ。正直、私からしたら『プリントは作って配るもの』って思いこんでいたもの。それにしても川原さんってすごいわね。パソコンもこんなに触れるし何より考えがちゃんとしているわ。授業中も考え事をしているからかしら」
クスクスと笑いながら今日のことをからかってくる藤沢先生。どうやら出過ぎた真似をしたことへの藤沢先生なりの返答なんだろう。
「これからの先生の授業、期待してますよ」
「任せて。なんだか久々にワクワクしてきたわ。ありがとね、川原さん」
「いえいえそんな、こちらこそ色々と失礼しました。そろそろ帰りますね」
「長い時間引き止めてごめんなさいね。帰り気を付けるのよ」
「ありがとうございます!」
小さく手を振りながら見送ってくれる藤沢先生に頭を下げつつ、楓は職員室を後にした。
◇
1週間後、楓が廊下を歩いていると向こう側から教材を片手に楓へ手を振っている藤沢先生がいた。
楓も手を振り返すと藤沢先生が小走りでこちらへと駆けてきた。
「川原さん!最近私の作るプリント2年生からすごく好評なの!」
何かと思えば先週の1件のことだった。
とはいえ楓も気にかけていたことなので、とても嬉しかった。
「川原さんの意見を取り入れて、色々考えてみたの。例えば今の範囲だったら実際にその方程式を使うシチュエーションを私が用意して、問題のプリントを作ってみてるの。例えば今日だったらコンビニのバイトをしている時のレジのお金の計算、とか。まぁまだ中学生だからバイトはできないけどね」
「いいじゃないですか!」
実際に使ったプリントを見せてもらうと楓が言ったことを吸収しているのはもちろん、藤沢先生独自のアイデアが随所に盛り込まれており、その式を解く意義が非常にわかりやすいプリントになっている。解けたら将来どういうことに役立つかも身をもって知れるところが非常にグッドだと楓は思った。
「うわー、藤沢先生すごいなぁ」
「すごいのは川原さんよ」
「いえいえ、藤沢先生はすごいです。だって私みたいな子供の意見でも正しいと思えば取り入れて、しかもそれを更に自分のやり方で発展させてますもん。中々できることじゃないと、私は思いますよ」
「素直にありがとうと言っておくわね。でも私、川原さんから教えてもらったことはプリントをきれいにまとめることでも、奇抜なアイデアを出すことでもないわよ」
「え?」
そうだろうか。楓としてはデザインの基本的なノウハウを教えたに過ぎないと思っているのだが。
「川原さんは私に、まだ教師になりたての頃の気持ちをもう一度教えてくれたわ。真面目に授業を受けてくれない生徒に勝手にうんざりして、勝手にどこか諦めていた私に『そんなんでいいの?』って言ってくれた気がしたの。一番大事なのは、『こうしたい』っていう気持ちなのね」
その瞬間、楓の心には今まで感じたことのない感情が芽生えていた。
前世ではずっと己の表現したい世界のためにその力を振るってきた楓。遺憾なくその力を発揮できた前世ではあったがいつもどこか満ち足りていなかった。
(私が前世でずっと求めていたのは―これだったのかもしれないな)
そう思うと自然と笑みがこぼれてしまう。そんな楓を不思議そうに見つめる藤沢先生に楓はパーを突き出した。
「どうしたの、川原さん?」
「ほら、物事が上手く行ったときとかによくやるじゃないですか、なんでしたっけ」
「あら、ハイタッチね」
「それです、それ。なんかちょっと、憧れてたんですよね」
「いいわよ。せーの―」
パチン、と春の風が吹く廊下に2人の手と手がぶつかる音が響いた。